第46話マスカット・ベーリーA
【PUB Lioyd《ロイド》】は相変わらず、シックで、落ち着きがあって、最高の癒しスポットだった。
カウンターにいるマスターさんはガタイが良いので一見怖いように感じる。しかし話してみれば物腰は柔らかいし、接客も丁寧で、非常に好感の持てる男性である。
彼はウィスキーに詳しい。そんなマスターによると、ウィスキーの香りを最高に楽しむには【トワイスアップ】という飲み方がお勧めとのこと。これはウィスキーを同じ量の水で割る飲み方である。
この作り方だとウィスキーの高いアルコールが適度に抑えられ、更に香りが最も立ちやすいらしい。
確かにその通りで、スコットランド・スペイサイドのバルヴェニーという銘柄は、マスターさんの語る通り“蜂蜜”を思わせる芳醇な香りを体験させてもらって、それ以来ウィスキーには興味を持った。
(ウィスキーならある程度、語れるのにな……)
と、思いつつも、寧子は好きのはワインである。そこを蔑ろにして、自分の好きを押しけることはあまりしたくはない。
それにここへ今日やって来たのは自分の好きを再確認するためではない。
「マスター、一つ聞きたいことがあるのですがよろしいですか?」
「はい。何でしょうか?」
カウンターで急に口を開いたお父さんに、マスターさんは動揺した素振りも見せずグラスを磨きつつ、響きの良い声で穏やかに反応してくれた。やっぱりマスターさんは凄く安心できる人だと改めて思った。
「これだけお酒が多いのですから、お酒に詳しいのですか?」
「ええ、まぁ。仕事ですから」
「ウィスキー以外でもどうでしょう?」
「一応一通りは。ウィスキー程詳しくはありませんが」
「じゃあ……ワインは?」
お父さんはワインに興味がある二十歳の娘が帰省していて、ワインを買ってあげたいが、何をどう選んだらよいか分からない、と正直に告げる。
するとマスターさんは話を聞くなりすぐさまバックヤードへ入って、ワインボトルを一本持って、戻って来た。
なで肩のボトルの中はやや透き通った赤い液体満たされていた。これがいわゆる“赤ワイン”だということは、お父さんでも分かった。ラベルにはワインらしいカタカナの文字が刻まれている。
「ますかっとべーりー……A《エース》ですか?」
「A《エー》で構いません」
「なんだか甘そうな名前ですね」
ウィスキーの強い酒精の影響か、お父さんは少し強気な発言を口にした。
「そうですね。この名前ですとそう見えてしまうのも仕方ありません。ですがこちらは辛口なのでご安心ください」
「そうですか……」
「これはブドウ品種の名前です。米国原産のベーリーというブドウ品種と、欧州出身のマスカットハンブルクというブドウ品種を、日本国内で交配させて誕生したのがこの“マスカットベーリーA”です」
「へぇ、ブドウ品種を日本で?」
「昭和初期の話です。日本の高温多湿な環境でも病害に強いブドウ品種を開発しようと新潟県で
なんとなく凄いぶどうを使ったワインということは分かったお父さん。
名前だけで“甘そう”口走ってしまったことを今更ながら後悔した。
マスターさんはスクリューのついたナイフのようなものを使って、ワインから難なく、音もなくコルクを抜く。そしてカウンターの上にぶら下がっているピカピカに磨かれていたグラスを手に取った。
やや
グラスの中はまるでルビーのような色合いのワインで満たされた。
「こちらは先日卸の酒屋さんがサンプルでくださったものなのでサービスです。山梨県産マスカットベーリーA樽熟成です」
お父さんはさっそくグラスを手に取り、口へ近づける。
「おっ……」
と、口へ含む前に、思わず弾んだ声を上げた。
グラスから立ち昇ってきたのは、芳醇な果物のような香り。例えていうならば、イチゴのような。ジャムのような甘ったるいものではなく、生のイチゴのような、フレッシュさ。そこへ絶妙にバニラのような香りが混じっている。
まるで新樽熟成が製法上義務付けられているバーボンウィスキーのようだった。
「バーボンみたいな良い匂いがしますね」
「ご明察です。こちらのベーリーAはオーク樽で熟成させています。ベーリーAはこうした樽との相性が良いんです」
「へぇ!」
これまでずっと遠くに感じられたワインが、ぐっと身近な距離に迫った気がした。やはり自分の知っている、もしくは好きなものと共通項があると、あっという間に親しみが持てるようになるのだと改めて感じる。
そしていよいよグラスを傾け、ルビー色をしたワインを口の中へ注ぎ込んだ。
ほんのわずかな、アクセント程度の心地よい甘みを感じる。しかし酸味もあって程よいバランスを取っている。渋みも少なく、赤ワインは渋い、という印象からはやや離れていた。
飲みやすい。だからといって甘い訳ではない。端的に今の思いを言葉で表現するならば――
「美味しいですね。凄く……」
お父さんの感想に、マスターさんは穏やかに「ありがとうございます」と答えた。
そしてお父さんは、このマスカットベーリーAを使ったワインを是非、娘の寧子に飲ませてあげたいと思った。もしかすると、寧子はこのワインを知っているかもしれない。だけどもなんとなく、喜んでくれそうだと思うのは、やはり親子だからだろうか。
「マスターさん、このワイン、どこで購入できますか?」
「そうですね……ん……? むぅ……」
ここに来てずっと表情を崩さなかったマスターさんがみょうちくりんな唸りを上げ始めた。
と、そんな中、入口の扉が開いて、カウベルがからころと音を響かせる。
扉の向こうから現れたのは、お酒以外で、このお店のもう一つの名物。
青い瞳に、天然ブロンドのボブヘアー。この記号だけでは欧米人を想像してしまうが、彼女の顎のラインは少し丸みを帯びていて、東洋人らしい。
西洋人風の記号に東洋人のほんわかした雰囲気を持つ超絶美少女。この店へ通う数多の男性陣のもう一つの目的。
「こんばんわ、リンカちゃん」
お父さんが挨拶をすると、超絶美少女“リンカちゃん”は癒しの笑みを浮かべて、ぺこりと頭を下げた。たとえ声がなくとも、丁寧に対応してくれるのは顔の表情と所作だけで十分に伝わった。
リンカちゃんは食材が入った紙袋を両手で抱えて、マスターさんのいる狭いカウンターへ入ってゆく。どうやらお使いに出ていたらしい。
「お使いありがとうリンカ」
マスターさんのお礼にリンカちゃんは、一際嬉しそうに微笑む。この笑顔を前にしても平然としているマスターさんは、いったい何者か。そもそもこの二人の関係は一体何なのか。
ただの店長と従業員、とはなんとく、違うように思えて仕方がない。
「リンカはこの間このワインの販売店をメモしていたよな? 教えてくれないか?」
「!」
リンカちゃんは“うん”と頷いてお使いの紙袋を置き、ぱたぱたとバックヤードへ駆けてゆく。
どうやらマスターさんは、今お父さんへ出したワインがどこで買えるかを失念していたらしい。
暫くしてバックヤードから戻ってきたリンカちゃんは筆談用のスケッチブックを開いて見せた。しかし相変わらず、お世辞にも字が上手いとは言えず、なんて書いてあるのか皆目見当もつかない。
「どうやら駅前に最近できたOSIROという酒屋で扱っているそうです。価格も1本2000円らしいです」
マスターさんは解読不能なリンカちゃんの文字を的確に読み上げた。
やはりこの二人は、ただの店長と従業員とは考えられない!
「!」
「んっ? なになに……ああ、お客様、ベーリーAは醤油との相性も良いようです。すき焼きと一緒に召し上がるのが良いかと」
再びマスターさんは解読不能なリンカちゃんの文字をあっさりと読み解く。
リンカちゃんもマスターさんがきちんと読み取ってくれたことに満足なのか眩しい笑顔を浮かべていた。
(お兄さんと妹? おじさんと親戚? まさか夫婦……いやいや!!)
ワインそっちのけで、お父さんは二人の関係に頭を捻る。
この二人の関係は、お店に通う皆の疑問だったのである。
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