終章 あなたと、この手をつないだら――。
かぎ慣れたハーブの香りが、
優しい香りが、ゆっくりとフェリエナの覚醒をうながし。
「フェリエナ!」
重いまぶたを開けた途端、喜色に満ちた声が降ってきた。
「アドル、様……?」
寝台に身を起こそうとすると、背中に腕が回され、思いきり、抱き寄せられる。
メレが着替えさせてくれたのか、フェリエナが着ているのは、清潔で簡素な
それを疑問に思うより早く。
「申し訳ありませんでした……っ! 貴女を守るつもりが、かえって辛い目に……っ!」
アドルの言葉に、気を失う前のことを思い出す。
同時に、身体が恐怖に震えた。
「大丈夫です。ランドルフは今頃、地獄で己の罪を悔いているでしょう。ブリジットや異端審問官も逃げ帰りました。貴女を傷つけるものは、誰もおりません」
優しくやさしく。
アドルの指先が、幼子をあやすようにフェリエナの髪をすべり、背中を撫でる。
「貴女にお借りした十字架のおかげで、わたしもかすり傷だけですみました。きっと、貴女の想いがわたしを守ってくれたのですね」
優しく微笑んで告げるアドルの胸元に下げられているのは、フェリエナがネーデルラントへと発つ前にアドルに渡した宝石で飾られた十字架だ。
アドルの手が優しくフェリエナの背を撫でるたび、ランドルフに捕らえられていた時の恐怖が、ゆっくりと遠のいていく気がする。
だが、まだ実感が湧かない。
「アドル様……」
身をよじり、アドルの背中に手を回そうとして、下腹部の痛みに小さく呻く。
「申し訳ない! 力の加減が……っ」
あわてて身を離そうとするアドルの袖を、思わず掴む。
「違います! アドル様のせいでは……っ」
アドルの袖を握った指に、力を込める。
心が不安定になっているらしい。
アドルのぬくもりが離れていくと思っただけで、不安に泣き出しそうになる。
もう一度、この腕の中に帰ってこられたらと、どれほど祈ったことだろう。
ランドルフに囚われていた時、真実であったならばと。もし、アドルの元へ帰られたならと、願っていたことは――。
「……アドル様……。わたくしを、あなたの本当の妻にしていただけませんか……?」
呼気に紛れそうなほどの、震える小さな声で、告げる。
心臓が跳ねまわっているのがわかる。恥ずかしくて顔を上げられない。
アドルの身体が、びくりと大きく震え、硬直する。
それがフェリエナの不安に拍車をかけた。
「む、無茶な願いだというのは、重々承知ですっ。アドル様の御心がグレーテさんにあることも! でも……っ。たった一度だけでも……っ」
「グレーテ? なぜ、貴女がその名を?」
アドルが
突然、妻から想い人の名を出されたのだから、当然だろう。
アドルの面輪をまともに見られず、フェリエナはうつむいたまま、早口に説明する。
「その、アドル様が前に寝ぼけてらっしゃった時に、呼んでらして……。す、すみません! アドル様の想い人と張り合おうなんて気は……、っ!?」
突然、アドルの手が頬を包み、上を向かされたかと思うと、唇をふさがれる。
驚きに目を見開くフェリエナの眼差しを絡めとったまま、アドルの群青の瞳がゆっくりと離れ。
「……グレーテは、わたしの想い人ではありません。ギズの姉で……。去年の冬、わたしの力が及ばず亡くしてしまった、姉のように想っていた人です」
アドルの苦い声が、告白する。
と、得心がいったように、形良い口元に穏やかな笑みが浮かぶ。
「以前、貴女の部屋で眠りこけてしまった時……。グレーテを亡くしてから、初めて彼女の夢を見ました。幼い頃のように、優しく頭を撫でてもらう夢を……。あれは、貴女だったのですね」
「っ、それ、は……」
本当は、あの時にはもう、アドルに恋していたのだと、知られてしまっただろうか。
恥ずかしさに、アドルの袖を掴んでいた手を放そうとすると、それより早くアドルの手に捕らえられた。
「わたしが愛しているのは……。わたしが欲しいと願うのは、貴女だけです」
フェリエナ、と呼ばれた名前は、お互いの呼気に混じって
どれほど、長くくちづけていただろう。
甘い美酒に酔ってしまったように、思考がまとまらない。
長い指を栗色の髪に
「……アドル様?」
「……少し、すみません」
フェリエナから身を離したアドルが、つかつかと扉に近づいていく。
かと思うと。
「何をしているっ!?」
アドルが扉を引き開けた途端。
「ぎゃっ」
「わっ」
「きゃっ」
床の上に折り重なって倒れたのは、ギズ、エディス、メレの三人だ。
「臣下としましては、アドル様の首尾のほどを……」
「そうそう! 友人としても、あれだけ心配したわけだから……さ!」
「フェリエナ様! お加減はいかがでございますか!?」
三者三様の台詞をこぼす三人を、アドルが無言で
フェリエナにはアドルの背中しか見えなかったが、顔を青くした三人が、そそくさと逃げていく姿は見えた。
「まったく……」
吐息とともに扉を閉めたアドルが、寝台まで戻ってくると、それまで座っていた椅子の隣に立ち、フェリエナを見下ろす。
少し照れたようにフェリエナを見る眼差しは、春の陽だまりのように優しい。
「……三人のおかげで、少し正気に戻りました。まだ、身体がお辛いでしょうから……」
「お、お待ちくださいっ」
名残惜しそうにフェリエナの髪を
「そ、その……」
おずおずと、アドルを見上げる。
「まだ、一人っきりになるのは心細くて……。その、せめて手を握っていてくださいませんか……?」
傷だらけの手。
自分からこの手を誰かに差し出したことなど、一度もない。
「あのっ、こんな手、お嫌でしたら……」
フェリエナが言い終るより早く、アドルの指先がフェリエナの手を絡めとる。
「そんなに愛らしくねだるのは、反則です」
椅子を引き寄せて腰かけたアドルが、愛おしげにフェリエナの指先に、くちづける。
「もう、この手を放せなくなるではありませんか。前に言ったでしょう? 貴女のこの手を嫌に思うなど、決してありません」
指先を絡めあったまま、アドルのくちづけがフェリエナの手の甲をすべる。
「……放さないで、くださいますか?」
祈りを込めて囁くと、アドルの秀麗な面輪が、困り果てたようにくしゃりと歪んだ。
「もちろんです。もう、二度と放しません。ですが――」
背中がそわりと
「あまり、わたしの理性を崩さないでください。すぐにでも、陥落しそうになる」
フェリエナを酔わせる甘い声。
熱を
かたり、と主を失った椅子が揺れる。
愛おしく紡いだお互いの名は、甘いくちづけの中に、
おわり
いつか、あなたと手をつないで ~脱落令嬢と貧乏領主の前途多難な結婚生活~ 綾束 乙@4/25書籍2冊同時発売! @kinoto-ayatsuka
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