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 まるですいそうの中のようだ、とアンリエットは思った。

 きらきらとれる光の中を魚たちがおどっている。中にはひらひらのひだを持った魚もいれば、硬そうなうろこで身を固めた魚もいる。かれらが生き生きとしていて自分が息苦しく感じるのは、魚類と人類のちがいなのかもしれなかった。

「いやしかし本当に、おうわさ以上の美しさですな。あなたのような美女をかくしておられたとはオードランはくしやくもお人が悪い」

 先ほどまで特注のカフスのまんをしていた男が、赤ワインのグラスを手にあまめ言葉を口にする。アンリエットは首から下げた金のくさりを揺らし、やわらかいみをかべて「都会の方は口がうまくていらっしゃいますね」と答えた。

 その華やかな美しさと玉を転がすような声に、周囲を囲む男たちが顔面の筋肉をゆるめる。

「もし失礼でなければうかがいたいのですが、どうしてアンリエット様お一人で王都に移り住むことになされたのですか? お一人ではいろいろと心細くていらっしゃるでしょう」

「父が都会に出て見聞を広めてこいと言ってくださったのです。ご存知かもしれませんが、には子供が私一人しかおりませんので」

「オードランの一族ともなると、ご息女といえど多くのことが求められるのですね。我が家の妹にも見習わせたいものです。そうだ、もしよろしければ近いうちにご招待しますよ。妹に会ってやってください」

しつけなおさそいはえんりよしたまえ、ハイールだんしやく。都会の男がみな君のように下心があると思われては困る」

「下心とは失敬な。ただ私はアンリエット様がおさびしくないかと思って」

「それよりもアンリエット様、オードラン夫人はお元気ですか? 領地で静養されるようになってから社交界でお見かけしておりませんので、母が心配しておりました」

「ああそういえば私の母も気にかけておりました」「私の姉も」「うちはが」とばやにオードラン夫人の心配を始めた男たちの争いに油を注ぐことをけるために、アンリエットはひかえめにほほんで「ええ、元気にしております」と答えるにとどめた。

 もちろん、心の中で

(全員下心が丸見えよ)

 と毒づくのは忘れない。

 美しい銀を産む小国ドヴィージュ。この国には王の治める王領以外に十三の領地がある。オードラン家はその中でも代々北東の国境沿いであるアウループ領を治めるいえがらで、それなりの格式というものがあった。

 上流階級に生まれ、本来ならば十六で社交界デビューしているはずのアンリエット=オードランが十八のこの年まで社交界に現れなかったのは、ありていに言えば、それどころではなかったからだ。

「皆様、おやさしい方たちばかりですのね。まだ王都に来て七日ほどですが、故郷へ文を書く手もはずみそうですわ」

 それというのも、アンリエットの故郷──アウループ領の財政難が原因だ。

 アウループというのは、もともとその広さに比べて領民が多いことで知られている領地である。理由は、他領地に比べて安い税金と、多方面に展開されるひんこん層への救済策だ。しようで解放されるりよう院、育てられなくなった子供を受け入れる院、働き口確保のための大規模な農地かいたく

 領主であるオードラン家の当主には代々めつ的な人のよさががれていて、助けを求める者にはすべからく手をべろというのがオードラン家の教えであった。

 貧困層に手厚いアウループ領の財政には常にゆうなどなかったが、それでも二、三年前まではなんとか安定した財政じようきようを保っていたのだ。

 そのバランスがくずれたのは、ここ数年続いたりんごくソニボスと第三国の戦争のせいである。

 戦争の結果生まれた難民や孤児がドヴィージュに──その国境沿いの領地であるアウループ領に流れてきたのだ。ソニボスとの友好条約があるから彼らを追い返すわけにもいかないし、よしんば条約がなかったとしてもおひとしのオードラン伯爵に困っている人々を無下にすることはできなかっただろう。

 あふれかえる治療院や孤児院への対策、難民たちの衣食住の確保のためにいよいよ領主のしきの銀食器まで売り始めたところでこれではいけないと立ち上がったのが、現当主ランドン=オードラン伯爵の一人ひとりむすめアンリエット=オードランであった。

 のほほんとした両親に代わり、そのれつな性格でもって十六さいになる年の秋からアウループ領の財務関係の仕事をになってきたアンリエットが、十八歳という本来ならけつこん相手を探さなければいけないような時に王都へやってきた目的は他ならない──

(この中で一番自由になるお金を持ってそうなのは伯爵家ちやくなんのハイール男爵かしら。次がランドンこうしやく家の次男ぼうね)

 ──金であった。

 もう少し正確に言うならば、去年設立したオードラン基金への寄付である。もし十分な寄付が集まって基金がじゆんたくになれば、戦災難民の救済資金はそこからまかなうことができる。

 そうなれば、オードラン家の破産への道も遠のくはずだった。

「もし困ったことがございましたら、いつでも我がラベル侯爵家をお訪ねください。アンリエット様のようにお美しい方がお一人で暮らしておられるのかと思うと心配だ」

「何、このルスツ=ハイールもお忘れなく。私には妹が三人おります。アンリエット様のよいお話し相手になるでしょう」

「もしごめいわくでなければ今度我が家で開く夜会にもおしください。異国の楽団を呼んでいるのです。きっとアンリエット様のお心をおなぐさめできましょう」

 我先に自らをんでくる男たちをゆっくりと見回すと、アンリエットは意識してあざやかに微笑んだ。

「皆様、ご親切にありがとうございます。実はとても不安でしたの。いろいろと教えていただけると心強いです」

 すると男たちがはっとした顔をする。もし不可視のものを見る者がその場にいたならば、彼らの胸をいたこいの矢を見つけたかもしれない。

(お金のためなら、この外見だって武器にするわよ)

 アンリエットは、自らの容姿について正確に理解していた。

 白いはだふちる深みのあるあめいろかみ、長いまつとばりからのぞあおかつしよくひとみ。使用人が少ないためみずみなどの力仕事もそつせんしてやっていたせいか、身体からだまりぜいにくがない。幼いころからアンリエットを知る故郷の男たちはかのじよぼうだとののしる。けれどそんなとうは心外だ。

 美しく華やかな外見の下に、現実的できようじんたましいが宿っていたからといってなぜ責められる必要があるだろう。責められるべきは、外見だけを見て中身を見ない鹿者どもの方だ。

 アンリエット=オードランはそう疑っていなかった。

 まずは、積極的に社交界に出て人脈を作る。そして少しでも多くの寄付者を見つけるのだ。

(お金のことで頭をかかえて過ごす夜はもううんざり!)

 そう心の中で決意を新たにするアンリエットなのであった。

「おい、ブノワこうしやくじんがいらっしゃったぞ」

 その時さざ波のように広間にざわめきが広がったのは、今夜のしゆさいであるブノワ公爵夫人が現れたからであった。

「今日のお連れはだれだ? 見ない顔だな」

「知らないのか? アゼマ将軍だよ。ほら例の戦地けんから先日帰ってきた」

「ああ、聞いたことがあるな。なんでも、戦場ではじゆう将軍と呼ばれていたとか。野生のくまたおしたという噂を聞いたか?」

「まさか。ちようだろう」

 男たちが小さな声で言葉をわしながら広間のおくに目を向けている。そこには匂い立つような色気を漂わせるブノワ公爵夫人と、数人の貴族がいた。

 連れというからには、彼らが話題にしているのは公爵夫人のとなりに立つ大柄な男性のことだろう。がったまゆと垂れたじりで公爵夫人にグラスを渡しているその様子からは、素手で熊を倒すようなはくは感じられない。ぐせをそのままにしてきたようなボサボサ頭とがっちりとした体格だけが、野獣将軍という呼び名とがつしている要素のように思えた。

 夫であるブノワ公爵が数年前にくなってから、公爵夫人が何人もの男性とを流していると小耳にはさんだことがある。はんりよがいなくなってから男遊びを始めたのだから、まだ誠実だと言えるだろう。

「まぁ、戦地派遣というと、隣国ソニボスの?」

 アンリエットは微笑んだまま言った。答えてくれたのはハイール男爵であった。

「ええ。二年前当時は北のシェールで起きたふんそうに加勢するために一個小隊を率いて向かったそうなんですが、紛争平定後も将軍だけソニボスに残り、アメストリアとの国境争いにじんりよくしたそうですよ。その功績を受け、ソニボスで男爵位をさずかったとか」

「無名の軍人が、貴族となってがいせんというわけか」

「ソニボスにはじゆつがいるだろう? どうして我が国が兵力を貸し出さなくてはならないんだ」

「国とけいやくした協会魔術師は基本的に戦争には加担しないんだよ。水源を見つけたり、山火事をそくに消し止めたり、あとはそうだな。要人の警護なんかが彼らの仕事だ」

「ははぁ。お高く止まっていることだな。実際、契約金も安くはないんだろう? 協会はうるおうばかりというわけか」

「我が国にも魔術師を置くという話は出たんだぞ。二十年以上前だがな」

「二十年以上前? ああ。皇太后殿でんがお輿こしれされた時の話か。あの方はご立派だ。隣のソニボスからとはいえ異国からとついできて、夫を亡くし、その夫が側室との間に作った無能なむすを王として支えていらっしゃる」

「おいっ」

 はっとした男たちがアンリエットの方をうかがうように見てきたので、彼女はにっこりと無防備な笑顔を見せてやった。

「男の方は難しいお話がお好きですのね」

「いや申し訳ない。ご婦人にはつまらない話でしたな」

「あの、ちょっと失礼してよろしいですか?」

 アンリエットは持っていたおうぎを一度開いてまた閉じた。それは、『しよう室に行きたい』という社交界におけるあんもくの合図である。そしてそれを受けた相手は決して相手を引きとめないのもれいであった。

「ええ、はい」

「どうぞ」

「では、失礼いたします皆様」

 アンリエットはスカートのすそをちょっと持ち上げてあいさつをすると、男たちに背を向けて歩き出した。前に垂れた飴色の髪を背にはらい、背筋を伸ばしてりんと前を見る。

(無能な王、ね。こんなおおやけの場で噂話とはいえそんな評価を口にされるようでは、本当にな王様なのね)

 男たちのれるような視線を背後に感じる。彼らはまさか、アンリエットが心中で自分たちの会話を冷静にぶんせきしているとは考えもしないだろう。

王家に名を連ねているのはディオン駄目王陛下と、その義母であるドロテア皇太后殿下のお二人だけか。陛下はまだおきさきもおぎもいないというし、議会内はきっとゴタゴタしてるんでしょうね)

 そのしわせが、オードラン家に来ているとアンリエットは思っていた。

 難民対策のため領地財政がいよいよあつぱくされ始めた時、当然ながらオードラン伯爵は議会へ資金えんじよしんせいを出したのだ。しかしその申請を受けて送られてきたのは、資金が足りないなら領民からの税金を上げよという無情な返答で、それを見た時アンリエットはもう議会にはたよらないと心に決めた。

(……でも皇太后殿下は、一度だけ視察に来てくださったわね)

 資金援助の申請を出して少しった頃なので、二年ほど前の話だ。確か王が変わったばかりで、身動きの取れない議会の代わりに来てくださったのだった。

 彼女はアウループの孤児院や治療院をいくつか回り、議会にうと約束してくれた。結果的に議会が動くことはなかったが、それでも唯一アウループにおうとしてくださった皇太后殿下をうらむ気にはならなかったのだ。

(とにかく、寄付よ寄付! 王城は頼りにならないんだもの。自分たちの力でなんとかしなきゃ)

 雪深いアウループの領民はくつの精神を持っている。こんな逆境に負けてなんていられない。領地では、父と母と生活に困っている者たちが待っているのだ。

(化粧を直して戻ったら、さりげなく基金について持ち出すのよ。がっついちゃ駄目。足元を見られるわ。あくまで、相手の善意に働きかけるの)

『アンリエットはやさしいね』

 ふいにあのおさなじみの言葉を思い出したのは、『魔術師』なんて単語を久しぶりに聞いたからだった。

 アンリエットは首をり優しいおくを振り払うと、化粧室に向かうため水槽のような広間から出た。

「アンリエット様」

 すると背後から声をかけられる。振り向くと、小走りで彼女を追いかけてきていたのは特注のカフスが自慢で妹が三人いるルスツ=ハイール男爵であった。

「こちらのお屋敷は初めてでいらっしゃるでしょう? よろしければ私がご案内しますよ」

 ハイール男爵はさわやかに笑った。

(化粧室についてこようなんて、どういう神経をしているのかしら)

 そう思ったが口にはしない。アンリエットはにっこりと笑顔を返すと、ていねいに言った。

「まぁ。おづかいありがとうございますハイール様。けれど結構で……」

「さぁ。遠慮は無用です。ご存知ですか? ブノワ公爵夫人はとある分野では有名な収集家でいらっしゃるんですよ。この屋敷の中にも秘密の宝物室があって……」

 ペラペラとしやべりながらハイール男爵がかたにぐいとうでを回してきた時、アンリエットはぴきっと額に青筋を立ててこぶしにぎりしめたが、口を引き締めてまんした。

(平静になるのよ。平静に……)

 そう自分に言い聞かせる。

 ここでハイール男爵をなぐたおしてそうどうを起こしてしまったら、悪評が広がって寄付金どころではなくなるかもしれない。アンリエットは意識して息を吸ってくと、笑顔をペタッと顔にりつけて愛想よくあいづちを打った。

「まぁ、さすがハイール様。なんでもよくご存知なのですね」「そんなこと信じれらませんわ。初めて聞いたお話です」「らしいですわね」「そうなのですか。おもしろい方」

 発話者が気持ちよくなる「さしすせそ」を使して相槌を打っていたアンリエットは、自分がやりすぎたことに気づくのに少しおくれた。

「アンリエット様」

 ハイール男爵がろうちゆうとびらの前で足を止めてアンリエットの名を呼ぶ。

「あら、こちらがお化粧室ですの?」

 そうは見えない扉にぱちくりとまばたきをしたアンリエットは、後ろ手に扉を開けたハイール男爵にぐいと腕を引かれて部屋の中にまれた。

 室内に明かりはなく、バタンと扉が閉められてしまうと中は真っ暗になる。アンリエットはこれはまずいことになったかもしれないと眉を寄せた。

 くらやみの中、腕をつかまれたまま背中をかべしつけられる。

「アンリエット様。初めてお会いした時から、私はあなたのとりことなりました」

 近づいてくる男のいきづかいが気持ち悪い。

「おやめください、ハイール様」

「どうかこのあわれな男に情けをください」

 男が首筋に鼻先をこすりつけてきたかんしよくにぞわわと毛を逆立てたアンリエットは、次に男が口にした台詞せりふでぶち切れてしまった。

「知人に聞きましたよ。慈善事業のためのオードラン基金を設立されたとか。私ならいくらでも用立てましょう。あなたが手に入るなら、金などしくはない……うわっ!」

 ハイール男爵が間抜けな声を上げてゆかしりもちをつくような音がする。男をりつけたあしを床に下ろしたアンリエットは、相手には見えないとわかっていながらも目を吊り上げてあごを上げた。

「この私を金で買おうなんて、本気で思っているの?」

 金のために男と寝るような女だと思われたのならとんだじよくだ。この外見は確かに彼女の武器であったが、それで己の尊厳を傷つけるようなことはしない。

「──はじを知りなさい!!」

 部屋が震えるような怒声に心臓が呼応した。

 どくん

 というどうと共に発現した異変に胸を押さえる。

 がやってきたことを、アンリエットは理解した。頭の奥が熱くなる。

 きようがく、怒り、かん──感情の種類は関係ない。とにかく一瞬でも理性が飛ぶような瞬間にその現象は起こった。

 もともと、アンリエット=オードランはかっとなりやすい性格なのだ。グラス一杯のワインをかけられれば、ひとたる分のビールをかけ返すような少女、それがアンリエットだ。この現象のせいでその性質を制御する必要にかられ、訓練を積み、今の彼女になったものの、ほんのたまにこうして──タガが外れることがあった。

 全身のさいぼうが燃えるようだ。息苦しくなり、毛という毛が逆立った。のどまり声も出ない。視界がちかちかとめいめつする。体の内側のすべての骨がけて血の中に混じり合う。

「ご、ごめんなさい~!」

 女の罵倒におそれをなしたハイール男爵が、そこに起きた異変には気づかずほうほうの体でしていく。その際開け放たれたままになった扉のすきからす光を避けるように、アンリエットは部屋のすみの暗闇によろめきをついた。

 この感覚を、どう表現したらいいだろう。

 存在がげられる。世界がゆがむ。

 息苦しさにあえぐが、空気を押し出す喉も変質している。

 一度死んで生まれ変わっているのかもしれないと思ったこともあった。

 世界に一枚のうすまくがかかる。

 やがてその熱は彼女の内側のただ一点に集中するように収縮していき、視界から赤が消えた時、アンリエットは変化が終わったことを知って瞬きをした。

『アンリエット。僕は絶対にあきらめない』

 ぎんぱつの幼馴染と最後に会った時に、言われた言葉を思い出す。

『いつかきっと君を、そののろいから解放してみせる』

 いったいそんな日は来るのだろうか。

 薔薇の呪いを受けた八歳のあの日から、アンリエットは自問自答をかえしている。

 正確には、彼女はもう半分諦めていた。

 あの、かしこがんな幼馴染が、十年もの歳月を注いでもなお解けない呪いならばもう、共に生きていくしかないではないか。

 今ある不幸のせいで後ろを向いて生きていく気など毛頭ない。

 幸運が足りないというなら勝ち取ればいいのだ。そのために、ついてしまった傷からは顔を上げて進み続けるしかない。

「にゃあ」

(まったく、あの男を調子に乗せすぎたわね)

 アンリエット=オードランは少しれた小さな鼻から息を吐いた。

 飴色の毛並みにおおわれた前足をつと前に出し、完全にサイズの合わなくなったドレスからだつしゆつする。チヤームのついた金の鎖が前足の間で揺れた。

「にゃにゃにゃにゃあ。……にゃにゃあ」

(仕方がない。この部屋に隠れて、人に戻るのを待つしかないわ。かぎを閉めておけば、誰も入ってこないでしょう。……この姿で、鍵がかけられればの話だけれど)

 呪いを受けた最初の頃は、変化が起きるたびに目を回したものだがもう慣れた。人間の高い視界に比べ、四つ足のその小動物の視界は低いが広く、むしろ人間である時よりもずっと気配にはびんかんになったし、暗闇でも不自由をしなくなった。

(誰か来る)

 アンリエットははたと扉の外から聞こえてきた足音に気づくと、室内をわたしすぐに対策を打った。

 今さら扉を閉めれば余計な注意を引く可能性がある。まずは床に落ちているドレス一式をくわえてしんだいの下に押し込んだ。足音の主が扉が開いているのをしんに思って中をかくにんしてきた場合、ドレスだけ転がっていたのではあやしすぎるからだ。最後にくつを隠し終えると、自分もまた寝台の下に入り込み息をひそめた。

(通り過ぎてくれれば一番いいのだけれど……)

 そう願ったが都合よくはいかないらしい。やがて足音の主が部屋の前で足を止めたのを知って耳をぴんと伸ばす。ちようつがいれるかすかな音がした。扉をさらに押し開けたのだ。

(入ってこないで!)

 心の中でそう命じるが通じることはなく、それどころか信じられないことが起きた。

 足音がまっすぐ寝台の方へ向かってくる。次いでにょきりと寝台の下に入り込んできた腕が、アンリエットの首根っこをむんずと掴んだのである。

「ぎゃにゃ!」

 寝台の下から引きずり出されてぐんと視界が高くなる。

「おお。おれ好みの美人ねこちゃんじゃないか」

 アンリエットはぼうぜんとした。

「もしかして隠れてたのか? それならしつも隠さなきゃいけないな」

 男は垂れた目尻に皺を寄せてにかっと笑う。

 いわおのような体格にボサボサ頭──どこかで見た顔だと考えてすぐに思い出した。

 熊をも倒す野獣将軍。

 そのくつたくのない笑顔が、アンリエットの顔を覗き込んでいたのである。

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