目を覚ました僕は

目を覚ました僕は、世界が色を取り戻していることに絶望を覚える。



薄い壁越しに、ぼそぼそと話をするような声が聞こえてくる。


電話好きなのか、YouTube 配信でもやっているのか、それとも独り言の激しいちょっと危うい人なのか。夜遅く、それこそ僕が帰宅するような時間であっても、時折となりの部屋からはこうした声が聞こえるのである。


いつもそれが気になって寝付きが悪かったものだが、昨夜は街や駅の人々と同じく隣の住人も消え去っていたらしく、静かな部屋で快適な入眠を味わえたことを覚えている。

それなのに、一眠りした間に、またそいつは僕の隣に戻ってきてしまったらしい。


僕は望まれぬ隣人独奏会の再演にうんざりして、窓から外を眺める。行き交う人から漂う生命の気配は、僕に孤独な世界の終焉を実感させた。


昨夜、僕は自宅に戻り、簡単な食事とシャワーを済ませるとそのまま眠りに付いていた。そこまでは、確かにモノクロの、誰も存在しない静かな世界であったのだ。


異常以外のなにものでもない事態にあたって、家に帰って眠りにつくという日常を続けたことが神の気にでも障ったのだろうか。あのまま地に膝をついて奇跡の顕現を讃えればよかったのか。


それにしても、


(あの白黒の無人の世界は、何だったんだ?)


当然ながら、僕は最初に夢を疑う。つまりは、根暗をこじらせた三十路が過労の果てに見た悲しい夢、というオチである。

見る夢が俺ツエーの無双でもハーレムでも子供の頃の楽しい記憶でもなく、単に誰もいない世界という虚無そのものであるという点も実に救いがない。

なぜか色がないというあの光景も、僕はこの世に何ら楽しみや華やかさを見出していない深層心理が夢に現れたものであった、とか。


(それでも...)


と、僕は机の上に眼を向ける。記憶の鮮明さに加えて、何よりも、机の上に無造作に置かれた釣鐘状の花が、夢の可能性を否定していた。

色のある世界に戻って来た花は、今やその紫色を余すところなく主張している。



あれが夢でないのであれば。と、僕は考える。


おそらく、あの世界は今もどこかに何らかの形で存在していて、いまはそこから切断されている状態なのではないか。僕がそう考えたのは、単に蓋然がいぜん性の問題である。


A. 別の世界が並行して存在しており、僕はそちらに迷い込んだ

B. 人間も色も突如この世から消え去って、そして戻ってきた

C. 疲れ切った僕は、モノクロの幻覚を見るようになった


一番あり得るのは C だが、今は、僕が正気であると仮定しよう。それに、いくら最終電車間際とはいえ駅のホームにはそれなりの人間がいたはずだ。もし僕が幻覚を見ていただけだとすれば、誰かにぶつかった記憶がないのもちょっと妙な話だ。


そうすれば、話は A vs B でどちらが起こりやすいか、という比較に落とし込まれる。どっちも馬鹿げた可能性だが、どちらかというと A だろう。

世界からすべての人間を消したり出したりするよりも、僕一人が何かのはずみでてしまった、という方が、トータルの「異常」は少ないのではないか。ただそれだけの、別にロジカルでも何でもない、好みとロマンによる妄言である。

昔は僕もゲームが好きな少年であり、嗜みとして、眼の前の事実から楽しげな非現実を想像して自分の心を楽しませる習慣くらいは残っているのだ。


(そもそも、科学的には別の世界が存在するかどうか、ということもよくわかっていないはず)


しかもどちらかというと、寄りのわかっていない、で。


それでも、異世界転生もの、というフィクションのジャンルができているくらいである。―― 人はどうしてもその魅力に惹かれてしまうらしい。



電話が鳴る。


画面には、上司の名前が表示されている。平日ではあるが、未だ業務開始には早すぎる時間帯だ。絶対に出たくない。しかし、出ないわけにはいかない。


「...もしもし、おはようございます」

「おはよう。どうしたの?昨日の夜、電話に出なかったけど」

「え...何時頃ですか?」

「二時半くらいかなぁ」


それは普通に寝てるだろ。


「すみません、休んでいました...それで、何でしょうか?」

「ああ、まぁいいよ」


絶対にいいとは思っていない声色で告げる。こういったとき、僕は言葉の文字通りの意味だけで社会をやっていきたいものだと痛切に感じる。


僕は「いいよと言っている優しい上司から、自発的に自らのやるべき仕事を熱心に聞き出す」というロールプレイをこなす。こうした無意味なコミュニケーションも慣れたものだ。

まぁいいよと言いながらしっかりと告げられた上司の要件は、昨日の僕の仕事に小さなミスがあり、それを最終納品までに修正して欲しいという依頼であった。どう考えても電話の必要がある用事でもなく、さらに言えば、深夜に僕に伝えたところで、朝までに妖精さんが片付けてくれるものでもない。


そもそも何のためにタスク管理システムを導入したと思っているのか。急ぎではない要件はタスクに登録してくれればいいものを。一番道具を使ってほしい人間が自分から変わるつもりがないのだから、僕の増え続ける労働時間も浮かばれない。



ああ、もう、やはりここはであるべきだ――。



そう思った瞬間、僕は静寂の広がりを聞く。


同時に、部屋の中の空気はその色を失った。


ぞわりとした確信に突き動かされて窓の外を見ると、先程までの人通りは忽然と消え去り、白と黒の町並みが広がっていた。

夜空の中に完全であったそれらは、朝の光の下でも、欠けたるところのない美しさであると思った。


真っ白に晴れた空を見上げ、


「...マジか」


僕は一人で呟く。


出社の時間は迫っていた。

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