第三話 母の呪縛

「ユウォン……レィーゼ……」


 不思議と感動は薄かった。夢現つで見た勇姿。異常な体験ではあったが、当人ですら心の片隅に疑心があった。本当に前世の記憶だったのかと。だからこそ、真実を知ったとき、もっと心が動くものだと思っていた。だが、違った。それはまるで、来るべき待ち人が当然のごとくやって来たかのような、そんな感覚だった。


「……あっ、他にもいろいろ書いてある。ええと、二十八歳、病死……。すぐに死んじゃったってことなのかな。へえ、勇者も病気には勝てないんだ」


 下に続く文章にあっさりと目を通すマレス。それはどことなく他人事のようで、独り言にも抑揚がない。当然だ。記憶もなければ感動もない。過去、自分が彼だったとしても他人同然なのだから。


 ほかにも項目がある。性別『男』、出身『オールデルグ』、加護『神速』――


「――パーティメンバー。ログ=レヴァンウッド、リラ=ガレミア、アイレン……え?」


 それは一瞬だけ視界を通り過ぎた。思ったよりも感動が少なかった今回の勇者探し。本物を見つけた時でさえ興奮はなかったのだから、当然それ以外の部分は簡単に読み進めてさっさと本を閉じる予定だった。しかし、それを見過ごすことはできない。マレスにとって馴染み深い文字列――


「ガ、ガレミアァ!?」


 マレスは立ち上がる。そこに書いてあったのはクラスメートの姓。しかも最近色々と縁のある相手だ。本を押さえつけてまじまじと見つめるが、正真正銘ガレミアの文字。印刷された字が変化することはない。予想だにしない伏兵に驚きを隠せないマレスであった。


 ところでここは図書室、大声禁止である。


   *


「ここが私の家です」


 とんがり帽子の少女の手の先に広がるは大きな屋敷。中心街の一区画に聳え立つそれは、周辺の建物と比べて逸脱はしていないが水準の高さが窺える。村にもこのくらいの大きさの家を持つ者はいるが、田舎と街、同じ土地の広さでも格が違う。


「マレス、あなたこの子と結婚しない?」

「なにいってんの」


 保護者として同伴していたユシアは囁く。ガレミア家を見上げるその目は真剣そのものだ。年頃の男の子にその問答はどうなのだろうか。同じように見上げるマレス、的確に返す。


 この建物の一室が彼女の暮らす家なのだろうか。相手が庶民であればそう思うだろう。マレスは多少耳にしていた。ユシアは知っていて、なお驚いていた。ラプラに君臨する魔法研究の三大名家。ラプラを魔法都市と言わしめる所以、その一つを占めるのがガレミアというブランドであった。


「……どうかしましたか?」

「な、なんでもないよ!」


 小声で話す親子に少女は首を傾げる。そんな気がなくとも女の子に今の会話を聞かれるのも厄介だ。少年は慌ててはぐらかす。


「ふーん……」


 少年の様子が少しだけ気がかりだが、少女はそのまま扉に手を掛ける。


 必要以上に大きな扉。華奢な少女が前に立っていることも相まって、より大きく見える。煌びやかではないが、手入れが行き届いているようだ、隅までツヤがあり、品がある。


 入口で既に圧倒されている二人。この奥は黄金卿か、楽園か、はたまた異世界か。そんな二人の緊張を余所に、小さな手は慣れた手つきで未知への扉を開く。


「さ、入ってください」


 敷地の広さはさておき、街並みの調和を意識してかエクステリアはそこまでの主張はない。しかし扉越しに見える内装は思う存分華美であった。


 オリユーズ一行は恐る恐る足を踏み入れる。天井でさんざめく光が蒼色のカーペットや白塗りの壁を照らし、広い玄関ホールを明るく包んでいた。オリユーズ家のもっさりとした明かりとは比べ物にならない。


「お帰りなさいませ、お嬢様」

「「うわぁっ!」」


 突然の声に驚く二人。先ほど玄関ホールを見渡した時に人影が見当たらなかったにも関わらず、その人は気配もなく、当然のようにそこに立っていたのだから無理もない。


「ごめんなさい。彼はこの家の執事なの。いつの間にか隣にいたりするけど気にしないで。爺や、私は着替えてくるから先にこの方たちを客室にご案内しといて」


 そう言うと少女はどこかへ去っていった。


 残ったのは身なりの整った老紳士。眉まで白く染まっているが、衛生的で老醜の気配を感じさせない。まさに執事を絵に書いたような容貌である。


(執事なんて伝説上の生き物かと思ってたわ)


 遥か西の山に棲むと云われるドラゴンや凍てつく地の底に眠る黒い巨人、天を司るフェニックス。子供の頃にどこかで聞いた御伽噺だが、どれも見たことのないユシアにとってはソレも執事も大差ないのであった。


「お待ちしておりました、オリユーズ様。先程は驚かせてしまい申し訳ございません。さ、こちらへ」


 執事はそっと一礼してから、手をホールの奥へと伸ばした。


 導かれた先、少し広めの空間にショーケースが点々と、そして壁の一部がガラス張りになっているのに気が付いた。その向こうには古めかしい書物やら装飾が施された大杖やら高そうな壺やらが飾られている。


 まるで博物館のようだ。


「当家は性質上、オリユーズ様のようにお客様を招くことが多いのです。そのためお客様が退屈なさらぬよう、このような造りになっております」


 心を読まれたのか、それともここを通ったら言う決まりがあるのか、執事は振り向きざまに答える。


「盗まれたら大変じゃないの?」

「私がいますので」

「すごーい!」

(いやいや、この執事何者なのよ)


 微妙に成り立っていない会話に内心ツッコミを入れるユシア。軽く聞き流していたが、先程少女が去り際に「いつの間にか隣にいたりするけど気にしないで」などと言っていたが、執事よりも隠密や暗殺者の方が向いているのではないだろうか。


 そんな不謹慎なことを考えつつ、一行はひとつの部屋の前で止まった。


「どうぞお入りください」


 執事がドアノブを捻る。


 応接間――客人を通す部屋はある意味ガレミアの顔。絢爛であることはもちろん、魔法具が飾られた棚が多く置かれていて、魔法分野の名家であることを示している。


 部屋の中央にはテーブル、それをぐるりと囲むようにしてソファが置かれているが、そこに女性が一人。土黄色の長い髪をサイドダウンでまとめたドレス姿の女性だ。


 彼女はおもむろに立ち上がる。


「初めまして。私、エルの母のトゥーリットと申します」


 恭しく頭を下げるのはトゥーリット=ガレミア――エルの母親であった。着ているものもさながら立ち居振る舞いに華やかさがあるものの、ガレミアを支える強かさを感じる。


 明らかに格上の相手が先に頭を下げたことで、ユシアも慌てて追うように頭を下げる。


「私はユシア=オリユーズ、こちらは息子のマレスです。本日は招待していただいてありがとうございます」


 マレスも倣うように頭を下げながら、上目でトゥーリットを見る。ゆったりとして上品な印象だ。


「いえ、お礼を言うのはこちらですから。立ち話も難ですし、よかったら腰をおかけになってください」

「は、はあ。それでは……」


 一同はソファに腰を下ろす。マレスはふかふかのソファに感動してぽよぽよと跳ねている。


「先日は娘を助けていただき誠にありがとうございます」


 トゥーリットは先程よりも深く頭を下げる。


「い、いえ! 別にそんな……」


 ユシアは何度も頭を下げる相手に少し申し訳ない気持ちになる。


 マレス自身、助けたという自覚はなく、実際には勝算もなく前に立ち塞がっただけである。しかし、それでもマレスが立ち向かっていなければ、魔人が退くことはなかっただろう。マレスはエルを助けたのだ。


「マレス君は勇敢にも魔人相手に億さず、私たちの大事な娘を守ってくださいました。感謝をしてもし尽くせません」


 マレスは少し自覚したのか、ソファで跳ねるのをやめて頬をポリポリと掻いている。


「娘も嬉しそうに話していましたよ。あの日のマレス君はとても――」


 ガチャリ、と扉が開いた。


 そこにはエルが立っていた。いつもの魔法使いのような装束ではなく、ふわふわとしたお嬢様のような格好だ。ただ、やはりお気に入りなのか、いつもと色違いではあるがトレードマークのとんがり帽子を大事に抱えている。


「……」


 エルは黙ってマレスを睨んでいる。


(えっ。ぼくまた何かした!?)


 おろおろするマレス。それを見てユシアは何かを思いつく。母になってから控えめになっていたが、ユシアは生来イタズラ好きである。


「あらー! エルちゃん、すっごく可愛いわねぇ〜! ね、マレスもそう思うでしょ? ね?」

「え!? えぇっと……」


 突然の問答にどもるマレス。エルは口元を帽子で隠した。


「うん、かわいい……と、おもう」


 私服の女の子を褒められないほど無神経ではない。かといって平然と「可愛い」と言えるほど少年はナイスガイではないのだ。


 少年は恥ずかしさで目を逸らし、エルは顔を帽子で隠した。そして――


(もぉ〜、可愛いわぁこの子達)


 それを見てご満悦のユシア。


 そんな彼女をその対面のトゥーリットは不思議そうに見ていた。彼女は家柄的に貴族のような良く言えば礼節を弁えている、悪く言えば保守的な人間と交流することが多いため、彼女にとってユシアのように開放的な大人の女性は珍しいのだ。


「エル。マレス君にこの家のことをご案内してあげて」

「いいの!?」


 先程までの静けさが嘘のように、エルは目を輝かせていた。


「ほら、早く行くわよオリユーズくん!」

「え、わっ、えーっ」


 少女に腕を引っ張られ、無理やり連行される少年。将来は尻に敷かれるタイプだなと思う母親であった。


   *


「ふんふーん。何から説明しようかしら」


 帽子をくるくると回して、いつになく上機嫌そうなエル。目の前には先程の書物やら杖やらが飾られたショーケースがある。ガレミア家を案内するということは魔法の説明をすることにほかならない。


 マレスはエルに見えないように少し嫌そうな表情を浮かべる。彼はあまり勤勉ではないのだ。


 折角豪邸に来たのに勉強なんて真っ平だ。マレスは逃げ道を探すように辺りを見渡すと、壁にずらりと額縁が並んでいる。どうやら肖像画のようだ。


「この人たちはだれ?」

「ふふふ、それは歴代の当主様たちよ!」


 エッヘン、と誇らしげに胸を張る。


 マレスはゆっくりと歩きながらそれらを見上げた。


「リラ……ガレミア……」


 昨日、図書室で見た名前。どれがその人なのだろうかと少し興味があった。


「オリユーズくん、創始者様のこと知ってるの!?」

「いや、あの、その……」


 しまった、とマレスは顔を強ばらせる。


 前世の仲間がクラスメートの先祖、しかもよりにもよって創始者とのこと。妙な縁を感じざるを得ない。運命という言葉は子供にとって刺激が強すぎるのだ。言えるわけがない。


「オリユーズくん、あなたもしかして……」


 エルがじりじりと近付いて来る。


「魔法が大好きなのね?」

「へ?」


 思ってもなかった言葉に目を丸くするマレス。


「えぇっと……うん、まあ……」

「もー! そんなことなら早く言ってくれればよかったのに!」


 すっかり気を良くしたエルはとんがり帽子をマレスにすっぽり被せた。まさか同志がこんな所にいようとは、羽が生えたエルはくるくる回る。


「私がなんでも教えてあげるわ!」


 若き魔法オタクは止まらない。


   *


「すごい……ね。ガレミアさん……」


 エルの魔法トークに殴られ続けたマレス、満身創痍である。


「私の夢はこの家を継ぐことなの。だからこのくらいは当たり前よ」


 エルはマレスからひょいととんがり帽子を取り上げ、自分の頭に乗せた。その顔は堂々としている。


「ガレミアさんは授業でも魔法すごいし、冒険者になっちゃえば?」

「うーん、創始者様も元は冒険者だったらしいし、ほかの当主様の中でも冒険者を経験した人もいるって聞いたけど……」


 エルが下唇に指を当てて考える。すると――


「おねえちゃん、このおにいちゃん、だれ?」


 小鳥の囀りかと聞き違えそうな、か細く小さな声が聞こえた。マレスは声のした方を向くと、エルよりも幼い女の子がそこに立っていた。


「えっと……」


 マレスが困惑して声を漏らす。それに反応してか、女の子は彼の横をてってってと通り過ぎると、エルに隠れるようにしがみついた。


「この子はミア、私の妹よ」


 エルは女の子の頭を撫でながら言う。女の子は嬉しそうに微笑んだ。


 エルと比べると髪色は明るいが、姉と同じ髪型、目の色、顔立ち、確かに似ている。違うところと言えば、エルはいつも落ち着いていてあまり感情の起伏がない(魔法オタク化したエルは除く)が、ミアは天真爛漫という感じがする。


「ミア。この人はマレス=オリユーズくん。えっと……私を魔人から助けてくれた人よ」


 恥ずかしそうに紹介するエルに釣られてマレスも頬を赤くする。


「えと……こ、こんにちは、ミアちゃん」


 照れもまだ冷めない笑顔でマレスは女の子と同じ目線まで屈んで話しかけた。


 相変わらずエルの後ろに隠れてるミア。少しの間、視線が宙で絡む。


 しばらくして、ようやくミアが姉の影から出てきた。そして、マレスの目をじっと見ながら徐ろに手を伸ばした。


「あくしゅ」


 小さな手。マレスは戸惑いながらも、それを優しく壊さぬよう握り返した。


「おねえちゃんをたすけてくれてありがとうございます。マレスおにいちゃん」


 ミアは小さな体を上手に折りたたんでお辞儀をした。こんなに幼い子でも礼儀正しいのは流石は名家と言える。


 顔を上げたミアは向日葵のような笑顔だった。


「あ、ど、どういたしまして」


 こうも立て続けにお礼をされるとどうしても照れを隠せない。なにより一人っ子のマレスだ。姉のような人はいるが、妹や弟はいない。「おにいちゃん」と呼ばれた恥ずかしさが滲んでいた。


「お姉ちゃんのことが大好きなんだね」

「うん!」


 ミアは輝くように返事をする。向日葵は太陽になった。


 その後ろでエルはまたもや帽子で顔を隠していた。無邪気な子供の破壊力ほど恐ろしいものはないのだ。


「こ、こほん。ほら、そんなことより魔法の説明、まだ終わってないわよ!」


 表情を隠すように後ろを向いたエルからの絶望の宣告。マレスの顔が一気に青ざめる。だが――


「ミアもー!」


 なんとか乗り切れそうだ。


   *


 この頃、ユシアとトゥーリットは世間話に花を咲かせていた。だいぶ打ち解けたようで、最初の緊張は感じられない。


「はい、私はスパンドリオの出身でして」

「えぇ、そんな遠くから!?」


 スパンドリオはラプラから馬車でも一月は掛かると言われている遠方の国だ。そこから嫁ぐというのは並大抵ではない。


「主人が仕事の関係でスパンドリオに来た時に出会ってから、何度も会う関係になりまして……。今日はお仕事で来れないのですが、主人も感謝しておりました」


 愛がなせる技であろう。


 ユシアも夫マイオスとの出会いに想いを馳せるが、次第に目を落としていった。


「……話は耳にしています。気が利かず申し訳ありません」


 トゥーリットは小さく一礼する。


「いえ、気になさらないでください。」


 ユシアも笑顔で取り繕うが、目に残る哀しさはなかなかどうして消えてくれないものだ。


 しばし気まずい空気が流れた。


「ひとつ、相談してもよろしいでしょうか」


 この空気を先に破ったのはユシアだ。


「息子、マレスが冒険家になりたい、と」


 一言だけ、母親としての悩みを打ち明けた。


 ユシアの目、哀しみ、憂い、迷い……いつも息子の前に立つのは強い母親だった。しかし今はどうだろう。見かけはなんとか気丈に振る舞っているが、その内側は脆く、危なげない。


「『自分は勇者だった』……。魔人に襲われた時に不思議な夢を見たそうなんです。本当かどうかは分かりません。別に疑ってもいません」


 トゥーリットは清聴する。


「息子に夢ができた、我が子の人生に道標ができた、こんなに嬉しいことはありません」

「そうですね」


 トゥーリットは頷く。


 でも――、ユシアは続ける。


「怖いんです。また失うんじゃないかって。重なるんです。夫は慎重な人でした。それでも――」


 ユシアは唇を噛み締める。


「いなくなってしまった」


 力なく、振り絞るような声。


「……私は、母親として失格でしょうか……。母親としてではなく、私が、私自身が、失うのが怖い。ただのエゴなんです」

「……それも母親です」

「息子の夢を素直に喜べない」

「母親だからでしょう」

「私は……ッ!」


 項垂れるユシアの表情は見えない。


「私は……どうしたらいいんでしょう」


 ユシアは前触れもなく夫を失った。いつも通り、家事をこなして、マレスと二人で過ごす日々。それを裂くように報せが届いた。


 マイオスは仕事柄、家にいることが少ないが時たま見せに来るその顔が、ユシアは好きだった。家族としての幸せだった。


 それからユシアは独りでマレスを育てた。大事に、立派になるように、強い母親として。


 ――四年間、『母』というしがらみに囚われながら。


「……ユシアさん、私はあなたが抱えるそれを推し量ることはできません。だからこそ、あなたは強い人だと思います」

「そんなことはありません。母として、何が正しいのか私は分からない」


 ユシアの目には露が溜まっていた。


 これほどまでに曝け出すユシアは珍しい。むしろ、付き合いのない初対面の彼女にだからこそ、ありのままの悩みを打ち明けられたのかもしれない。


「……私も話にしか聞いていませんが、魔人に襲われたとき、エルは恐怖で動けなかったんだそうです」

「えっ」


 ユシアは知らなかった。なぜならマレスは夢のことばかり話すため、それ以外の説明はおざなりだったから。


「マレス君はそんなエルの前に立って、勇敢にも守ってくれたんです。絶望に対して、立ち向かったんです。夢を見る前のことです。その時のマレス君は確かに――」


 トゥーリットは真っ直ぐとユシアを見る。


「確かに勇者でした」


 一見すればマレスは冒険者になるべきだという風に聞こえるだろう。しかしこれは母親同士の会話。


 ユシアもトゥーリットと視線を合わせる。絡まる視線の中で何を思ったか、ユシアの目から遂に涙が零れる。


「そっか……」


 体が大きくなればいいというものではない。心まで健やかに、愛を、亡き父親の分まで注がなければならない。それは母にしかできないことで、だが近いほど分からなくなる。


 成り行きではなく、自分の意思で他人の命の盾になったことを知った。無謀だったかもしれない。震えていたかもしれない。しかし、それがどれだけ美しいことか。それは心に愛がなければできないことだ。


 そしてそれは、ユシアが息子へ唯一無二の愛を注いでいたからに他ならない。


 ユシアの『母』という呪縛は解かれた。


「これ、使ってください」


 トゥーリットはハンカチを手渡す。


「……ありがとうございます」


 その感謝はハンカチに対してか、はたまた……。


「洗って今度返しに来ます」

「ふふ、待ってますよ」


 トゥーリットは微笑む。それは暗にユシアとまた話がしたい、とそういう仕草であった。実際、ここまで人の心に触れたことはなかったトゥーリットはユシアに対して親近感を抱いていた。


「……よし、切り替えた!」


 頬をパシッと叩く。既にユシアの目は澄み切っていた。この先また目が濁ろうとも、息子や友達がいるなら乗り越えられる。少なくとも今はそう思えた。


   *


「ただいまー……」

「「ただいまー!」」


 なぜかヨレヨレになっているマレスとなぜか元気なエル、その真ん中にミアが手を繋いで帰ってきた。


「あらー!」


 微笑ましい光景に歓喜するユシア。見た目によらず可愛いもの好きである。


「ミアもいたのね。それじゃあ、みんなでおやつにしましょう。爺や」

「はい」

「「わぁっ!」」


 本当にいつの間にか隣にいる執事に驚くオリユーズ親子。ガレミア家では日常なのだろう、驚く素振りはない。


「ほらほら、みんな座って」


 トゥーリットの呼びかけに子供らはソファへ向かう。ミアはいつの間にか懐いていたようでマレスの横に座った。マレスも妹ができたみたいで、まんざらでもない様子だ


 それからはケーキを食べながら、日が暮れるまで学校や街、たまに魔法の話を過ごした。


   *


 玄関前。


「これ、餞別です。きっと役に立つかと」


 袋の中には杖や魔石などの魔法具が揃っていた。庶民が買うにしては少々高価なものばかりだ。


「え、いや、こんな高いもの――」

「娘の命よりは安いですから」


 トゥーリットは意外と頑固である。無理やりユシアの胸に押し込む。


「じ、じゃあ遠慮なく……今日はありがとうございました」

「ふふ、また来てください。お気をつけて帰ってくださいね」


 と言ってもトゥーリットがここまで感情を押し付けるのも、性格というより友好の度合いが強い。


「マレスおにいちゃん……またきてね!」

「ミアちゃんまたね!ガレミアさ……エ、エルさん、もまた学校で」

「……バイバイ」


 ミアは少し寂しげだが、元気に大きく手を振る。


 熱が覚めたエルはようやくいつもの通り落ち着いた雰囲気に戻っていた。だが、なんとなく角が取れた感じがする。目は見てくれないが、小さく手を降っていた。


 親子は振り返り、ガレミア家を後にする。


「お父さんのところ寄ろっか」

「うん!」


 夕陽に映る親子の後ろ姿。その影は気のせいか三つに見えた。

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