幼少期

十歳の夏

十歳の夏。


その夏はひどい猛暑で、夏休みに入ったばかりの太陽は最高潮に上がったテンションを隠すそぶりもない。影のある場所に辿り着くまでに、店で買ったアイスがその形を保つことを諦めかけるほどであった。


ビニール袋に収まる二つのアイスを暴力的な日差しから隠しながら、子供の僕―六郷ろくごう夜介やすけ―は歩いていく。



六郷の家は古い地主だった。


ここで「だった」と言う表現を使う理由は、既にそれが存在しないためである。

ともあれ六郷の家は地元でそれなりの影響力を持つ存在であるらしく、どこを歩いても知らない人から挨拶されるという体験に、幼い僕は慣れきっていた。


慣れるとともに、子供心に息苦しさを感じてもいた。


だから僕は家でじっとテレビゲームに興じるか、もしくは屋敷から出て人通りのまばらな道を抜け、さびれた神社のベンチで過ごすことを好んだ。

今向かっているのは、まさにその神社である。


「あっつ…」


日陰にようやく逃げ込んだことで、呟く余裕を取り戻す。目指すベンチはすぐそこだ。

大樹の影に隠れたベンチは、人目に触れない、風通しが良い、ほとんど人が使わない、と三拍子揃ったちょっとした秘密基地である。


そして、僕がここに通っている理由は静けさ以外にもうひとつあった。


スポーツバッグを枕にしてベンチに寝転ぶ制服姿の先客が、その理由である。彼女は僕の足音に気付くと、眼の上に乗せていたタオルを持ち上げてひらひらと手を振る。


「やっほー」


六郷ゆかり。屋敷の離れに住んでいる従姉妹で、高校生。高校からの帰り道にあるというこの場所で、彼女はよく涼んでいる。もちろん家でも会えるのだけど、僕はこうして彼女と二人で話すのが好きだった。

崩壊の進んでいない方のアイスを選んで手渡すと「ありがと、うわ溶けかけ」と身を起こして、滴る甘い水をちゅると啜る。僕も自分のアイスを取り出して、もはや袋の中では小指ほどしか棒に引っかかっていないであろうそいつに取り掛かる。


「やっくんも夏休み?」


彼女は、六歳離れた僕のことを「夜介」ではなく「やっくん」と呼んだ。

僕は頷いてそれを肯定すると、わずかに湿気を帯び、涼風にひんやりと冷やされた彼女の制服を見て尋ねる。


「ゆかり姉ちゃんは?」

「部活」

「ボール投げるやつ?」

「すーいーえーいー。ハンドボールは中学」


ゆかり姉ちゃんはざばざばと宙を掻く真似をして答える。僕は十秒とかからず完食したアイスの棒を噛み、ざばざばと水を掻き分ける彼女を想像する。


そうだった。確か、間違えて敵にパスを渡して中学最後の大事な試合に負けたとかで、部に居辛くなったのだそうだ。中学から高校に進んでも、大してクラスメイトがリセットされない田舎公立校の宿命である。「だってユニフォームのデザイン同じなんだもん」と不服そうに漏らしていたことを思い出す。ゆかり姉ちゃんは頼り甲斐がありそうでいて、どこか肝心の所で抜けている人だった。


昼下がり。木の影から漏れる光に透かされて、彼女の黒い髪が淡い紫に輝いたように見える。



僕のゆかり姉ちゃんに関する最初の記憶は、三歳か四歳か、とにかく物心ついた頃に遡る。当時の姉ちゃんはちょうど今の僕くらいで、居間のこたつに入ってみかんを剥いていた。テレビでは誰かの笑い声が響いている。


僕はゆかり姉ちゃんから差し出されるみかんの房を、差し出されるままに食べながら、彼女の細い指が器用にみかんを分解していく様子をじっと見ていた。その動きはとても繊細で洗練されていたものだから、僕の心を強く打ち、その情動を伴ってゆかり姉ちゃんという存在が幼い僕の心に刻み込まれたように思う。


ゆかり姉ちゃんは彼女の両親、つまり僕の叔父夫妻と一緒に、六郷の屋敷の離れに住んでいた。

母屋と離れの境界はそうはっきりしたものではなくて、広い母屋の方で一緒に食事を取ることも多かったし、居間や風呂場は離れに備え付けのものではなく母屋の設備を使っていたように思う。


けれど、離れに住むゆかり姉ちゃん親子は、どうやら母屋にいる僕たちよりも「格下」とみなされているようだった。

誰かがはっきりとそう言ったわけではない。それでも、僕は大人たちの行動や言葉の節々からそれを感じ取っていた。

どうしてそのような状況が出来あがったのか、ほんの小学生に過ぎない僕の知るところではなかった。


「そうだ、やっくん」

「なに」

「こないだの、うちに泊まるって聞いた?」

「え、泊まるの?」

「らしいよー。旅館じゃないんだからさぁ」

「でも部屋いっぱいあるし」

「えー?なんかやだよ。知らない人がうちにいるの」


べたついちゃった、と呟いて、ゆかり姉ちゃんは軽い足取りでベンチから離れる。境内にある水道で手を洗うのだろう。


その夏は確かに何かが違っていた。からりと晴れていながら閉ざされたような空や、どこか必死さを漂わせる蝉の鳴き声、そして何もかもを焼き消そうとするような太陽。そういったものごとが、僕に言いようのない不安感を与えていた。

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