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 このふざけた呪いにかかってしまってから十年。アンリエットは、いまだかつてなく危険な状況に置かれていた。

 寝台の下に隠れながらも、尻尾を隠すのを忘れるという大失態を犯した挙句、初対面の男に首根っこを掴まれ、そのまま馬車に連れ込まれてしまったのである。

 もちろん抵抗はした。つめを立てき、可能な限り暴れ、毛を逆立てて罵倒した。

『ぎにゃー! にゃー! ふぎゃー!』

はなしなさいよこの変態! 馬鹿! タレ目!)

 しかし男はその手に痛々しいミミズれを作ってなお彼女を放り出すこともせず、にこにこと笑顔でアンリエットを見つめ、『いやあわいい。こんな飴色の毛並みは初めて見るな。ぜひとも連れて帰って俺のまくらにしよう』とごとを吐いたのだった。

 馬車に乗り込んだ男は、窓をきっちりと閉め馬車が出発するのを待って彼女から手を離した。ガラガラという車輪の音を聞きながら、逃げ道を断たれたことを知る。

(いいえ、走ってる馬車からだって逃げてみせるわ)

 そう自らをしたアンリエットは、猫らしい身のこなしで男の正面の座席にのがれ、可能な限りきよをとって再度歯をむき出しにしていかりをあらわにした。

「ふー!」

(だいたいなんなのよこの男)

 アンリエットを掴んでいた男の手にはいくつかの傷が走り血がにじんでいる。つうあんなふうに引っ掻かれたら持っているものを放り出すだろうに、男はまるで痛みなど感じていないかのようだった。

「ずいぶんとようしやなく引っ掻いてくれたじゃないか。傷が残るぞ」

「にゃー!」

ごうとくよ!)

「まぁそんなにおこるなよ。べっぴんさんが台無しだ。お前、あんなところで何やってたんだ? ブノワ公爵夫人は俺と違って病的な猫ぎらいだからあの家の猫じゃないんだろうが、くびかざりをしているところを見ると誰かが連れてきた飼い猫かな?」

(この男いったいなんなの?)

 にこにことじようげんな様子で指を伸ばし、「ちちちちち」とこちらの興味を引こうとしているのが気持ち悪い。

 熊をも倒す野獣将軍じゃなかったのか。まさか猫の正体がオードラン伯爵れいじようだと気づいている?

「うん。かなりの美猫だ。俺の好みど真ん中」

 それともただの変態級の猫好きか。

 どちらにせよ、一刻も早くこの場から脱出しなくてはならない。

(どれくらい時間が経った? 十分? ううん、二十分かしら)

 くちびるむ代わりに鼻をヒクヒクと動かす。

 猫になっても時間が経てば人間に戻るが、困るのは、人間に戻るまでの時間が一定ではないことだった。

 最短なら三十分ほどで戻ることもあれば、半日猫のままでいることもある。さっき猫になってからいったいどれくらいの時間が経ったのかがわからない。最悪なのは、この場で元の姿に戻ってしまうことだ。オードラン家の令嬢にわけのわからない呪いがかかっていることが明らかになってしまうし、何より人間に戻った彼女ははだかである。

 そう、ぜんだ。

 今は猫なのだから仕方がない。しかし人間の貴族令嬢が家族でもない相手の前ですべてをさらけ出すのは仕方がないで済ませられる問題ではなかった。

(そうだ、気絶させればいいのよ)

 アンリエットは名案を思いついた。

 男を油断させて、人間に戻った瞬間に顎に拳をぶち込んでこんとうさせればいい。その間に逃げるのだ。目覚めても何が起きたのかわからないだろう。

(不意をつくなら、男のひざの上にでもいた方が都合がいいのだけれど……)

 膝に抱いていた猫がとつぜん人間になってこうげきを仕掛けてくれば、いくら野獣将軍といえど反応はできないはずだ。

 しかしアンリエットは、「何かひもっぽいのないかな」と周りを探す男をじとりと見た。

(……できたら、あの男にで回したりされるのはかんべんしてもらいたいわ)

 この野獣将軍という男はいかにもぼうそうだ。乱暴に撫で回されれば毛が抜ける。人間に戻った時ハゲができていたら最悪ではないか。

(でも、距離をとっていたら不意をつけない。肉を切らせて骨をつって言うじゃない。えるのよアンリエット!)

 アンリエットは意を決して野獣将軍の方へ歩み寄った。彼女が自ら膝の上に乗ってきたことに「おっ」と顔をかがやかせた男が、「おおーよしよし、可愛い可愛い」とご機嫌でアンリエットの頭を撫でくり回す。やめてとりたいのをぐっと我慢して、そこにせた。

 夜会の行われたブノワ公爵夫人の屋敷はこうがいおかの上にあった。

 野獣将軍の屋敷が王都の城壁の中にあるのなら、そこにたどり着くのに三十分以上はかかるだろう。このままじっと耐えていれば、機会はおのずとやってくるはずだ。

(男と密室で二人きりなんてだんならけいかいしてしかるべき状況だけれど、猫の姿である限り女性としての尊厳がそこなわれるようなことはないだろうし、こうするのが最善だわ)

 アンリエットは冷静に考えたが、それが希望的観測にすぎないことはすぐに証明された。

 おもむろにぐいと身体が引っ張られる。

 アンリエットのわきに手を入れて抱き上げた野獣将軍は、彼女を自分の前でぶら下げるとしげしげと観察して言った。

「ふむ。ちがいなくめす猫だな」

(!!)

 アンリエットはかっとした。とっさに男の顔面を引っ掻こうと爪を出す。しかしその爪が男に届くことはなかった。

 猫の小さな心臓が、どくんと一度大きく鼓動したのだ。

(来た!)

 耳と尻尾がぴんと伸びて、再び世界が逆転するのを感じる。いつもの息苦しさと、燃えるような熱さ。

 だいじよう。もう準備はできている。先ほどまで前足だった右手をぎゅっと握り、拳を作る。ぐんと伸びた脚を馬車の床についてった。ねらうは正確に相手の顎の下。そこを下から殴れば脳が揺れて意識が飛ぶ。

(この、変態将軍!!)

 アンリエット=オードランのこんしんの拳はしかし、相手がひょいとけたせいでせいだいにからぶった。力の行き先を見失った身体はくるりと反転して倒れ込む。

 それを、どさりと男が受け止めた。

「……」

 呆然とする彼女の顔を、野獣将軍がおどろいた様子で覗き込む。

「おいおいどういうことだ。猫が裸の女になったぞ」

「……っっ!」

 しゆうに失敗したアンリエット=オードランが次にできたのは、馬車から飛び出すことであった。もちろん、車内にあった膝掛け用の布を取ることは忘れない。今は夜中だ。人通りのない郊外のかいどうに一人取り残されるのが危険なのは百も承知であったが、初対面の男と全裸でこんなせまい空間に二人きりでいるよりはまだ安全なはず。

 そう考えてのことであったが、野獣将軍の方がばやかった。ガツッと男の長い脚が馬車の扉を押さえる。男の腕からき今まさに扉に飛びつこうとしていたアンリエットは、突然体勢を変えることもできずに男の膝に顔面をはながしらを強く打った。

「いたい!」

 飛びのくようにして男と距離をとったアンリエットは、持っていた布を身体に巻きつけ、燃えるような瞳で男をにらみ怒鳴った。

【画像】

「そこをどきなさい変態!」

「はははせいがいいな」

(最悪だわ!!)

 鼻がひりひりと痛む。鼻血は出ていないだろうか。

「猫が人間になったのか? それとも人間が猫になってたのか?」

 野獣将軍は眉を上げ、じろじろとアンリエットを観察する。アンリエットは布を両手で強く持ち直した。金の首飾りがそこにあることを無意識に確認する。

 いかんせん馬車の中なので、長く立っているにはきつい状況であった。頭がてんじようについていて馬車が揺れるたびにごつごつとぶつかったが、ではすわってゆっくり話しましょうとはいかないのだ。

しんなら上着くらい提供したらどうなの」

「なるほど、見た目を気にするっていうなら人間が猫になってたんだな。だがどういうことだ。あんたものか?」

「そうよ。あんたなんか仲間を呼んで頭から食ってやるんだから」

 アンリエットはしれっと嘘をついた。

 自分がオードラン伯爵令嬢だとばれるくらいならば、魔物だと思われた方が好都合だ。

「へぇ」

 しかし男は、目の前にいるのが人知をえた異形だと聞いてもおびえる様子一つみせず、平然と腕と脚を組んだ。

「なら、魔術師か?」

 男が自らの喉の下あたりをトントンと人差し指でたたく。

「それは魔術じんだろう?」

「見たの!」

 アンリエットはかっと顔を赤くして布をさらに引き上げた。

「見えたんだ。こうりよくだ」

 男の言う通り、アンリエットのむなもと、心臓に近い場所にはこう大の魔術陣が刻まれている。あのの呪いのせいだ。おかげで胸元の開いたドレスも着られない。

「猫になる魔術か? 何が目的なんだ。アンリエット=オードラン」

 名前を呼ばれ、彼女は愕然とした。

(最悪だわ)

 アンリエットを知らないような顔をしていたのは演技だったというわけか。

 アンリエットは、自分の名前がある種の話題性でもって社交界で噂されているのを知っていた。突然社交界に現れた、こんで美しい伯爵令嬢アンリエット=オードランは、結婚相手を探す独身貴族には看過できない存在なのだ。

 一度の瞬きの後、男がまとう空気を変える。

 いたずらっぽい変態将軍の顔から、りよきゆうだんする野獣将軍の顔に。

 アンリエットは口を引き結んで一度息を止めた。そうしなくては、されそうだったからだ。今なら、目の前の男が熊を素手で打ち倒したのだと言われても信じてしまいそうだ。それほどのあつ感が男にはあった。

「ブノワ公爵夫人の屋敷に、猫の姿でしのんで何をするつもりだった? オードラン伯爵家のむすめが魔術師になっていたとは協会は何も……」

「不可抗力よ」

 アンリエットはすうと息を吸うと、男の言葉をさえぎって言った。

「あなたが私の胸の魔術陣を見たのと同じ、不可抗力です。これは……なんというか意図せずして猫になってしまう魔術なのよ。さっきも思わぬところで猫になってしまったから、人間に戻るのを待っているところでした。誰かを害するつもりはありません」

 わけのわからないけんをかけられるわけにはいかない。この男が本当に将軍職にあるのなら、アンリエットには犯罪者として王城に連れて行かれる可能性さえあるのだ。

「……」

 男はアンリエットの言葉のしんを確かめるようにじっと彼女を見つめた。

 野獣将軍の青と緑の混ざった瞳はこちらのすべてを見抜いてしまいそうであったが、アンリエットは目をらしたりしなかった。

(何も後ろ暗く思うことなどないのだもの)

 それならば、どうしてこの男を恐れる必要があるだろう。彼女が夜会に参加していた目的は人脈のかくとくと基金への寄付だ。犯罪などおかしていない。

「……座ったらどうだ」

 少し威圧感を弱めた男の提案に、アンリエットはじゆうめんで答えた。

「まず上着を貸してちょうだい」

 この布一枚ではあまりに心もとない。

「自分に利益がないことはしない主義なんだ」

「さすが野獣将軍と呼ばれるだけあるのね。ばんな主義だわ」

 とげとげしく言うと、野獣将軍はにこりと笑った。

「エヴラール=アゼマだ。エヴラールと呼んでくれて構わない。ところでアンリエット、やっぱり座った方がいい」

「私を名前で呼ぶことを許した覚えはないのだけれど」

「少し揺れるぞ」

 言うが早いか、ガタン! と馬車が揺れた。立っていたアンリエットは天井にゴッと頭をぶつけて座席に座り込む。

「……!」

「だから言ったのに」

 ずきずきと痛む頭頂部を右手で押さえながらも、身体を隠している布から手を離さなかったのは女としてのきようだ。男はくっくと笑った。

「俺の屋敷についたら冷やしてやろう」

「あなたの屋敷ですって? じようだんじゃないわ。私の屋敷に帰してちょうだい!」

 アンリエットは頭の痛みを忘れて言った。

 自宅に連れ込まれなどしたら、何をされるかわからないではないか。これは本格的に、ていそうの危機である。

「意図せずして猫になってしまう魔術、ね。そんな魔術がかかっていたらさぞ不便だろう」

 男が鼻で笑う。アンリエットは腹が立った。

「馬鹿にしているの?」

「社交界では新参者のアンリエット=オードラン。何が目的で王都にやってきたんだ? お前自身が魔術師なのか? どこで学んだ?」

(なんて馬鹿な男なの。私がいったい何をたくらんでるっていうのよ!)

 アンリエットはいらたしくそう思ったが、自分には想像できないほどのしゆをくぐり抜けてきたのであろう戦地帰り男に対して、怒りでたいこうして得るものがあるとは思えない。

『アンリエット』

 こういう時に思い浮かべるのは、いつだって眼鏡をかけた幼馴染だ。

 カロン=デマルシェリエ。

 あの子が怒ったところなど、数回しか見たことがない。そして彼は怒るアンリエットに対していつも、『アンリエットは優しいね』とけんとうちがいな言葉をかけたのだった。

「百三十二人」

 アンリエットは低く答えた。

「あ?」

「……百三十二人よ。ここ数年のソニボスでの戦争で、アウループに流れてきた難民や孤児の数。彼らに最低限の衣食住や仕事をあたえるために、お金が必要なの。国は頼りにならないもの。困っている人を助けるため、このままうちが破産しないために、オードラン基金への寄付を集めるのが、王都へ来た理由よ」

 ぐっと顎を上げて、まっすぐに男を見る。

 目を逸らしてはいけない。負けるわけにはいかないのだ。

 オードラン基金は、アウループの最後の希望だ。

「あなたが私にどんな疑いをかけているのか知らないけれど、私には余計なことに関わっているひまなんてないのよ。百三十二人の人生がかかってるんだから」

「……」

(ああ。まただわ)

 アンリエットは思った。

 こちらをかすようなあの目。まれるような、青と緑の混ざった瞳。

 まるで、アウループの森にいるフクロウのようだ。森のけんじや。真実を知る王。

 夜の森のかおりがする。

「あんたが資産付きの婿むこを取れば済む話だろう?」

 アンリエットは瞬きをした。

 我ながらどうかしている。こんな男にあの美しい森の王のおもかげを見るなんて。

「アウループ領主、オードラン伯爵令嬢の名は十分なえさになるはずだ」

 男はまるで、当然のことのようにそう言った。

 結婚を、政略的なものとしてしか考えていない顔だ。女を道具のように見ている。しかしアンリエットはけいべつもしなかった。

 今の貴族社会ではこれが普通だ。一代で地位をし向上するには限界がある。結婚と、それによる階級や資産の取引によって発展し、あるいはすい退たいする。その、めまぐるしくも容赦のない世界に耐えきれず、アンリエットの両親は王都を引き上げ領地にこもったのだ。

 戦地派遣でやっと貴族位を得たような男がそういった上流階級らしい結婚観を持っていることにかんは覚えたが、公爵夫人の隣に立つ男だ。すでにどっぷりと貴族社会の考えに染まっていてもおかしくはないのかもしれない。

 アンリエットは息を吐いた。

「あのね。頭に血が上ったら猫になる女を、誰が妻にするっていうの?」

 アンリエットは、自分が両親よりも現実的で強靭であることを自覚していた。必要ならば、ゆうふくな商人の息子と結婚することだっていとわなかっただろう。

 けれどこの胸の魔術陣がそれを許さないのだ。残念ながら。

「結婚なんてもう望んでいないわ。だからそれ以外の方法で、私がどうにかしなきゃいけないの。さっさと屋敷に帰してちょうだい。裸の女性を前に上着も貸せないような野獣と二人無駄に過ごす時間なんて、私にはないのよ」

 そう言うと、野獣将軍は少し驚いたように目を丸くした。

 これは、初めて見る顔だった。

 猫のアンリエットに見せた子供のような顔とも揶揄からかうような顔とも、冷たい軍人の顔とも違う。それまで男の周囲にあった厚い壁に、ほんの小さな穴が空いたような顔であった。

 男は何か思案するように右手で口元を覆うと、やがておもむろに上着をいで差し出してきた。

「少し意地悪がすぎたな。申し訳ない」

 もはや、息が詰まるような威圧感はせている。自分に対するわくは晴れたのだとアンリエットはそれで理解した。しかし差し出された上着にすぐ手を出すことはできない。

 彼女は男をじぃと睨んだ。

「なんだよ。上着がほしかったんだろう?」

「見返りに何か要求するつもり?」

 警戒心たっぷりに問うと、男ははじけるように笑った。

「はっはっは! ざかしい女だな。安心しろ、何も要求しないよ。これはじゆんすいな俺の善意だ。紳士としてのな」

(本当かしら? 疑わしいわ)

 そうは思っても、上着を貸してもらえるのはありがたい。布一枚ではどうにも心もとないのだ。

「……ありがとう」

 アンリエットは男から上着を受け取った。のうこんなめらかなだ。絹の裏地がつけられたそでに腕を通すと、むき出しだった肌がぬくもりに包まれる。目の前の男の体温なのだと思うとてたいしようどうにかられたが、我慢した。

(……)

 当たり前のことだがぶかぶかだ。布がずり落ちないように胸元できっちりと結ぶと、上着のボタンを留めて袖をまくる。

 ちぐはぐな格好だが、全裸よりもずっといい。アンリエットはようやく息をついた。

「そんな不便な魔術を自分の意志で持っているはずがあるまい。どういう経緯だ?」

 男は高く脚を組んだままクッションにほおづえをついている。先ほどまでのじんもんされているような空気は消えていたので、アンリエットはしれっと「あなたに関係ないわ」と答えた。

「それより、屋敷に帰してちょうだい」

「解けないのか?」

「自分が紳士だと言うなら女性の事情に立ち入ってこないでくださる?」

 アンリエットはにっこりと微笑んだ。しかし男はその笑顔に見惚れることもなくあきれたように息を吐く。

「あのなぁ、オードラン家の伯爵令嬢が猫人間だって噂を社交界に流してもいいんだぞ?」

きよう者」

 すぐに笑顔を引っ込めてするどく男を睨みつけると、野獣将軍は楽しげに片方の目を細めた。

「あんた、怒った方が美人だな」

(この男、なんだかやりにくいわ)

 何を考えているのかわからないところもそうだが、どうにも、近所に暮らしていた男たちとも社交界の男たちとも違うのだ。

 ごうまんなほどの自信がみなぎっている。そのくせアンリエットが王都へやってきた目的を糾弾する時覗かせた冷たさは、彼の裏の部分を想像させた。

「……事故よ。幼い頃に、知り合いの魔術師が作っていた魔術に誤ってさわってしまったの。その魔術師はもう亡くなってしまったから、解き方もわからないわ」

「魔術事故か。いつごろの話だ。国内でのことか?」

「十年前です。あとはもくします」

「よし、俺が協会にれんらくして、あんたの魔術を解けそうな魔術師を派遣してもらおう」

 アンリエットは眉を上げた。

「余計なことしないで」

「親切と言ってくれ」

「その亡くなった魔術師のが、友人なのよ。今は彼が魔術を解く研究をしてくれているので、それは無用な親切です」

「ほう。そのあんたの友人はどこに住んでるんだ? 王都か? 名前は?」

「どうしてそこまであなたに話さないといけないの?」

 アンリエットはいらいらした。なんてずうずうしい男だろう。人の個人的な事情にずけずけと踏み込んできて、ずかしいとは思わないのだろうか。

「関係ないでしょう?」

「確かに、ないな。だが興味がある。俺好みの猫に変身する女の事情を聞くのは、いい暇潰しになりそうだ。予定外に時間が空いてしまったしな」

「公爵夫人に振られたの?」

 男の言葉の意味をすぐに察して、アンリエットはちようしようした。

 そういえば、この男はブノワ公爵夫人のどうはん者ではなかったのか。普通、夜会の同伴者が先に帰ることなどありえない。となれば、何かけんでもして帰らされたと考えるのがとうだった。

 男はアンリエットのちようはつに乗ってはこなかったが、少し不愉快そうに眉を寄せた。

「振られたわけではない。新しもの好きの公爵夫人が別の新しい玩具おもちやを見つけただけだ」

「つまり、振られたのでしょう?」

「振られたんじゃない」

 男は再度言った。なんだかいい気味である。アンリエットはさらにからかおうとしたが、相手は女に主導権を握らせるような男ではなかったのだった。

「協会に話を通したくない事情というと……その魔術をかけた魔術師というのは、にんの魔術師だったのかな」

 不意打ちのように切っ先を喉元に突きつけられ、アンリエットは目つきを変えた。

 その反応を見て男がにやりと笑う。

「図星か?」

(こいつ──)

 魔術師という存在は、大きく二種類に分けることができる。

 協会に認可された協会魔術師か、そうでない魔術師か、だ。

 魔術師協会は、魔術師のよく力であり者だ。かつて一国をほろぼしたこともある魔術師という存在から世界を、そして彼らを恐れる存在から魔術師たちを守るために設立された組織。

 固有の領土と『針の穴ニスニアロフ』と呼ばれる城を持つそれを、国家と呼ぶべきだと主張する学者もいるのだという。しかし組織として国と契約し、魔術師を派遣することもあるのだから、その特性としてはきよだいな自治団体──ギルドだとした方が近いだろう。

 協会は、彼らに属しないいわゆる非認可の魔術師に関してもその管理責任は協会にあるとして、非認可の魔術師に対していくつかのことを禁止している。その禁止事項の一つが、『人体に対する半永久的魔術の行使』だ。

 はんした非認可の魔術師は協会にらえられ、最悪の場合きよつけいを課されるのだという。

 それがたとえ、魔術師本人が意図していなかった事故だったとしても、だ。

「解き方のわからない魔術っていうのはつまり、半永久的な魔術ということだろう」

 確信犯的な男の言葉に、心臓の奥の鍵のかかった箱ががたりと一度揺れる。

 怒りはとうに振り切れているのに、今ここでねこにならないのは先ほど人間にもどったばかりだからだった。一度猫になれば、数時間は変化は起きない。それでもアンリエットの内側では、確かにけものきばをむいていた。

「──余計な口出しをしないで。あなたののどぶえに噛みつくわよ」

 アンリエットは相手を射貫くようなまなしで低く告げた。

 猫はその気になれば人の肉を噛みちぎることだってできるどうもうな獣だ。戦場を生き抜いた野獣の息の根を止められないまでも、一生残る傷は負わせてみせる。──大切なものをまもるためなら。

「……なるほど、面白い」

 にやりと笑うその顔がこちらを皮肉ったものなのかどうか判断する前に、異変は起きた。

 最初の変化は、男の顔だ。

 男はまるで普通では聞こえない音を聞きつけたかのようにぴくりと眉を上げて、ぴったりと閉じられた馬車の窓に目を向けた。

(なに?)

 アンリエットが口を開こうとしたのを、人差し指を立てて制する。男の全神経が、馬車の外に注がれているのがわかった。

 もしこの時、彼女が猫であったなら……また違う行動ができたであろう。

 猫となったアンリエットの感覚のえいびんさは、戦場できたえられた野獣将軍のそれにおとらないはずだから。けれどそうではなかったので、アンリエットには起きたことに対処することしかできなかった。

 馬車が緩やかに速度を落としやがて止まる。

 外で誰かが殴られるような音と声が聞こえてからやっと、アンリエットはこれは異常な事態なのだと理解した。

「下がっていろ」

 小さな声で野獣将軍にそう言われ、狭い馬車の中で最も扉に遠い場所に身を寄せる。直後にガタと音がして馬車の扉が向こうから開かれたが、開けた男の顔をアンリエットはまともに見られなかった。

 野獣将軍が、その長い脚を相手の顔にめり込ませたからだ。

「ぶぐっ!」

 という変な声を上げて扉を開けた人間が背中から倒れる。野獣将軍はかんはつ入れずに馬車から出ると、さっと周囲を見渡して言った。

「俺を仕留めるのに、たった三人で来たのか?」

 馬車の中からでは顔は見えなかったが、そのこわから嘲笑とわかる笑みを浮かべているのが想像できた。

「いきなり一人減ったが、どうするつもりだ?」

(信じられない。この状況で、相手を挑発するなんて)

 正気のとは思えない、と眉を寄せるアンリエットである。

 アンリエットのいる場所からでは、しゆうげき者は二人しか見えなかった。『いきなり一人減った』ということはおそらく、最初に蹴りを入れられた男はあのまま昏倒したのか。

 残った二人は共に黒い布で顔を隠していて、闇に溶ける黒ずくめの格好をしていた。そして手にはたんけんを握っている。

 一方で、野獣将軍は手ぶらであった。馬車を背に二人の武器を持った男と相対している。

(軍人のくせに、どうしてたいけんしていないのよ!)

 ブノワ公爵夫人が許さなかったのだろう。あるいは、帯剣など必要ないという自信の表れなのか。そのどちらも、なのかもしれなかった。

 さわさわとの揺れる音がする。視界を照らしているのは馬車に取りつけられたあかりだけで、灯りが届かない場所は暗闇の中に落ちていた。

 まだ王都までは遠そうだ。声を上げて誰かが助けに来てくれる可能性は低いだろう。

「我々は、殿でんを殺すために来たのではない」

 襲撃者の一人が静かに言う。

「持ち物をすべて渡せ」

(……とうぞくだっていうの?)

 とてもそうは見えない。盗賊が襲撃した相手を『貴殿』なんて言い方するだろうか。

 同じことを野獣将軍も思ったのか、ふんと鼻を鳴らして言った。

「通常業務じゃない仕事をうのはすすめないね。仕事に……あらが出る!」

 アンリエットは、一瞬野獣将軍が消えたかと思ったが、そうではなかった。襲撃者たちと一定の距離を保っていたはずの野獣将軍は瞬きの間に距離を詰め、襲撃者の一人に回し蹴りを食らわせたのだ。

 黒ずくめの男はかろうじて腕で顔面へのちよくげきを防いだが、直後に「ぐはっ!」と呻き声を上げてどさりと倒れてしまった。アンリエットには、何が起きたのかまったくわからない。見えなかったのだ。

 倒れた男の短剣をいつの間にかうばっていた野獣将軍は、やいばひらめかせ残った一人におそいかかる。

(信じられない)

 その大柄な身体からは想像できないしゆんびんな身のこなしにぜんとした。

 野獣将軍は、まるでひようのように息をもつかせぬ攻撃を仕掛け、襲撃者であるはずの男は防戦をいられることとなった。他の二人のようにすぐに倒すことができないのは、相手もそれなりに腕が立つのか、将軍が遊んでいるのかわからない。

(ううう。心臓に悪いわ……!)

 この時アンリエットは、扉の向こうの状況に気を取られて、すぐ背後の窓が静かに開いたのに気づかなかった。次の瞬間には髪をぐいと引っ張られ、まどわくに頭をぶつけた。

「っ!」

「はいはーい! 注目注目ー! エヴラール様こっち見てください。この女性がどうなってもいいんですかー?」

 髪が抜けそうな力で引っ張られ、無防備になった喉元にひたりと冷たいものが押し当てられている。とっさに喉元に回る腕を両手で掴んだが、力を入れてもびくともしない。痛みを我慢しながら視線を向けると、自分を捕らえているのは他の襲撃者と違いがおを露わにした男であった。

 頬が赤く腫れて口から血が出ている。目が細く、笑顔にも見える表情でアンリエットに顔を寄せ小さな声で言った。

「大人しくしてないと殺しちゃうよ」

「ドニ、お前……」

 地面に打ち倒した襲撃者に今まさにとどめのいちげきを与えようとしていた野獣将軍が、ぴたりとその手を止めてこちらを見る。彼はため息をついた。

「残念だ。使えるぎよしやだと思っていたのに」

(御者ですって!?)

 それはつまり、この馬車の御者ということだろうか。

「このために、俺にやとわせたのか?」

「あはは。そうですねー。可能なら、今後もエヴラール様の御者でいるつもりでした。けれど思いの外、他のやつらが無能だったので仕方ないなーこりゃ、ってなりましてね。もー。無関係をよそおうために殴られてやったのに。殴られ損ですよ!」

「それは残念だったな」

 無関係を装うために殴られた? 男の顔のは他の襲撃者に殴られた怪我なのか。ああそういえば、馬車が止まった後に誰かが殴られるような音と声が聞こえてきた。あれは、このドニという御者だったのだ。不審に思われないように、わざと殴られた。けれど襲撃が失敗に終わりそうになったので、アンリエットをひとじちに取ることにした。

(ああなるほどそういうことね。わかったなつとく安心したわ……ってなるわけないでしょうが! どうして私がこんな目にってるのよ!)

 と一人頭の中でいそがしいアンリエットである。

「ところでエヴラール様。この女性は、いつ馬車にお乗せになったんですか? もー。いつの間にか知らない人が馬車にいるからびっくりしちゃいましたよー」

 ドニと呼ばれた御者はじろじろとアンリエットの顔を覗き込んで聞いてきた。

 当然の疑問というべきだろう。御者は、人間のアンリエットが馬車に乗り込んだところなど見ていないのだ。

「そいつは俺が連れ込んだ猫だ」

(この変態将軍!)

 しれっと秘密をばくした野獣将軍をぎりりと睨んで心の中で罵倒する。

 伯爵令嬢が猫に変わるだなんて、社交界に知れたらどうなるだろう。異分子をけんする上流階級の人々は、寄付なんてもうしてくれないかもしれない。噂はあっという間に広がり協会から調査が入るかも。

 一瞬で最悪の想像をしたアンリエットであったが、御者はあははと声を上げて笑った。

「はぁ? 猫が人間になるわけないじゃないですか。何言っちゃってるんですか! もうエヴラール様ってばお茶目だな!」

(変態将軍に人徳がなくてよかった!)

 これは野獣将軍の日頃の行いに感謝である。しかしアンリエットは、直後にさぁと血の気を引かせることとなった。

「えーとエヴラール様。一応言っておきますけどね! 一応! オレが手を横に引けば、彼女は馬車の中を血に染めて死にますよ」

 あまりにあっけらかんとした御者の言葉に、自分が命の危機にあるということを自覚するのに少し時間がかかった。

「殺すために来たんじゃないって言わなかったか?」

 野獣将軍は眉を上げる。

「あーそれねそれ! うーんそれがエヴラール様以外の人間の生命は保証のはん外なんですよー。残念ながら!」

「なんだそりゃ。……仕方ねぇなぁ」

 アンリエットはぎょっとした。野獣将軍が足元の襲撃者の腹をドガッ! と思い切り踏みつけたからだ。

「っ! げほっ」

 思わぬ攻撃を受けた襲撃者が身体を折り曲げてむ。

 同時に、アンリエットの首元の刃が少し食い込んだのがわかった。ドニと呼ばれた御者が警戒している。けれど野獣将軍はそれ以上反撃することなく、持っていた短剣を放り投げて両手を上げたのだった。

「服は脱がせてくれるなよ。男相手に興奮するしゆはないんでね」

 そう言って、野獣将軍はにやりと笑った。

 アンリエットは小さく息を吸う。

(本当に、何を考えているのよ)

「もー。降参するんならわざわざ痛めつけないでやってくださいよ。意地が悪いなぁ。じゃああんた、エヴラール様をひざまずかせて両手をしばってくださいね。くれぐれも油断はしないように」

 御者が命じると、襲撃者が蹴られた腹を押さえながら立ち上がり、野獣将軍の背後に立つ。すると野獣将軍は大人しくその場に膝をついた。

 アンリエットがいなければ、男が膝をつくことはなかっただろう。武器を持たず相手が三人いても彼はあつとうてき優位であったし、敗北はその気配さえ感じられなかった。

(私のせいで危機におちいっているなら、私がばんかいすればいいだけの話……だわ!)

 自慢ではないが、貴族令嬢にしては度胸はある方だと自負しているアンリエットである。

 彼女は御者の腕を掴んだまま、その腕にぶら下がるようにして一度両脚を曲げると、座面を思い切り蹴った。

 後頭部がごっ! と不意をつかれた御者の顔にぶつかり、勢い余って馬車から身体が飛び出してしまう。

「きゃっ!」

 引っかかるものもなくずるりと窓からすべちる。後ろにいた男をしたきにして、アンリエットは背中から地面にしようとつした。視界に火花が散る。頭をぶつけたのだ。

(っったぁ……!)

 正常な感覚を取り戻す前にぐいと胸ぐらを掴まれ引き起こされる。

 暗い視界の中で、馬車の灯りに照らされた御者の顔が浮かんだ。

 細い目からうっすらと覗く瞳にはまるでうすぎたないゴミでも見るかのような冷ややかさが宿っている。この男にとって自分という人間の価値はゼロなのだと聞かなくてもわかった。

「小賢しいをする女だな」

 独り言のような言葉からは、無感情な殺意が感じられた。

 こんな視線を向けられるのは生まれて初めてだ。唇がふるえる。

 それでも諦めるわけにはいかなかった。

(死なないわ。私は、こんなところで)

 そう強く思う。

 死んでたまるものか。まだまだ自分には、やることがあるのだ。

 アンリエットはちゆうで、右手が掴んだ砂を男に向かって投げつけた。

「っ!」

 ただられるだけの命であるはずのアンリエットの不意打ちに、男の視界が一瞬奪われる。

 その時、

 ダン!

 という大きな音がして馬車が揺れた。

 見上げたアンリエットの視線の先に、半月を背にした大男のかげが浮かび上がる。

 その男は高くちようやくすると、アンリエットの頭上を飛び越えた。

 背後に着地したのだとわかったのは、後ろから伸びた腕のせいだ。大きな影は、今まさにアンリエットの上に振り下ろされようとしていた刃を持つ手を掴み、反対の腕で御者の顔を殴りつけた。

 まさに電光石火であったが、いかんせんはいりよが足りないと言わざるを得ないだろう。胸ぐらを掴んでいた手が消えて、アンリエットは再び地面に頭をぶつけてしまったからだ。

(信じられない。……馬車を乗り越えてくるなんて)

 暗転する意識の中で、野獣将軍が熊を素手で倒したという話は本当に違いない、と確信したアンリエットなのであった。

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美女たまに野獣 ときどき行方不明の魔術師 山咲黒/ビーズログ文庫 @bslog

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