Epilogue

無数にある世界のどこか

いつか同じ空の下で

 自分よりも他者を思う気持ちが、奇跡を起こすほどの魔力を増幅する。

 世界を作り直すということは奇跡なのだから、自分の命を犠牲にしなくてはならない。ならない、はずだった。

 は、やっぱり失敗作だったらしい。その結果、こうしてしぶとく生きながらえている。確証はないけど、そういうことにしておく。そういうことにしておけば、顔を上げて生きていける。



 右目をゆっくりと開けた。

 汚れたコンクリートの天井に、張り巡らされたむき出しの配管。ブラインドから差し込む陽の光は、すっかり茜色だった。どうやら、ソファーでうたた寝をしていたらしい。

 ラジオから聞こえるのは、陽気な男のおしゃべり。


 ――いやぁ、恋っていいね。本当にいい。実にいい。


 外から聞こえてくる喧騒はまだ遠い。


「もうすぐ、帰ってくるかな」


 一杯のコーヒーを淹れて飲む時間くらいはあるだろう。


 埃っぽいこの部屋も、ほんの数十日しか過ごしていないのに、すっかり我が家のようだ。

 壁際のステンレスの調理台で、ヤカンを火をかける。この世界に来たばかりの頃は勝手がわからなかったガスコンロは、とても便利だ。

 照明をつけようか迷ったけども、日が沈む前の薄暗い時間が気に入っているから、もう少しこのままでいよう。


 ――なんだろうね、遠距離恋愛って。僕はさぁ、怖くてできなかったけど、なんだか憧れるんだよな。隔たれた距離を超える想いの強さっていうか、ぐっとくるんだよねぇ。さて次にお届けする曲は、遠く離れた恋人たちのバラード『いつか同じ空の下で』


 ソプラノの歌声がラジオから流れてきた。


「いつか同じ空の下で、か」


 頭上のむき出しの配管がガタガタと音を立てた。頭上の配管から、壁の中へと音が移動する。

 何のために、こんなにも配管を巡らせているのか、僕にはわからない。はっきりとわかっているのは、友だちが帰ってきたことだけだ。


「ただいまぁあああ」


 床の近くにある小さな扉からイェンが飛び出してくる。


「おかえり、イェン」


 真っ白な丸っこい体に金色の一つ目の僕の友だちは、ソファーの前にあるテーブルの上に着地した。

 僕は火を止めて、用意しておいたフィルターの中にお湯を注いでいく。ゆっくり丁寧にしないと、ひどいことになる。飲めるコーヒーが淹れられるようになったのは、つい最近のことだ。


「うまくいったかい?」


「うん! ナージェが持ってた首飾りを手に入れたし、神官たちが隠してた汚いお金も言われたとおり、あの子の病室に置いてきたよ」


「それはなにより。ご苦労様」


 イェンがテーブルの上に置いた首飾りは、とても神殿の最奥部で守られるような代物には見えなかった。どの世界にもありそうな木の実を連ねただけの首飾りだ。

 ナージェはどうしてこんな他愛もないものばかり、旅で立ちよった街に残してきたんだろうか。


 コーヒーカップを片手にソファーに戻って、手にしてみる。やはり子どもの玩具のような首飾りだった。


「好きな女の子の忘れ物と旅をしてほしいって、子どものための街で男の子からもらったんだ」


「で、そのあと、この世界の元になった街で、後の勇者にプレゼントしたわけか」


「うん」


「ナージェは、いろいろな街に大きなモノを残してきたんだね」


「うん!」


 無数にある世界の中に、僕らの故郷はもうどこにもない。それでいい。あんな歪んだ世界なんて、存在してはいけない。空を落としてばらばらにしたけど、どうやらばらばらに散らばった街が新しい世界になっているようだ。そう簡単に世界は滅んだりしないらしい。変容し続けながら、世界は増え続けている。


 コーヒーをすすっていると、イェンの目玉が僕をじっと見つめてきた。


「僕の顔に何かついているのかな?」


「ううん。なんだか、今日はとっても機嫌がいいなって」


「そう、かな?」


 首をかしげてしまう。


「そうだよ。君って、いつもニコニコ何考えているのかわからないんだよ。この前だって、君のプリンを潰しちゃったときもニコニコして怒ってないなと思ったら……」


「君は、プリンという僕のささやかな幸せを奪ったんだよ。まだおしゃべりできることを感謝するべきだ」


「だから、笑顔でそういうこと平気で言わないでよ。でも、今日の君は本当に機嫌がいいのがわかるんだ」


 困ったな。僕はまだ素直に感情を表に出せていないみたいだ。あれから罪滅ぼしのために、いくつもの世界を渡り歩いてきたけど、まだまだらしい。


「ナージェの夢を見たんだよ」


「えっ、ほんと? ナージェ、元気にしてた? あ、でも夢、なんだよね」


「うん、夢。でも、きっとただの夢じゃない」


 教えてと跳ねる友だちに、カップをテーブルに置いた。


「夢の中で、ナージェは怒っていたよ。どうやら――」





 今日も、大いなる暈グレートハロは、燦々と輝いている。

 魚たちは、鱗をきらめかせて空を泳いでいる。


 二百年前から、変わらない景色。


 望みどおり、平和で豊かな世界だ。時おり、闇の暈ダークハロと名付けた現象を介して、他の世界からこのハロワールドにやってくる人々がいる。

 地球で空が落ちて、大地がばらばらに解けて散ったときにはもう、無数の世界にわかれていたんだと思う。世界は分裂したり変容したり、消滅したりしている。ハロワールドは、消滅した世界の生き残りを受け入れて、平和で豊かな営みを続けている。ほんのわずかな争いも起こらないのは、この世界が拒絶するからだ。異物を排除するように、世界が荒れてしまう。

 望み以上の、平和で豊かな世界は、変わることがない。そう、未来への変化がないのだ。


「まったく、こんな融通がきかない世界になるとは、ね」


 短かった髪は、膝裏に届くほど長くなった。けれども、私はあいかわらず少女の姿のままだ。

 女神ナージェと、人々には呼ばれている。

 二百年も経てば、ハロワールドの誕生時からいる人はもういない。渡り鳥のゲインも、体の半分以上を機械に置き換えた青年も、再会をはたした少年と少女も、もういない。

 どういうわけか、私は死なないでいる。ばらばらに解けて散った街を旅をしていた頃は、棺の中にいた影王が世界の法則を夢で捻じ曲げていたのだと考えれば、説明がつく。

 けれども、その地球ももうないというのに、まだ生きているのはおかしい。


「イェンのやつ、絶対見つけてみせるから」


 大いなる暈グレートハロに背を向けて、巨大な天球儀の帯のような建造物の中へと続く階段を降りていく。


 異界からやってきた人から、イェンの名前を聞いたとき、さすがに言葉を失った。

 どうやって、生き残ったのだろうか。彼はこの世界のために、命を捧げたはずではなかったのか。いつか、その魂を持っている人と巡り合えるのではという、ささやかな希望はあった。けれども、まだ生きているとは。

 もしかしたら、途中まで私の命を捧げたから、中途半端な形で、私たちは死ねなかったのかもしれない。そういうことにしておこう。深く考えても、正確なことはわからないのだから。


「それにしても、どういうつもりよ」


 イェンの情報は、一つの異界だけではなかった。二つ三つでもない。両手では足らない数の異界に、白い一つ目の異形の話があったのだ。子犬のような姿だったり、鳥のような姿だったり、子どもの姿をしていたり、隻眼の青年と一緒にいたりと、姿形はまちまちだったけれども、共通することがあった。それは――


「何が、英雄よ、義賊よ、怪盗よ! ばっかじゃないの」


 どういうわけか、あのイェンが人助けとかしているのだ。彼なりの罪滅ぼしのつもりかもしれない。はっきり言って、自己満足だ。だって、もう彼が奪った命を覚えている人間は私しかいないのだから。


 だから、私はイェンを探しに旅に出ると決めたんだ。

 ハロワールドは、変態と死にたがりにまかせて、私はもう一度旅に出る。


 階段を降りきった先の白い亜空間には、あの黒い棺があった。


「絶対に、見つけてやるわ」


 棺のふちに手を置く。

 夢の中なら、世界を渡り歩くことができる。かつて、ノアンの姿をした女神に会えたように、行けるはず。


 必ずイェンを見つけてみせる。

 見つけたあとのことは、まだ何も考えていない。というか、考えられない。憎しみから殺してしまうかもしれない。彼らと旅を続けるかもしれない。

 この二百年で、私の背丈は少しも伸びなかったけども、もう泣き虫じゃない。一人では何もできない子どもじゃない。だから、イェンだって昔のままじゃないはずだ。彼も、変わっているはずだ。





 コーヒーがすっかりぬるくなってしまった。


「どうやら、あの棺はアルゴとかいう人工知能に管理を任せるらしいね」


「アルゴ? 昔、僕と話をしたやつかな?」


「さぁね。ともあれ、ナージェは灰色マントの男とその人工知能に、世界の管理をまかせて夢の中に旅に出た。――という、夢を見たんだ」


「僕らを探しに?」


「そう、僕らを探しに」


 飲みかけのコーヒーを置いて、僕は立ち上がった。

 すっかり夕闇に包まれた部屋にも、喧騒が近づいている。


「さぁ、僕らも次の世界に行かないと」


 ベージュ色のトレンチコートに袖を通して、黒いハンチング帽をかぶる。コートは三つ前の世界で譲ってもらって、ハンチング帽は五つ前の世界で無断で拝借した。結構気に入ってるけど、そろそろ新しいものが欲しくなってきた。


「えぇ、まだこの世界にいるんじゃないの?」


 歪な翼を生やして飛び上がったイェンは、この世界が気に入っているらしい。僕もだ。


「予定変更だよ、イェン」


 二十以上の世界をともにしてきたボストンバッグを手に取れば、出発の準備は整った。


「ナージェが僕らを見つける前に、少しでもたくさん罪滅ぼしをしなきゃいけないからね。行くよ、イェン」


 罪滅ぼしと言っても、僕らのためにやっている。死のうと考えなかったわけじゃない。でも、せっかく生きながらえたんだから、少しくらい自分のために生きてみたかった。そう、僕が変わるために罪滅ぼしをしているんだ。僕がいい方へ変われば、きっと大好きなナージェとうまくやれる。そう考えれば、生きるのも悪くない。


「わかった、行こう! あ、でも、もしナージェにばったり出会ったら……」


「その時は、その時だよ。イェン」


 僕の左目の前まで飛んできたイェンは、あっと声を上げてテーブルを振り返った。


「首飾り、忘れている」


「あれは、置いていくよ」


「え?」


「いいからほら、時間がない」


 戸惑うイェンを掴んで、左目を開ける。

 もともとは一つの魂だったというのに、失敗作の僕らは同じじゃない。左目のイェンが見えている景色と、右目で僕が見ている景色は、同じじゃない。


 テーブルの上の木の実の首飾りは、ブラインドから差し込む人工の光に照らされている。


 名残惜しいけど、この世界ともさようならだ。

 ようやく慣れ親しんだ部屋に背を向けて、黒い頑丈な扉のドアノブに手をかける。


「扉よ、まだ見ぬ異世界へ導け」


 次の世界では何が待っているのか、この瞬間はいつでも心が躍る。


 バタン


 部屋に残ったのは、テーブルの上の安っぽい聖遺物と飲みかけのコーヒー、それからラジオから流れる平和なおしゃべり。




 ――次のお便りは……え、あ、はい。緊急速報です。先ほど、大神殿で盗難事件が発生しました。聖遺物を数点盗んだ犯人は逃走中。えー、先日から連続して発生している盗難事件と同一犯であると思われ、心当たりのある方は……




 バタン


 外から扉が開いた。

 空色のワンピースの少女が、静かに部屋に入ってくる。

 誰もいないと気がつくと、少女は落胆の息をついた。

 彼女は踵を返そうとして、テーブルの上の木の実の首飾りに気がついた。


「これって……ネバーランドの……懐かしいわね」


 首飾りを手に取りポケットに押しこむ。


 コーヒーはまだ冷めきっていない。

 ついさっきまで、この部屋にいただろう人物に思いを馳せているのか、少女は唇を指先でなぞる。

 物々しい気配が近づいてきた。の追っ手がすぐそこに迫ってきている。


「結局、この世界でも逃がしちゃったわね」


 でも、少しずつだけど近づいている。

 少女は、頑丈な扉のドアノブに手をかけた。


「その名は、異界への扉」


 バタン


 部屋に残ったのは、飲みかけのコーヒーとラジオだけ。

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棺の少女、夢の空 笛吹ヒサコ @rosemary_h

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