第7話 Standing Doggy Style

 周囲を覆い尽くす一瞬の静寂。

 しかしそれは多数の喧噪によって、すぐさま上書きされる。


 宴に不慣れな一般人パンピーの女がはしゃいだり、インモラルの空気に耐えかねたセクシストSexistが騒ぎ立てるのはよくあること。


 それを軽くいなすどころか、階層State身分Nobility的な意味での”身の程知らず”と鼻で笑い、相手にしないどころか、存在すら脳が認識しないように振る舞うのが腐女子、貴腐人のたしなみ。


「あ……いや……それは」

 何か言いたそうな彼の声を私は遮った。


「あら、失礼。おいくらですか?」

 POPも、冊子の裏にも奥付おくづけにも値段が書いていない。

 彼は何しにここへ来たんだろうか?

 淑女達が近寄らないのも、そんな不慣れな売り子に関わりたくないからか?


「ご、五百円です」

 これでも私は空気を読み、驚かせた謝罪の意味を込めて千円札を出した。

「二冊下さい」

「あ、ありがとうございます」

 子犬のように笑顔になりながらお金を受け取ると、彼は両手で大切に差し出した。

 まるで、表紙の令嬢の体に優しく触れるかのように。


「ありがとう」

 さりげなく私は手に取り、『戦利品』を入れるブランドバックの中へ入れる。

 こういうイベントにおいてカジュアルな服装や、推し作品がプリントされたり、缶バッジが所狭しと付けられたバッグを持ち歩くのは、あくまで幼き乙女。


 淑女たる貴腐人は、そんな庶民的出で立ちも振る舞いも行わず、リア充共を凌駕する鉄壁の鎧を召し、最上級のアクセサリーを身に纏うのが、最低限の礼儀。

 推しキャラという紳士を、今宵、二人だけの目眩めくるめく悦楽の宴にいざなう為の、淑女たるたしなみ。

 そう、これですべてが終わるはずだった……。


 次の瞬間! 彼はいきなり立ち上がり、胸に手を当て、


『我が拙作をお買い上げ下さり、誠に感謝の念が絶えませぬ。今宵このひととき、我が永遠のほまれとなりましょう。失礼ですがお嬢様、お名前をうかがってもよろしいでしょうか?』


 歌劇の男優のように”台詞”を奏でる彼。

 その声質は重く響きながらも、透明感のある澄んだ声は、再び周囲の喧噪をも黙らせる。


 例えるなら、あらゆる食材の旨味を詰め込んだコンソメスープ。

 例えるなら、淑女の御心を貫く馬上槍試合トーナメントランス

 だが私は、人生はじめて呼ばれた『お嬢様』という単語に惑わされず、


不躾ぶしつけが過ぎますわ! 仮にも貴方が紳士なら、まず己の名を名乗るのが礼儀ではなくって!?』


 私以外の魂が、私の体を借り、私の声で彼を叱責する。

 嘲笑と言う名のさえずりが聞こえなかったのは、私から発する声が彼と同程度の、舞台女優を彷彿ほうふつさせるせいだろうか。


『大変失礼しました。わたくし、”ウンベルト”と申します。以後、お見知りおきを』

『そう、私は……』


 ここで私の口は、私が今まで口に出したことのない、見知らぬ名前を彼に向けて名乗った。


『”マルゲリータ”よ。”ジェノヴァ家”のマルゲリータと覚えておきなさい』

『御意。マルゲリータ様。再び出会う日を、日々心待ちにしております』


『さぁ、それはどうかしら。


『蝶を捕まえることができるのは、蝶を追いかける者だけ』よ。


では御免あそばせ』


 何か含みをもたせた台詞を口ずさみ、颯爽とその場を離れる私……の身体。

 夢遊病のように自分が自分でない感覚は、それこそ夢の中の出来事のように感じられた。

 霊に取り憑かれたのではない。身体の中にいた何かが目覚めた感じ。


 ふいに体の力が抜け、私の体はコンクリートの床に向かって崩れ落ち……なかった。

 漆黒の貴族服が、私を背中から抱きしめる。

 首筋から漂う彼の匂いと、私を拘束する雄の腕。


「やっぱり! 大丈夫ですか?」

 無遠慮に彼の右手は私の左の乳房を押しつぶし、左手は、下着と衣服の上から女の茂みを押さえつけていた。

 私が、周囲が痴漢と叫んでもおかしくないが、


(大丈夫よ。彼にすべてを任せなさい。Comme une Vierge生娘のようにね


 私の魂に語りかける、”別の魂”。

「あ、ありがとう」

 声帯を取り戻した私は、彼に向かって礼を言う。


「一度腰を下ろします。それから少しずつ手と足に力を入れて下さい。今はパニクってると思いますが、大丈夫ですよ、

『僕も最初の内はそうなりましたから』」


 落ち着かせるように、彼は優しく声をかけていた。

 彼の体と共に視界が下がっていく。

 やがてコンクリートが、麻酔をうったような臀部を押しつぶす。


「よしっと……あ、い、いや、ご、ごめんなさい!」

 自分の両手が女性の秘所に触れているのに気がつき、彼は慌てて手を離した。

 それでも私が後ろに倒れて頭を打たないよう、後ろで片膝をつきながら私の背中を支えてくれた。 


 少しずつ、全身に血が巡ってくる、力が戻ってくる感触。

 そして、係員らしき女性が近づいてくる。

 不埒な行いをする彼を咎める為と、気分が悪くなった私を介抱する、どちらか決めかねる顔で。


「大丈夫ですか? ご気分は?」 

「だ、大丈夫です。こちらの方が助けて下さいました。ちょっと、貧血かな。はははっ」

「救護室で休まれますか?」

「あ、いえ、もう大丈夫です。立てますから」 

 手や足に力を入れ体を起こすと


『マルゲリータ様、お手をどうぞ』


 彼から差し出される右手。

 乙女と違い、淑女は男性と手を触れるどころか、気に入った紳士には自ら手の甲を差し出すもの。   

「ありがとう」

 彼の手を握った瞬間!


”フッ!”


 綿毛のように持ち上げられる私の体。

 手を引っ張ったんじゃない、体すべてを持ち上げた。

 二十一世紀の現実世界では、まず口に出すことがない言葉。


 そう、《魔法》。


 それでも係員を始め、野次馬達は何かの武術か合気道みたいな技だと思っただろう。 

 つま先からゆっくりと”着地”する私の体。


「あの~僕のブースにはもう一つパイプ椅子があるんですけど、よろしければ少しお話よろしいですか? ”コイツ”も、貴女、いえ、”マルゲリータ様”とお話がしたいと、さっきからうるさいんですよ」

 同人誌即売会でのナンパはどうか知らないが、社交界ではごく当たり前の出来事。 


 同時に、彼の口から放たれた、聞き捨てならない言葉。

 ”ウンベルト”、”コイツ”、そして”僕も最初の内はそうだった”。

 

 そして、私の口から放たれた言葉。

 ”ジェノヴァ家のマルゲリータ”そして、”操られた体”。


 さらに、私の肉体が渇望した。

 紳士である彼との、

 殿方である彼との、

 男である彼との、

 雄と化した彼との、言葉、魂、あまつさえ、肉欲での触れあい。


 そう、今の私は、首輪でつながれ発情した雌犬のよう。

 背中から彼に抱きしめられた瞬間、臀部の谷間から魂を貫かれた私。


 首輪を引っ張るような彼からの提案に、私は断る理由も、逃れるすべもなかった。

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