第45話石黒パパ悩む
「ただいまー」
玄関に明かりはついていた。しかし誰も返事をしてくれない。あったのは雑然と脱ぎ捨てられた、息子の仁矢夫(にやお)のスニーカーだけ。
やっぱり今日もか、と思って密かに落胆したのは一応“石黒家”の家長――つまり、寧子のお父さんである。
妻の真央(まお)からは、今夜は仕事の打ち合わせで遅くなると聞いている。遅くまで仕事を頑張り、共に家計を支えてくれる妻へは頭が下がる思いだった。故に感謝はしても、不満などは微塵も感じやしない
お父さんは弁当と缶ビール――といっても発泡酒――の入ったレジ袋をぶらぶらさせながら、シンと静まり返っている居間へ足を運ぶ。椅子に座って一息つこうと“カロリーオフ、プリン体オフ”の文字がでかでかと踊る発泡酒のプルタブへ指をかけた。
軽快な開放音がまるで仕事という戦闘を終え、無事帰宅という勝利を収めたお父さんを称賛するファンファーレ―のように思えた。やはりこう思ってしまうのは、先日懐かしさから思わずDL(ダウンロード)してしまった、名作RPGのアプリの影響か。
そういえば寧子がまだ小さかった頃、いつも隣でRPGのプレイ風景をみていたことを思い出す。
「ただいま」
「おう」
居間の前の廊下を、寧子の弟の仁矢夫が通ったので挨拶をした。ぶっきらぼうな返答だったが、別に仲が悪いということではない。年相応の反応だと思う。子供が成長するということは、どんどん親から離れて行くことなのだとここ数年で気が付いた。だからいつまでも親にべったりよりも、これぐらいドライな関係性の方が親子共に良いことなのかもしれない。
しかし――
「寧子は、今日も居ないのか?」
「今日も友達と会うって言ってた。スーさんと杏奈さんだっけ」
「……そうか」
健康に気を使った機能性発泡酒はカロリーも、プリン体もオフになっていて薄味の筈なのに、妙に苦みが目立つような気がした。
先日突然帰省してきた彼の娘――石黒寧子は、帰ってきても尚、不在のことが多かった。どうやら以前から親交の深かく、しかし外国へ移り住んでしまった友人が、今戻ってきているらしい。帰省してからほぼ毎日、地元の親友を交えて遊んでいると、妻の真央からは聞いていた。
寧子は既に二十歳を超えている。もう良い大人といっていい。だから例え親であろうとも、子供の行動にとやかく言うのは良くはない。第一、自分も高校卒業後、彼の親もそうしてくれたので、若い時代を謳歌できていた。自分もそれが心地よかった。だったら自分の子供にもおなじことをして、のびのびと過ごしてほしい。そう願ってやまない。
だけど、そうは思えど、やはりどこか寂しい想いもあった。
特に寧子は長女で、初めての子供だったので、目に入れても居たくはない程可愛がった。寧子も寧子とて、小さい頃はことあるごとに「お父さん、お父さん」と言って後ろをついてきたものだった。
そんな記憶があるものだから、ついつい今でもそんな反応を娘に期待してしまう。だけども寧子は既に二十歳を超えた良い大人。そうして欲しい想いはある。だけどそれが実際に起こったら、少し心配になってしまうような気がした。それでも寂しいと感じてしまう自分の矛盾。そんなもやっとした感情を洗い流すように発泡酒を煽り、酔いに身を任せてゆく。
そうしてしばらく一人で過ごしていると、まるで寧子のような声で、妻の真央が帰宅してきた。
「おかえり」
「ただいま。今日は一段と寂しそうね?」
真央は一瞬でお父さんの心の内を見透かしたらしい。さすが二十年以上の連れ添っている伴侶だと思う。
「まぁな」
「そういえばさ、最近寧子ちゃんが何を興味あるか知ってる?」
「いや」
「寧子ちゃんね、最近“ワイン”にはまってるらしいのよ。さすがは石黒家の家系。お酒に縁があるわね」
と、真央はニコニコと笑いつつ、買ってきた発泡酒の缶を冷蔵庫へしまっていた。
お父さんも、真央も、お酒が相当強い自身があった。おじいさんも、おばあさんも、そのまた先代も、お酒をよく飲むと聞いている。
そんな酒豪の家系なのだから、寧子が飲むようになるのも当然と言えば当然。
「ワインか……」
ずいぶん難しいものに興味を持ったとお父さんは娘の成長が嬉しいのと同時に戸惑いを覚えるのだった。
●●●
ワイン――と聞けば値段が高い、敷居が高い、難しそう、シャトーなんちゃらの何年物はどうだとかこうだとか。
とにもかくにも自分には縁がほど遠く、かっこいい男性とか女性とかが飲むものだと感じる。
そんなものに自分の娘が興味を持つ――まさかこれはあれか、彼氏の影響か!?
(寧子も良い大人なんだ、彼氏の一人や二人くらい……)
と、二人いては困ると、仕事中にも関わらず訳の分からないことを考える石黒パパなのだった。
しかし、彼氏がどうのこうのは置いておいて、今は一人娘が何に興味を持っているかは分かった。
会話のきっかけは見つかった。
寧子が戻ってしまうのは明後日である。急がねばならない。
そういうわけでお父さんは、職場やネットでできる限りワインの情報を集めることにした。
お酒の好きそうな同僚や、部下へ“ワインとはどういうものか?”という問いを投げかけてみた。
だけど帰ってくるのはお父さんと同じイメージのお話ばかりで、要領を得ない。
ならばと休憩時間や、出先のちょっとの合間に“ワイン”をキーワードに、ネット世界へ問いかけてみた。
たしかに情報は湯水のように湧いてきた。
初心者はこれを飲め! 的な記事は結構出てくる。
【初心者にお勧め! ラベルが可愛らしく、フルーティーで飲みやすいドイツワイン・シュヴァルツカッツ!】
【あのマスカットを使用した!? 芳醇な香りで気分もアゲアゲ、アスティスプマンテ!】
【大人な時間をこっくりしたフルボディのワインで。カリフォルニアワイン入門!】
この手の記事はワインをよく知らない人にはありがたいものだった。しかし対象はあくまで自分の娘:寧子である。
自分と同じく興味を持ったことはとことん調べる性格なので、きっとこの手の記事に乗っているワインは一通り試している筈。
母親にまで“ワインを趣味にしている”と語っているのだ。今はきっともっと深い領域にまで踏み込んでいると考えられる。
たぶん今でも優しい寧子ならば、こうしたワインを買っていっても、一応は喜んでくれるはず。
しかし今、お父さんがみたいのは、そういった忖度(そんたく)としての反応ではなく、純粋に喜ぶ娘の笑顔であった。
我ながら贅沢。分不相応。それは分かる。
だけども、できる範囲で歩み寄り、娘の最高の笑顔を見たいという気持ちは、心の中心にある。
短時間で、更に自分にできることはもうない。万策尽きた。
ならば、取るべき方法はあと一つ。たびたび足を運ぶ“あのバー(正確にはパブ)”にはたくさんの酒瓶が並んでいた。
きっとそこの主ならば、お父さんの相談に乗ってくれるはず。
お父さんは仕事をいつもより気持ちは止めに切り上げ、妻の真央へは夕食はいらない旨をメッセンジャーアプリで伝えて、陽の傾いた駅前へ速足で繰り出す。
駅前で多数の居酒屋が軒を連ねる大通り。そこから少し暗い脇道へ入って進むと、そこは今日も木製の立派な扉を、スポットライトで控えめだが、煌々と照らし出している。
【PUB Lioyd《ロイド》】
お父さんはたびたびお世話になっている癒しスポットへ、冒険に踏み出す勇者のような覚悟を持って、扉を潜るのだった。
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