フィリピン沖の大型台風が突如進路を変えて東日本に上陸する見込みとなり、その日は急遽午前中までで休校となった。教室では生徒たちが慌ただしく下校の準備をしていて、俺も帰り支度をしている最中だった。

 そのとき、後ろから女子生徒に声を掛けられた。

「ところで日下部ってさ、やっぱりあの神楽坂と付き合っているわけ?」

 俺はギクリとして振り返った。見ると、岸本たちのグループのメンバーが何人か俺の周りに集まっていて、俺の顔を興味深げに覗き込んでいた。

「なんだ、それ……」

 俺と神楽坂が、付き合っている?

 いったいどんな思考回路をしたら、そんな発想が出てくるんだ?

「だって、日下部っていつも神楽坂と一緒だったじゃん。いつも二人で帰って、こそこそ話してさ。うちらずっと気になっていて、いつか日下部に聞いてみたかったんだよね。で、結局どうなの? 付き合ってんの? ていうか、あいつとヤってんの?」

 女子生徒は下卑た質問を躊躇いもなくしてくる。するともう一人の女子が、

「えー。なにそれ汚―い」

 と、顔を歪めておえっと吐くような仕草をした。

「神楽坂のセックスとか、想像するだけでキモいんですけど」

 その一言で、俺は危うく切れそうになった。だが、二年前の苦い経験の記憶が、昇りかかった感情を抑え込んだ。

「……別に、あいつとはそういうんじゃない。お前らの勘違いだよ」

「え、じゃあ何なの? 同情?」

「……同情でもない。あいつとは、ただの友達だよ」

 いつの間にか岸本たちも会話を聞きつけて俺の周りに集まりだしていた。

「えーただの友達とか。あんだけ一緒にいてそれだけなの? 超受けるんだけど」

「しょうがないよ、神楽坂、日下部以外に友達いないし」

「まあでも、日下部はうちらが友達になってあげたから違うけどねー。あ、そういえば神楽坂って日下部がうちらとつるみ始めたこと知ってんの?」

「……いや、まだ言っていない」

「え? マジ? じゃああいつまだ日下部の友達は自分だけだと思っているわけ? なにそれ超みじめ」

「うわー、神楽坂マジ可哀想―」

「自業自得じゃねー?」

 ……やはり、こいつらに受け入れられているのはあくまでも俺だけらしかった。俺は唇を噛んで、なるべく彼女たちの言葉を聞き流そうとした。

「ねえ、本当に日下部って神楽坂を友達だと思ってんの? 本当は友達のふりをしているだけで、内心、神楽坂のことをウザいと思っているんじゃないの?」

「そんなこと……」

 そんなこと――ない、と言い切ろうとしたはずだった。

 しかし俺は「本当にそうか?」という、もう一人の自分の問いに言葉を詰まらせた。

 彼女たちの言う通り、最近の俺は神楽坂を煩わしいと思うようになっている。そうした自分に、徐々に、無意識的に気が付いている。

「じゃあさ、神楽坂とうちらと、どっちの方が大切なわけ?」

「……え?」

「あ、それ私も気になっていたー」

「そうだよね。日下部の中ではうちらの関係と神楽坂の関係とどっちが上なのか、ここではっきりさせておかないとね」

「えー、神楽坂に負けるとかムカつくんですけど」

「ねー、それはやだよねー。あんなのと一緒にされるだけでも厭なのに、ましてそれより下とかありえないし」

「で、どうなの。本当は神楽坂とは口だけの関係なんでしょ?」

「本当の友達だなんて思ってないんでしょ?」

 俺は言葉に窮した。この質問にどう答えるかが、このグループとの今後の関係を左右することは明白だった。

 ここで俺が肯くことは、それは紛れまない神楽坂に対する裏切りだ。

 だが、俺の脳裏に、二年前のあの情景がまざまざと甦った。

「……」

 ここで神楽坂を選んだら、またあの時の繰り返しになるのだろうか。

 俺は再びクラスから排斥され、あの暗い中学生活に戻ることになるのだろうか。

 そんなことは御免だった。


 ――だったらもう、受け入れるしかないんだよ。


 あの日の岸本の言葉がこだまのように残響する。俺は顔を上げて、岸本のほうにそっと目配せをした。

 すると岸本は目を閉じ、重々しい表情を浮かべて、ゆっくりと首を縦に振った。

「イエス」――。

 言ってしまえ。彼女たちとの関係のほうが大事だと、嘘でもいいから言ってしまえと、岸本は伝えていた。

「……」

 ――俺は、岸本の生き方を認めない。

 それだけは、間違いがなかった。

 だが、今だけは――今だけはその意思を曲げて、状況に流されても許されるのではないか?

「……」

 俺は、覚悟を決めた。

「……ああ、そうかもしれない。実を言うと、俺も最近は神楽坂の相手をするのがちょっと面倒になっていたところなんだ……」

 口元を、下品な笑いに歪める。

 彼女たちに同調すること。

 彼女たちと同じように神楽坂を笑い者にすること――。

 それで、俺が受け入れられるなら、俺は――。

 すると彼女たちは満足げな表情を浮かべて、不意に顔を上げて、俺の背後にいる誰かに声を掛けた。


「だってさ、神楽坂! やっぱりお前には友達なんてひとりもいなかったんだよ! 日下部だってお前なんかより、うちらのほうが大事なんだってさ!」


 その、彼女たちの言葉を理解するまでの一瞬は、俺の人生の中でも最も残酷な一瞬だった。

「え――」

 心臓が、早鐘を打つ。

 振り返るまでの僅かの間に、全身が震え始める。

 だが、確かめなくてはいけない。自分の背後に誰が立っていたのか、確かめなくてはいけない。

 嘘であってくれ。ただの質の悪い冗談であってくれ。それはほとんど祈りに等しい気持ちだ。

 ――だが、その祈りは果たされなかった。


 神楽坂海月は呆然とした顔で俺を見ていた。


「あ――う――」

 何かを言わなくてはならない。

 だが、いったい何を言うのだ。誤解だとでも? そんな馬鹿なことが通るわけがない。

 だって、弁明のしようもないじゃないか――俺はたった今、思いつく限り最悪の方法で、自分の一番大切な友人を裏切ったのだ。

 どさり、と神楽坂の鞄が手元から落ちた。

 ああ、人間はショックを受けると本当に手からものを落とすのか――俺の頭に浮かんだのは、そんな場違いな感想だけだった。

 神楽坂は何も言わず、鞄を拾おうともせずに踵を返して、廊下を駆けだした。

「神楽坂っ」

 俺は絶叫して椅子から立ち上がろうとした。その刹那、

「待て! 追うな!」

 後ろからの声に思わず振り向く。そこにあったのは本性を現したクラスメイトたちの、嘲笑と加虐の悦びに満ちた醜悪な顔、顔、顔――その中心に、岸本の顔があった。

「お前――」

 すべて、このためだったのか。俺に神楽坂に向かってこれを言わせるために、今までずっと計画を練ってきたのか――今までの全部が、演技だったっていうのか――?

 彼らの歪んだ表情のなかで、岸本の顔は不気味なほどに無表情だった。

 その顔に、俺は何を読み取るべきだろう。

 嘲り?

 憎しみ?

 憐れみ?

 だが、そのいずれをも読み取ることはできない。

「彼女を追いかけても無駄だ」

 岸本は言った。

「今のは決定的だった。お前らはもうおしまいだ。だから、もう追うな」

 ああ――そうか。やっと判った――こいつは復讐だ。

「くそ――」

 俺は岸本を殺したかった。

 だが、今は神楽坂のほうが先だ。俺は教室を飛び出し、その刹那、神楽坂が取り落とした鞄に目を止める。

 このままここに置いておけば、こいつらに何をされるか判らない。そう判断した俺は自分の鞄も持たず彼女の鞄を拾い上げようとして、瞬間、あまりの重さに驚いた。

 ――あの馬鹿、今でもこんなに学校に本を持ち歩いているのか!

 だが、一度持ち上げたものを離すわけにもいかなかった。俺は鞄を背負うような形で持ち直し、そのまま神楽坂を追って廊下を走り抜けた。けたたましい跫音が鳴り響く。まるで地面に足が触れるたびに、床が砕けていくようだった。

 そのとき、一瞬だけ背後から、岸本の声が聞こえた気がした。

「おい――待てよ、日下部――頼む、待ってくれ――」

 その言葉は、何故か懇願のような響きがあった。

「く――っ」

 俺は岸本を無視して、そのまま走り続ける。

 落ちるように階段を下り、校庭に出たところで辺りを見回し、裏門に向かって走っていく女子生徒の影を見つけた。

 俺はその姿を全力で追いかける。

 鞄を持ったことによるハンディキャップは予想以上だった。裏門をくぐり抜けて大通りに出た時には、もう息が上がりかけていた。心臓が痛い。苦しい。だが、走るのをやめるわけにはいかなかった。


「はっ――はっ――」


 走る。

 痛む。

 口の中に血の味がする。

 酸素の欠乏に肺臓が悲鳴をあげて血を噴出している。

 それでも走る。胸の奥が徐々に空っぽになって、血の霧だけが膨らんでいくようで、体中の肉が筋張っていく。

 痛い、痛い、痛い――。

 もう鞄を捨てることも忘れている。

 自分がどこを走っているのかも判らなくなっている。ただ、目の前の少女だけを追いかけている。

 自分が追いついたとしても、一体俺は何を言えばいいのか。俺はどうしたいのか。何も判らない。考えられもしない。でも、いま神楽坂を逃したら、きっともうあいつとは二度と会えなくなる。そんなのは厭だ。だって俺はあいつが――、

 だから、走る。

 このまま走れば死んでしまうかもしれない。心臓が破裂するか、酸素が行き届かなくなった脳が死ぬか。だが、ここで走るのをやめたら、俺は生涯いまの俺を呪うだろう。構うもんか。あいつのために死んでやる――。

「神楽坂――――――っ」

 その声に応えるように、空から雨が降り始めた。雨は俺たちの身体を湿らせ、やがて濡らしていった。

 空が荒れていく。視界が白くなり、ばしゃばしゃと跳ねる水が、履き替えもせずにいた上履きを濡らす。やがて神楽坂の足がその雨につられたように走りを緩めて、アパートの路地裏に入ったあたりで、ついに止まった。

「……っ」

 神楽坂はアパートの壁に顔を埋めていた。俺が背後にいることは知っているはずだったが、俺を見ようともしなかった。それが自分のやったことの結果だった。

 俺の頭の中で、かつて俺自身の言った言葉が呪いのようにこだまする。


『お前らはそうやってお互いを信頼し合っているように見せかけて、本当は互いを馬鹿にして笑いあっているんだろう? だから『友達を選ぶ』なんて発想が出てくるんだ! 友達は選ぶもんじゃねえんだよ! 選んだら友達じゃねえんだよ!』


 ――ああ、そうだよ。その通りだ。

 俺は自分の言葉を、他ならぬ自分自身で証明してしまったのだ。

 そしてそれが、おそらくは彼らの復讐だったのだ。俺は、俺自身もまた保身と損得勘定だけで友達を選ぶような人間でしかないことを自分で示してしまった。

 なにが本物の友情だ。なにがお前たちとは違うだ。結局、俺もあいつらと同類の――いや、それ以上に最低の屑だったってことじゃないか。

「神楽坂……」

 いつの間にか、あたりには雷まで鳴り始めた。嵐が来るのだ。だが、その音でさえも神楽坂の嗚咽を掻き消すことはできなかった。

 俺は神楽坂が泣くのを初めて見た。神楽坂はどんなにつらい目に遭わされたとしても、一度だって泣くことはなかった。その神楽坂が、今は声をあげて泣いていた。俺に裏切られたことで――こんな俺のために――俺のために、泣いてくれている。

 その瞬間、俺は神楽坂が世界中で最も愛しい存在のように思えた。三年の時が流れたことで、神楽坂の背中は初めて出会った頃よりも驚くほど小さくなっていた。

 その小さな背中を、俺は思わず後ろから抱きしめていた。俺が神楽坂に触れたのは、それが初めてだった。


 なにが、両義性を帯びた聖なる存在だよ。

 なにが、世界と世界の仲介者だよ。


 ――お前、ただの女の子じゃねえか。


 だが、神楽坂ははじめからそう言っていたのだ。自分は特別な存在ではないのだと――ただの一人の女子中学生でしかないのだと、はじめからそう言っていたのだ。

 気付くのが遅すぎたのだ。

 俺は、どこまでも最低だった。

 神楽坂は後ろから抱きすくめられて、一瞬体をこわばらせたが、やがてすべてを受け入れたように、顔を俯けたまま俺のほうに向き直って、そのまま俺の腕の中で、今度は声をあげて泣いた。俺は神楽坂に初めて会ったような気がした。その背中はあまりにも柔らかく、どこまでも女の子であった。

 冷たい雨はますます激しさを増していった。互いの体温だけが唯一のぬくもりだった。俺たちは風に吹かれて身を寄せ合う雛のように、ただ相手の存在を確かめ合っていた。


                        了

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/marginal かんにょ @kannyo0628

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