「水槽」

「つまり、君は同僚の手を引きながらトンネルを歩いていたが、

 手近な壁に手を当てたら偶然にも穴が開き、運良く外に出られた…と。」


空間委員会のビルの中。

三人だけの会議室。


スミ子の話に曽根崎は、

首をかしげながらも紙コップのコーヒーを口にする。


「うーん、まあ、確率的にも無くはないか。

 場所が不安定であれば、空間に穴が開くこともままあるし…」


そう言いつつも、

思案にふける曽根崎。


スミ子とすでに上司と雇い入れの話が済んだユウキの前には

カップに入れられたジュースとお菓子の箱が置かれている。


机の上には録音のためのボイスレコーダーがせわしなく動き、

壁に掛けられた時計は正午を指そうとしていた。


空間委員会の本部は

街の旧市役所の地下にあった。


エレベーターに職員のカードを通すと階下へ降りる仕組みになっていて、

曽根崎曰く『18号室』に入られないための対策だという。


「18号室は空間に関連した危険物を置いておく保管庫でね。

 外部に漏れれば大変なことになるものも幾つかある。

 本部自体も職員なしではいけないようになっているんだよ。」


内部は普通の役所と同じ。


スペースが三つに区切られており、

それぞれ「総務課」「対策課」「修復課」と

書かれた看板がぶら下がっている。


ただ、その奥にも部屋があるらしく、

廊下の壁には「関係者以外立ち入り禁止」と

札の下げられたカラーコーンが置かれていた。


「その中でも空間内で修復や収集処理を担当する

 技術者の事を我々は『空間修理師』と呼んでいるんだ。

 雇用の方法はいくつかあって本部に常駐する専門家や、

 独立した事務所を持ち委託として雇われる人間もいるが、

 基本的に現場で活躍するプロ中のプロだね、彼らは。」


曽根崎は部署の中の「修復課」へと向かうと、

机の中からごそごそと2枚分の名札を取り出し、

ユウキとスミ子に渡す。


「許可証だ。部屋ごとに移動する際にカードが必要になる。

 あと『飲食禁止』と書かれた場所では絶対にものは食べないでくれ。」


曽根崎曰く、部署内の一部が空間と混じってしまっているため、

迂闊に食べると人間ではなくなってしまうという。


…それって、かなり怖いことなのではないのだろうか。


スミ子はふと、パンを空間内で飲み込んだために、

イセエビになってしまった同僚のことを考えた。


一歩間違えれば、

自分も一生あのままの姿に

なってしまうのかと考えるとゾッとする。


曽根崎の話を聞きつつ、

ユウキはワクワクとした様子であたりを見渡している。


バイトとはいえ修理師として

使ってもらえることがよほど嬉しいのだろうか。


曽根崎は続けてボイスレコーダーを机から出し、

近場の会議室を指差した。


「スミ子さんの話は向こうで聞こう。

 話が長丁場になる可能性もあるからね。

 欲しいものがあったら言ってくれ。

 近くの自販機で私がおごってあげよう。」


そして曽根崎は会議室の扉を開け、


…それから20分後、

スミ子は事の顛末を話し終えていた。


話した時間は30分にも満たなかったが、

実際に体感した時間はその倍にも思えた。


空間から出てくるまでのことを考えるとぐったりする。

いかに自分が危ない橋を渡っていたかもよくわかった。


「…同僚の女性と君の会話が食い違っていたのは、

 おそらく時間軸がズレていたからなんだろうな。

 事象は変わらないから結果的にあの姿になると考えられるが、

 まあ、概ね典型的な空間移動の例としてみることができる…と。」


そう言うと、曽根崎はレコーダーのスイッチを切り、

一つ大きく伸びをした。


「お疲れさん。報告は上に回しておく。

 悪いけど、後で簡単な書類にサインしてくれ。

 帰りは送っていくし…そうだ、残ったお菓子はいるかい?」


全く手のつけられていない

菓子箱を手に取る曽根崎にスミ子は首を振った。


正直、飲み食いをするほど気持ちに余裕はない。

どちらかといえば休みたい。


すでに頭は随分とぼんやりとしていて、

朝の気分の悪さがぶり返しつつあった。


スミ子は曽根崎にトイレに行かせて欲しいと頼むと

曽根崎はその気持ちを汲んでくれたのか右のほうを指差した。


「トイレは角曲がった右ね。あ、そうそう。

 ユウキくんは今後のバイトについての話を上と話し合った後で

 今の話のテープ起こしを手伝ってくれるかな?」


「はい、喜んで。」


雇われるのがそんなに嬉しいのか、


スミ子はなんでそんなに楽しげに仕事ができるのかと訝しみつつ、

用を済ませにトイレへと向かった。


…そしてトイレから出た後、スミ子は気づく。


「関係者以外立ち入り禁止」の札の下がったコーンの向こう。


職員が覆いをした巨大水槽を台車に載せて運んでいく。

その水槽から覗く節くれだった足に、スミ子は見覚えがあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る