それからの一日はこれまでの日々が嘘のように楽しい一日だった。

 俺がカラオケ部屋に恐る恐る入室すると、同級生たちの華やかな声が俺を迎え入れる。

「うわ、本当に日下部君だー」

「まさか本当に来るとはねー。岸本お手柄じゃーん」

「ほらほら、日下部、まずは駆けつけ一曲!」

 思わぬ歓待に俺が挙動不審に陥っていると、岸本が俺を守るように前に回り込んで彼を制する。

「まあ、まずは座らせてやれよ。日下部もいきなりじゃ対応しきれないだろ。駆けつけの一曲なら俺が歌うからさ」

 岸本はマイクを受け取って、男性アイドルグループの人気曲を歌い始めた。

 岸本が俺のフォロー役に回るという言葉は本当だった。

 曲が一巡して、どうしても俺が歌わなければならなくなったとき、俺は緊張のあまり上ずって音を外してしまった。

 すると岸本はすかさずもう一つのマイクを手に取って、俺と一緒に歌い始めた。

 岸本の助け舟のおかげで俺は緊張が少しほぐれて、二番三番に入った時にはちゃんと声が出せるようになった。

 曲が終わると、女子たちが俺たちに黄色い声を掛けて場を盛り立てる。

「うわあ、岸本君優しい―」

「日下部結構うまいじゃん」

 どうやら俺が来ることが受け入れられているのは本当らしかった。

 時間が経つにつれて、俺もこの場を素直に楽しむことができるようになっていく。

 岸本はどうやら女子たちに人気が高いようだった。岸本は背が高く見てくれもいいし、下心をも見せないので、女子達に人気が出るのも納得のいく話だった。

 結局、その日は特に何事もなくカラオケは解散となった。俺と岸本は彼らと別れて二人だけで帰路に立つことになった。

「どうだ? 俺の誘いを受けて良かっただろ?」

 岸本が満足げな顔で俺に言った。

「ああ。最初は少し疑っていたけど、来てよかったよ」

 本当に――楽しかった。こんなにたくさんの同級生と話したのは本当に久しぶりだった。

 まだ気安い仲とまではいかないが、岸本を介してなら、俺も彼らと仲良くすることができるかもしれない。

「……なあ、岸本。俺、お前のこと誤解していた」

 俺は傍らに立つ男に向き直る。

「俺、お前のこと、軽薄で八方美人で、打算と保身だけで動く奴だと思っていた。じっさい、お前と付き合いがあった頃もお前にはそういうところがあったし、それであの日のことで、お前のこと軽蔑もした」

 黙って聞き入る岸本の横顔は暗がりでよく見えない。

「でも、今日はお前のそうした性格に俺が助けられた。俺はお前の生き方を認めるわけじゃないけど、お前という人間の見方が、少し変わったのは確かだよ」

「……別に、日下部は俺に助けられたなんて思う必要はないよ」

「……」

 街灯に照らされた顔に浮かんだのは、自嘲だった。

「どう言い訳や罪滅ぼしをしたって、日下部の今までの境遇に俺が一枚噛んでいたことは事実なんだ。日下部は俺を軽蔑していいし、俺がどうしたって気に病む必要はない」

「……」

「田村たちがやっていることをすぐに辞めさせることはできないかもしれないけど、俺は一応田村たちのグループとも繋がりがある。お前がこれからも俺たちとつるんでくれるなら、俺たちが防波堤になることもできる」

 岸本の言葉には、強い何かが感じられた。

「だから、お前は何も心配しなくていい……でも、ひとつだけ、友人として忠告させてもらってもいいか」

 岸本は俺の顔をしっかりと見据えた。

「日下部は厭かもしれないけど、上っ面だけの付き合いってのも、そうそう悪いものじゃない。確かに俺はあいつらとは口先だけの関係だよ。でも、そんか関係が厭だからってわかり合える奴とだけ付き合うよりは、よっぽど健全な生き方なんじゃないか?」

「……」

「わかり合える奴としか付き合わないなんて、そんなのは友達以前の、気持ちの悪い傷の舐め合いでしかない。それはお前にもわかっているんだろ」

 岸本の言葉は重いものだった。岸本が暗に俺と神楽坂の関係について言及していることは明白だった。

「……それが、誰かを排除する流れになるとしてもか?」

「……俺だって好きでお前をけ者したかったわけじゃないことは言ったろ。仲間内で共通の敵を作れば結束力が高まるっていうのは、人間関係の普遍的な真理みたいなものなんだよ。それはもう変えようがない。実際お前があの日にそれを指摘して、うちのクラスの何が変わった? うちのクラスで、何か良くなることがひとつでもあったか?」

「……」

「何も変わらなかった。何もなかった。だったら、もう受け入れるしかないんだよ。それが賢く生きる方法だ。厭なことだけどね」

「……」

 確かに、それも一つの考え方だ。

 人間は一人では生きられない生き物だし、関係は多いに越したことはない。

 誰かが言っていた。依存する対象が多くなれば、それはもはや依存ではなくなるのだと。

 それこそが、人間が共存するということなのかもしれない。

「どちらの生き方を選ぶかは自由だけど、お前も試しに別の人間関係に目を向けてみたっていいんじゃないか」

「……ああ」

 要するに、岸本には岸本なりの哲学があるのだ。

 少なくとも岸本は無自覚に人を排除して喜ぶような人間とは違う。そのことが判っただけでも、俺にとって今日のことは収穫だった。

 しばらくして岸本とは三叉路で別れた。俺はふと携帯を思い出して画面を開いた。メッセージは三件。いずれも神楽坂からのもので、返信のない俺を心配する内容だった。

「……口先だけの関係か」

 俺は苦い罪悪感を抱えながらも、神楽坂に適当に嘘のメッセージを送って、画面を閉じた。


 岸本のグループとの交流はその一日だけではなかった。

 その後も彼らは俺と少しずつ接してきてくれて、俺はぎこちないまでもそれに対応することができるようになっていった。

 反面、神楽坂とは少しだけ疎遠になっていった。俺は岸本に神楽坂も彼らのグループのグループと交流が持てるよう取り計らってもらえないか頼もうかとも思ったが、まだ俺自身が彼らと打ち解け切れていないうちにそれを頼むのは早計だと思った。

 また、岸本の俺だけが特別だという一言に引っ掛かりを覚えていたこともあった。

 そうしたわけで、俺は神楽坂にも岸本にも何も言えないまま、ずるずると二つの関係を続けていった。

 何も知らない神楽坂は相変わらず俺がクラスで一人なのだと思い込んでいて、お互い辛いだろうが一緒に頑張ろうと毎日メッセージを送ってきた。

 神楽坂に対して罪悪感のあった俺はそれに丁寧に返信をしていったが、岸本のグループとの交流が深まるにつれて、段々と神楽坂のしつこいメッセージが煩わしくなってきた。

 神楽坂にとっては俺は唯一の心の支えかもしれない。だが、俺は今や神楽坂だけを頼りに学校に来ているわけではない。関係の均衡が失われたことで、無意識の内に神楽坂を遠ざけたい気持ちが芽生え始めていた。

 だが、俺は自分の気持ちの変化に無自覚なままだったのだ。

 そして夏休み直前の金曜日、事件は起こった。

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