夢でも奇跡でもない

数日の間に僕は、あの世界が夢でも奇跡でもないことを知る。


どうやら僕は、自在に「こちら側の世界」と「誰もいない白黒の世界」を切り替えるすべを身に付けたらしい。術と言っても大したことはなく、基本的には「思う」だけで事足りる。


僕は白黒の世界を「」と呼ぶことにした。


「裏側」に入り込む僕の力は当初非常に便利なものだと思ったが、色々と実験を行い世界間移動の仕様を知っていくうちに、案外そうでもないことがわかってきた。ブラックボックスの挙動を精査したがるのは、たぶん職業病だろうと思う。



◆◆◆◆◆



ある日、僕は会社の同僚を使ってちょっとした実験をした。


時刻は夜の九時過ぎである。いつものように僕と彼女は残業で夕飯を食べそびれ、なにか腹に入れるものを買おうと、休憩がてら会社の近場にあるコンビニに来たというわけだ。


「この時間に甘いものとか罪ですよね。しかし罪は罪であるからこそ甘美なので…ああ〜チョコにチェリー合わせちゃったか〜…これは…」


同僚はスイーツコーナーの前に陣取り、腕組みをしてぶつぶつと言いながら初夏の新作スイーツを吟味している。


エンジニアという職種に、まだ女性は珍しい。うちのような中小企業ではなおさらだ。そんな中で、彼女は恐ろしく腕の立つ技術者として会社を引っ張るエースである。

適当なジーンズとTシャツで出社する僕が言えた立場ではないが、彼女はどこの女子大生かと思うふわふわとした格好である。僕の密かな楽しみは、最重要プロジェクトをバシバシ進める彼女の姿を目にして、当初は「事務のお姉さんかな?」という態度で接していた新入社員が絶句する顔を見ることだ。


上司は彼女をマネージャに引き上げたいらしいが、当の彼女自身がまったく興味を示そうとしない。僕としては今のまま凄腕エンジニアとして現場にいたほうがいいと思っているけど。


「で、花さん、もう少し悩んでます?」

「悩んでます」


ティラミスクレープとチェリーショコラパイを両手に取り見比べながら、彼女 ― 花さん ― は硬い意志を込めた言葉で答える。


「じゃあ僕は雑誌でも読んでますよ」

「ん」


彼女がこちらに注意を払っていないことを確認した僕は、軽く目を閉じて「裏側」に入る。


こうして「入る」ためには幾許いくばくかの集中を必要とするようで、何か別のことに注意を向けていたりすると、世界を切り替えることができない。その事情は「裏側」に入る時のみならず、元の世界に戻る時も同じであるらしかった。


当初は一人になれる空間で呼吸を整えないとなかなかうまく行かなかったが、インターネットで瞑想のコツを解説した記事を発見して見様見真似で試してみたところ、スムーズな世界間移動に効果的であることがわかった。今ではこうして、ある程度即座に移動ができるようになっている。


(よし、会話の直後でもいけるな)


「裏側」に入っている間、僕の姿は元の世界では消え失せているらしい。だからいま、コンビニにまばらにいる客たちは僕のことを認識できていない。


すっと、花さんの身体のあたりに、僕の存在しない手を伸ばす。何も手応えがない。


同時に、その世界は決して静止していない。店内に設置された時計の秒針はするすると動き続けている。「裏側」で経過した時間はそのまま元の世界に戻っても同様に経過しているようで、つまり精神と時の部屋のように、わずかな時間を大きく伸ばすためには使えないシロモノらしい。


僕は雑誌棚に近付いて、


(これでいいか)


見えない手で、今日発売の漫画雑誌を取り上げる。既に夜も遅いためか、この一冊しか残っていない。立ち読みで酷使された表紙の紙は、少し破れてへたっている。


初日に気が付いたように、僕は「裏側」にいながら元の世界に存在する物体に触ることができる。確認したいのは、僕が手に取った物体が元の世界でなるか、という点である。こればかりは他人の目を借りないと実験ができない。


そうして僕は片手でつまんだ雑誌を、ぽい、とに投げる。


――がしゃん。


雑誌は棚にぶつかり、プリンが床に落ちる。柔らかなその中身がぐずぐずに崩れるさまが見える。


それにも関わらず世界は変わらず白黒で、視界の中には誰一人いない。


とても静かだ。


そうしてまた目を軽く閉じ、僕は元の世界に戻る。


途端に店内のざわつきが耳を打った。ちょうど、品出しをしていた店員が花さんに駆け寄るところだった。


「お客様、大丈夫ですか?」

「は、はい…すみません。何かこれが急に落ちてきて当たったみたいで…」

「…雑誌?ですね…」


店員は雑誌コーナー、つまり僕が立っているあたりに目を向ける。そこに詰んであったはずの雑誌の最後の一冊がどういうわけか突如プリンを直撃したという事実に、店員の表情は理解不明を語っている。

立ち位置的に僕も店員の視界に入っているため、とりあえず、僕も周囲の客と同様に驚いた顔をして現場を眺める役に徹した。


僕は一つの確信を得る。


花さんが立っている位置は、僕が雑誌を投げた軌道上である。雑誌は彼女をてスイーツ棚にヒットしたらしい。


そして、雑談を装って周りの客から聞き出したところによると、雑誌が空を飛ぶ過程を見たものは誰もいないようだった。ただ雑誌が棚に当たったという、そのだけが現れた。



つまり ― 僕は「裏側」を通じて人知れず世界に干渉することができるが、それは現実世界の物体に影響を与えて初めて確定する。ただし、見えない僕の身体を使っても、道具を使ったとしても、人間そのものへの直接的な接触はできない。

、僕は人間を除いたこの世界を支配しているかのようである。


僕は、大丈夫ですか、と声をかけながら花さんと店員に近寄り、床に落ちたプリンを拾い上げる。透明な容器の中がぐしゃぐしゃにシェイクされていることがわかる。あ、と手を差し出す店員に対して、首を振ってちょっとプリンを掲げてみせる。


「僕が買います」


台無しにしたものの始末は、自分自身でつけなければいけない。



◆◆◆◆◆



先に述べたように、僕は僕自身の意志によって入り込むことのできるあの世界、誰もいない白黒の世界を「裏側」と呼んだ。


僕の願った誰もいない世界、その存在は奇跡であるのかもしれないが、少なくとも、それは容易に再現可能であった。再現可能な奇跡は技術に過ぎず、それを呼称するために気取った響きも運命めいた由来も必要ないと考えたからだ。


裏側には僕しかいない。それどころか僕すらもきちんと存在しないのだから、呼び方は何でもいいだろう。


そして同じ基準を適用するのであれば、こうして身体を取り戻し、再び存在を始めてしまった僕自身のことを改めて呼び直す必要がある。


六郷ろくごう夜介やすけ


それが僕の名前であり、今から語るのは、僕が眼を閉じるまでの出来事である。


話を最初まで遡るとすれば、それはおそらく、十歳の夏に起こったあの喪失から始めざるを得ないだろう。

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