「鳥」


あ、同僚だ。


おそらく水槽はこのまま18号室に行くのだろう。

もはや彼女を戻す術はないと聞いていた。


…これから彼女、大変だろうな。


ぼんやりとそんなことを考えつつ部署に戻ろうと歩き出すと、

スミ子は近くを通りかかった初老の男性とぶつかった。


弾みで男性は持っていた紙袋を取り落とし、

スミ子は慌ててそれを拾う。


「あ、すみません。」


つかんだ感じでは、

中には分厚い本が一冊入っているようだ。


それを差し出そうと顔を上げた時、

スミ子は男性の隣にシュレッダーで粉砕された

紙屑の束のようなものがあることに気がついた。


すると、男性もそれに気づき、

隣の紙屑をグシャッと撫でる。


「…ああ、大丈夫だいじょうぶ。

 別に人を取って食べるとかしないから。

 古書店の空間に住んでいる番犬みたいなものでね、

 何度も通ううちに、私に懐いてしまったんだよ。」


2メートルはあろうかという紙屑の塊は、

男性にワシワシ撫でられると巨大なカラスのような

目玉を細めながら気持ちよさそうにクウと鳴く。


男性はフェルト帽にグレーのスーツ。

丸メガネの奥に見える目は優しげだ。


「でも、うちでは飼えないし、

 元の場所に返さなければいけなくてね。

 …ああ、そうだ。手を貸してくれるかい?」


そう言うと、男性は突然スミ子の腕をとり、

文字通り近くの壁に手をつかせた。


「え?」


その瞬間、壁が薄い膜のようにベリッと裂けた。

それは、あの穴に壁をついたときの感覚と似ている。


ただ、あの時とは明らかに違う光景が

目の前に広がっていた。


両手を広げたほどの巨大な目玉。


周りにぬめる羽毛のようなものが

びっしりと生えていた。


その瞳には毒々しいまでの赤が映え、

油断なくあたりを見渡している。


男性はそれを見ても物怖じする様子はなく、

目玉自体も二人のことが見えていないのか

辺りを見渡すだけにとどまっている。


「これが空間を移動する『鳥』だ。

 しかもこれはまだ成鳥ではない。」


男性の言葉が終わると同時に、

羽毛のようなぬめる鱗を動かしながら

鳥は壁の横を通り過ぎていく。


そして、巨大な生き物が通り過ぎた後、

スミ子は目の前に広がる光景に息を飲んだ。


「何…これ。」


100メートル以上の幅を持つ巨大なトンネル。

奥は見えず、強い風が吹き付け目が開けていられない。


生暖かな、パンと、水と、生き物と、

…いや、言葉にはできないほどのたくさんの匂いが鼻を掠める。


下を見ると、はしごでも使わないと降りられないほどの高さがあり、

そこから吹き上げる風にあおられ、スミ子は立ちすくむ。


「さ、ついてきてくれ。」


男性は突然、穴の中へと飛び降りる。


もちろん腕は取られたままなので、

スミ子も引かれるままに落ちていく。


10秒もしなかっただろう。

スミ子はポスンと何かの上に着地した。


どうやら地面にクッションのようなものがあったらしく、

その上に落ちたおかげで助かったらしい。


みれば、先ほど見た紙屑の塊が

スミ子と男性の下敷きになって潰れている。


「よーし、ありがとな。

 やっぱりお前がついてきてくれて助かったよ。」


男性の言葉に慌ててスミ子が立ち上がると、

それはブルリと身を震わせて、また2メートルほどの高さに戻った。


「老体には時間が惜しい。さっさと行こう。」


男性はキビキビとスミ子の手を取ったまま歩き出し、

その後をスミ子はとぼとぼとついていく。


…結局、また穴の中に戻ってしまった。

しかも、今回は無理やり連れてこられる形で。


スミ子は引かれゆく自分の手を見つめた。

そこにはまだ壁を破った時の感触が残っている。


確か、曽根崎は本部の一部が空間化していると言っていた。


その隙間を男性が見つけて、

スミ子とともにこじ開けたのは想像に難くない。


曽根崎も空間が不安定であれば穴が開くと言っていたし、

誰でもできることなのだろうとスミ子は考える。


ただ、なんでスミ子が連れて行かれなければいけないのか、

それがまるでわからない。


そしてスミ子は不安を抱えながら初老の男性に手を引かれ、

薄ぼんやりと明るいトンネルの中をただひたすら歩いて行き…

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