美女たまに野獣 ときどき行方不明の魔術師

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「あなたこれから蛹（さなぎ）になるの？　カロン」

　八歳（さい）のアンリエット＝オードランは、領主屋（や）敷（しき）の離（はな）れで虫のようにうずくまる幼（おさな）馴（な）染（じみ）を見つけて眉（まゆ）を上げた。

　彼（かれ）の小さな背が小刻みに動いているのは、床（ゆか）に散乱した紙にガリガリと何かを書きつけているからだ。細かで乱暴なそれはとても意味を持った文字には見えず、他にもアンリエットには理解できない記号や文様が幼馴染の手から生み出されていくのを、彼（かの）女（じよ）は珍（ちん）種（しゆ）の生物を前にしているかのように見つめた。

「カロン。お母様にサンドイッチを作ってもらったのよ。一（いつ）緒（しよ）に食べましょうよ」

　アンリエットは両手を広げてそう言ったが、一つ年下のカロンはその瓶（びん）底（ぞこ）眼鏡に彼女を映すことさえしない。

　アンリエットは腹を立てて、近くにあったテーブルをバン！　と叩（たた）いた。

「カロン＝デマルシェリエ！　返事くらいなさい！」

　するとカロンの背中がびくりと震（ふる）え、銀色の髪（かみ）を老犬のようにむくりともたげた。拍（ひよう）子（し）に、少年のポケットに入っていた木の実がぽろりと落ちて転がる。あれは、数日前にアンリエットがあげたものだ。分厚い眼鏡がようやくアンリエットの飴（あめ）色（いろ）の髪を映し、カロンはずれたそれをペンを持ったままの人差し指で戻（もど）した。

「ああびっくりした。来てたの？　アンリ」

「来てたわよ！　少し前からね！　あなたが食事もしに来ないから、こっちから持ってきてあげたんじゃない！」

　アンリエットはびしりと隣の部屋を指差した。そちらには寝（しん）台（だい）が二つと埃（ほこり）をかぶった竃（かまど）が一つあるが、奥（おく）の一間であるこの書（しよ）斎（さい）と同じように本や書類に埋（う）もれていたので、アンリエットがサンドイッチの入ったバスケットを置けたのは竃の上だけだった。竃が埃をかぶっているのは、火事になることを危（き）惧（ぐ）したオードラン伯（はく）爵（しやく）が離れでの火器の使用を禁止したからだ。

「モリスが出かけたとたんこれだわ。あのね、人間が生きていくためには食事も睡（すい）眠（みん）も大切なのよ、わかってる？」

　モリスは、カロンと共にこの離れに居（い）候（そうろう）している老人である。彼は昨日から所用で屋敷を離れていて、アンリエットは老人にカロンのことをよろしく頼（たの）むと言われていたのであった。

「それとも魔（ま）術（じゆつ）師（し）は何も食べずに生きられるのだと言うつもり？」

「そんなことは言わないけど……今いいところなんだよアンリ。後で行くから、母（おも）屋（や）で待っててくれる？」

「あのねぇ、そんな言葉を私が信じると思ってるの？」

　ジト目でアンリエットが低く告げると、カロンは困ったように首を傾（かし）げた。

　カロンは魔術師の弟（で）子（し）であった。老人モリスが、彼の師（し）匠（しよう）である。

　四年前、行く場所をなくしていた魔術師の師（し）弟（てい）を、アンリエットの父であるオードラン伯爵が拾ったのだ。

　それ以来カロンはアンリエットの弟のような存在だった。それも、手のかかる弟である。

　日に当たらないせいで白い肌（はだ）と小（こ）柄（がら）な体格、埃をかぶった銀（ぎん）髪（ぱつ）と厚い眼鏡をかけたカロン＝デマルシェリエが、近所の子供によくからかわれているのをアンリエットは知っている。毎回そのいじめっ子への報復を考えて実行するのはアンリエットだからだ。

　そして同時に彼女は、長い前髪と眼鏡の下のカロンの笑（え）顔（がお）がとても可（か）愛（わい）らしいことも知っていた。

　カロンは瓶底眼鏡の向こうでにこりと笑った。前歯がかけているのがいかにも間（ま）抜（ぬ）けだ。

「約束するよアンリエット。昼過ぎにはそっちへ行く」

「ちなみにそれは何をやってるの？」

「ティーラッド式の魔術陣（じん）の構成要素を簡略化する方法を考えてるんだよ」

「私は単語の綴（つづ）りの先生からどうやって逃（に）げようかと考えてるっていうのに、あんたって本当に変な子ね」

　アンリエットは息を吐（は）いた。

「わかった、いいわ。でもお昼過ぎてもこなかったら、この小屋を燃やしにくるからね。お母様が、あなたの好きなチョコレートのデザートを作ってくださったのよ」

「わあ嬉（うれ）しいな。絶対に行くよ。心配してくれてありがとう。アンリエットは優（やさ）しいね」

　アンリエットは目を細めてふんと鼻を鳴らしたが、カロンはすでに床に顔を戻していた。

　時々、いじめっ子がカロンをからかう気持ちが理解できるアンリエットである。カロンは一つのことに夢中になったら他が目に入らないのだ。特に魔術は彼を夢中にさせる最たるもので、アンリエットはそれがあまり気に入らなかった。

　それでもカロンを無理やりこの場から引（ひ）き剥（は）がすことはできない。踵（きびす）を返（かえ）して隣（となり）の部屋に行ったアンリエットは、竃の上に置いたはずのバスケットがないことに気づいて驚（おどろ）いた。

　どうして？　確かにここに置いたはずなのに。

　もしや竃にはおかしな魔術でもかかっていたのだろうかと疑ったが、犯人はすぐ見つかった。開けっ放しであった外への戸口のところに、バスケットを咥（くわ）えた黒（くろ）猫（ねこ）の姿を見つけたからだ。

「だめよ、返しなさい」

　アンリエットは威（い）厳（げん）をもって言った。

「中のサンドイッチはあげる。けれどバスケットはだめ。返しなさい」

　しかし猫に幼いアンリエットの言葉は通じなかったようで、一秒ほどじっと彼女を見つめていた黒猫は、ふいに反転して外に駆（か）けていってしまった。慌（あわ）てたのはアンリエットである。

　猫を追って外に出ると、ちょうど黒い尻（しつ）尾（ぽ）が茂（しげ）みの向こうに隠（かく）れるところであった。

　魔術師とその弟子に貸し与（あた）えられた離れは、もともとアンリエットの祖父が趣（しゆ）味（み）のために造ったもので、周囲には祖父が好きだった薔（ば）薇（ら）の花が植えられていた。夏の前には白い花に覆（おお）われるアーチが今は少し寂（さび）しげに佇（たたず）んでいる。

　猫が逃げた方向はこんもりとした薔薇の茂みになっていて、ここ数年庭師も入っていないので荒（あ）れ放題だ。

「待って！」

　アンリエットはなんとか茂みが途（と）切（ぎ）れているところを見つけて大（おお）股（また）で飛（と）び越（こ）え、急いで猫を追いかけた。広いところに出ると、追いかけてくる少女に恐（おそ）れをなしたのか、猫が咥えていたバスケットを離して茂みのさらに奥へ逃げ込む。アンリエットはほっと息を吐いて地面に転がったバスケットを拾い上げると、きょろきょろと周囲を見（み）渡（わた）した。

　小屋の南側に位置するその場所は、日当たりがよくぽかぽかとしていた。薔薇の茂みに囲まれて、まるでちょっとした秘密基地のようである。実際、庭がよく手入れされていた祖父の時代はよくここでゆったりとした時間を過ごしていたのかもしれない。二脚（きやく）の椅（い）子（す）とテーブルが、薔薇の蔦（つた）をからませぽつんと残されていた。

　自分の家の庭だというのに、この空間に踏（ふ）み入（い）れるのは初めてだ。カロンはここを知っていただろうか。知っていたのに秘密にしていたのだとしたらよくよく話し合う必要がある。こんなに素（す）敵（てき）な場所を自分に黙（だま）っていたなんて。

　その時アンリエットは、テーブルの上で赤い薔薇が花を咲（さ）かせているのに気づいて目を瞬（しばたた）かせた。歩み寄ってよく見てみると、からみついた蔦からたった一輪、赤い薔薇が空に向かって咲いている。

　この時幼いアンリエットが頭に思（おも）い浮（う）かべたのは、祖父の思い出の場所で見つけた季節外れの薔薇を、父に贈（おく）ったらどんなにか喜ぶだろうということだった。

　バスケットを左手に持（も）ち替（か）え、棘（とげ）に触（ふ）れないように注意深く右手を薔薇の茎（くき）に伸（の）ばす。

「アンリエット！　駄（だ）目（め）だ！」

　外での声を聞きつけ、慌てた様子で駆けつけたカロンの制止は遅（おそ）かった。

　アンリエット＝オードランは魔術師の庭に生えた薔薇を摘（つ）んで、──恐ろしい呪（のろ）いにかかってしまったのだった。