第一章 その2



 日課と夕食と湯あみを終えた凜瑛は、室に入るなりしんだいたおれ込んだ。特にいつもより朝が早かったわけでもなければ、重労働や厳しい鍛錬をしたわけでもない。思い返してもさほど難しいことをしていなかったが、凜瑛の身体からだなまりのように重い。

 原因として思い当たることはただひとつ。宗熙に命じられたあの箏の独演だ。

 百人近くの娘たちがぬかずく中、凜瑛の前に置かれてしまった宝物殿の箏。弾きこなす腕前などなくても、なにか弾かなければ収まりがつかない。凜瑛は高鳴る鼓動を呼吸ひとつでなだめて、弦に指をかけた。

 選んだ演目は〈天龍〉。

 せんが住まうという険しいしゆんけん山を、雲をけて龍がのぼるさまを表したものと言われる。龍にたとえられる皇帝を寿ことほぐ曲としてもふさわしい曲だ。まさかためし弾きもままならないじようきようで、ゆったりと弦の響きを聴かせる曲を弾く勇気がなかったというのも、この曲を選んだ理由のひとつだ。

〈天龍〉は運指が速く、こう的な側面が強い。しかし指の速さには自信があったし、がくは完全に覚えている。──なによりこの曲は、かつて子龍にせがまれていくとなくかなでた曲だった。昔、子龍がからかって、早く早くとどんどんくので、ちようぜつ技巧のように速弾きをさせられたこともある。

 そんな過去を思い出しながら凜瑛が指をはしらせると、古木のりゆうこうはあますところなく弦を響かせ、音は春のそうきゆうに放たれた。

 院庭なかにわを満たすいん。それとともにわずかにあせばんだ凜瑛のはだしゆんぷうがかすめていったとき、興味深げに眺めていた宗熙が、「──ほう」と声をらした。

「見事なものだな」

 賛辞をたまわったが、しかし凜瑛には直答を許されていない。凜瑛は椅子を降りて頭を下げて受け取った。

ほうを取らす。なにがいい?」

 直々の下問には答えてもよいはずだが、先に「主上」と女官が低く呼びかけた。

「賜ったことこそが最上の褒美にございます」

「ああ、試験中の身で受け取るわけにもいかないのか。ならばそうだな。その箏もひさびさに奏でられて喜んでいよう。しばらく貸してやろう」

「──!」

 宗熙の一言に、だれかが息をんだ。──おそらくその場にいた大半の者だったと思われる。

 国宝級の箏を宮女にも満たない娘に貸与するとはなにごとか。宮城のしきたりにうとい凜瑛でも、がく府の者が聞けばそつとうしかねないことだと気づいたが、宗熙はこおりついたその場の空気を知ってか知らずか、

「これのげんは切るなよ」

 そうじようだん交じりに言い置いて席を立った。


 ──大変だったのがそのあとだ。

 宗熙が去り、顔を上げた娘たちの目は貸与された名器にくぎけだった。そんな娘たちを女官たちが追いはらい、凜瑛は取り囲まれてこのたびの事の大きさ、名器の由来から取りあつかい方法までこんこんさとされた。しかし玉命をくつがえすことができる者などいるはずもなく、一せんしゆうじよにすぎない凜瑛の一存でお断りするなど言語道断、名箏はひとまず凜瑛の室に運ばれ、凜瑛以上に手厚く警護されることとなった。

 そしてようやく解放された凜瑛が昼食に向かったところ、その室には娘が三十人ばかり、それまであわただしかった話し声がぴたりとやんだ。うわさをしていた当人が現れたのだからたしかに話しにくいだろう。しかしちんもくも気まずかったのか、話題を変えてまた室内はにぎわいはじめたが、凜瑛の耳はひそひそと話す声をしっかりと拾っていた。

『姫大将軍のひとり娘』『えんで試験のちゆうから』『天永陛下のときはこばんでいたものを』『どうしていまさら』『もう十七ですって』『なら上手うまくて当然』『わざと弦を切って目立ったのかも』『点数かせぎ』

 そうして落ち着くところはたいていおなじだ。

とし

 ──わかっている。背がびきったこの年になれば多少の年の差も気にならないが、伸び盛りの十三、四のとしごろの娘にとって三つの年の差は大きい。それにこの年頃の娘は、近い者同士で寄り集まって異質なものをはいじよするけいこうにある。箏の一件で凜瑛は期せずしてかつこうの標的になってしまったようだ。

 その年頃は凜瑛自身も通ってきた道、目くじらを立ててもしかたがないし、自分というわかりやすい標的がいることで、ほかのだれかがせいにならずに済むのならそれも悪くはない。

 凜瑛は話題のちゆうにさらされながらも食事を終えると、午後にのぞんだ。

 午後の課題はい物で、娘たちはばなしもせず、一心に針を動かしていた。しゆうならまだしも縫い物は女官の中でも下級職の仕事、名家のおじようさまがあつとう的に多いためか、縫い物には苦戦しているらしい。

 いえがらでいえば凜瑛もかなりの〈お嬢さま〉ではあるのだが、武芸のけいで破れた服のつくろいは全部自分でやっていた。戦場では針仕事も武官の仕事だ、という父の教えにしたがったかたちだ。おかげでぎわよくできてしまい、仕上がった者から室に下がっていいというので、凜瑛は一足先に終えて夕食をり、湯を使わせてもらった。

 そして室にもどるなり寝台に倒れ込んで、現在に至る。

 重い身体を横たえてようやく、凜瑛はほうと一息つく。それもつかの間、横になった視界に飛び込んできたのはいろの毛氈だった。凜瑛が室にもどってくるまで、住人不在の室で警護をされていたという国宝の名箏、宮城内での序列が凜瑛より格上であることはまちがいないいつぴんだ。

(あああ……)

 その箏に朝の一件を思い出した凜瑛は、思わずを頭からかぶった。き上がるずかしさにそのまま消え入ってしまいたかった。

 思い出したのは、娘たちの前で箏を奏でたことではない。こうていぜんで〈天龍〉を奏でたこと、だ。

 自分は〈天龍〉を弾きこなす技巧があるとのおごり、そして箏の調べが──〈天龍〉が宗熙のきんせんれて、子龍としてのおくを引き出すことができるのではないか、そう思ってしまった。そんなおのれの甘さがずかしい。

 凜瑛の演奏は、ひとまず宗熙を満足させることはできた。しかし、皇帝宗熙の皮をがすこと、そして子龍としての記憶やおもかげを引き出すことまではできなかった。

 あのときの、しようさんしつつも他人を見るような宗熙の目。そして傲岸な態度。二年っているとはいえ顔かたちはたしかに自分の知っているものだったのに、人が変わってしまったかのようだ。

 どうして。そう思う一方、しかたない、とささやく声がある。

(皇帝陛下、なのだものね……)

 れいぐうされていた一公子から皇帝へ。とつじよおとずれた劇的な変化が、子龍を変えてしまったのだとしても無理もない。

 宗熙はもう自分の知る子龍とはちがうのだろうか。それとも見つづけていれば昔の子龍のへんりんを見られるのだろうか。

(子龍師兄にいさま……)

 その名をつぶやくだけであたたかい気持ちが満ちるのに、春の夜の室内はしんと冷えている。外はもっと寒いことだろう。あいかわらず室の外には気配を感じる。ほかの娘にもこうしてかんがついているのだろうか。務めとはいえ大変なことだ。しかし気力を使い果たしたいまの凜瑛には監視の目を気にしているゆうもなく、このままどろのようにねむってしまいたかった。

 現実に見ることはかなわなかったなつかしい面影。夢の中なら会うことができるだろうか。

 掛け布をかぶったまま一呼吸、二呼吸──いつしか凜瑛はなつかしい思い出に落ちていった。



 今朝は早朝からすっきりと晴れて、早春の空だというのにかすみもなく、抜けるように青い。こんな日は思いきりけんの稽古をしたいのに、うまくはいかないものだ。いまの凜瑛の恰好はたんれん用のではなく、名家の娘としてのすその長い衣装だった。

 午後にはそうの指南役が訪ねてくる。それまでにこの曲をさらっておかなければいけないのに、まだ上がっていない。というのもこの数日、剣稽古に明け暮れていたせいだ。

 まさにごう自得。けれどもどうして自分だけ箏だの茶だのと習いごとが多いのだろう? 兄たちも鍛錬の合間に書を読んでいるが、それは凜瑛もしていること。絶対に兄たちよりも剣稽古のほかにするべきことが多い。

しやおりんの将来に役立つことよ』

 そう母は言うけれども、箏がけたところでなんの役に立つというのだろう。自分も兄さまとおなじがいいのに──そう思いながら、を一音一音追っていたときだ。

「凜」

 その呼びかけに、凜瑛ははっと顔を上げた。

「子龍師兄さま!」

 らんかんの合間から顔をのぞかせたのは、従兄いとこでありけいでもある子龍だった。

「今日は訓練に来ないのか?」

 子龍の長いくろかみはしっとりとれていた。ひとあせかいて水で流してきたあとらしい。

 まさか今日、子龍師兄さまが来るなんて。完全に時間配分をまちがえた。自分の要領の悪さに凜瑛はさらに落ち込んだ。──くやしい。

「──行きたかったのですけれど、練習が終わらなくて」

 凜瑛はすこし苦い口ぶりで譜に視線を落とした。それもこれもすべて、望みもしない箏の手習いのせい。思わず箏に当たりそうになった凜瑛だが、しかし子龍は気にした様子もなく、ひょい、と譜を取り上げた。

「あっ」

「へえ、〈てんりゆう〉か。ずいぶん難しいものを習っているんだな」

「おわかりになるのですか?」

 譜には題は書かれていないし、〈天龍〉は音数が多い。譜を一目見ただけでわかるのは、それなりに楽器を弾けるということだ。

 子龍の武人の一面しか知らない凜瑛はおどろいたが、「まあ、耳にする機会も多いからな」と当の子龍は流した。

(あ……)

 ──いつもけていたしよに、触れてしまったかもしれない。

〈天龍〉は龍にたとえられる皇帝を寿ことほぐ曲でもある。子龍は今上帝の第二公子、たしかに耳にする機会が多い曲だろう。子龍がこうしてたびたびやしきに訪ねてくるのも、宮城での立場の複雑さゆえだ。宮城を思い出させるようなことには触れたくなかったのに。

 思わずくちびるんだ凜瑛だったが、しかし当の子龍は「へえ」と興味深そうな目で譜を追っていた。

「これが弾けるのか。すごいな」

「すごい……ですか?」

「ああ、凜はいたことはないのか? すごくかっこいい曲なんだ」

 そう言うと、子龍は曲を口ずさみはじめた。

(あ……)

 それは、凜瑛が思っているよりずっと速い曲だった。譜で追えるのは音の並びだけ、曲調も速さもわからない。箏の師は先入観を持たせないようにと曲をさらうまではためしの演奏をしてくれないので、凜瑛はそれこそ算術のように音を順々に追うだけだった。

 けれども子龍の歌に乗って、曲の実態が伝わってくる。かっこいい、と子龍が評したのもわかる。それまで重く感じていた一音一音がとうのように連なって、雲をつらぬいて天にけあがってゆく。

(これが〈天龍〉……)

 そうてんの下、ぼうと聴きれていた凜瑛に気づくと、子龍が視線を向けた。

かないのか?」

 そう言われても、宮中の本物の演奏を知っている子龍の前で弾くなど、恥ずかしくてできない。しかし子龍はしりみしている凜瑛にしようすると、

「凜はだな。べつに宮中のがくを目指しているわけじゃないんだろう?」

 そのてきに凜瑛ははっとした。たしかに凜瑛は箏の演奏家を目指しているわけではない。上手うま下手へたなど気にせず思うように弾けばいいと、子龍の目は言っている。そして、

「凜の演奏が聴きたいんだ」

 その子龍の一言が凜瑛の心を貫き、その後の凜瑛の箏に向き合う気持ちを変えた。



(──!)

 そのとき、凜瑛の感覚がとつじよけいしようを鳴らし、意識が夢から現実へと引きもどされた。

 外から気配を感じ、体中にいなずまがはしる。ここはなつかしい過去でもていでもない。昨日来たばかりの後宮だ。そしてその気配は先ほどまでの監視役とはちがった。あきらかになんらかの武芸の達人だ。

 凜瑛は目覚めたことをさとられぬよう、呼吸を乱さぬことを意識しながら、そっと指先をしきわせて剣のつかさぐる。柄の中身はなまくら、れないただの鉄だが、に比べれば立派な武器だ。

 気配がするのはろう側ではなく、外に面した窓の方だった。たしかにそちらにも窓はついているが、その窓はりの花窓で人が通るすきなどない。どうやって──と考えているうちに、花窓にれた気配がしたかと思うと、花窓のわくを押して、ひとかげすべりこんできた。

 どうやら押して開くように細工がされてあったらしい。室内は昨日のうちにくまなく調べたはずなのに、細工をけなかった己がやまれる。

 窓から降り立つ気配。──たしかに室内に、人が、いる。

 しかしその人物は、凜瑛をしんかんさせた達人の気配とは別だ。その足の運び、入ってきた者も相当な鍛錬を積んでいる。

 足音はなく、息もひそめてたしかに近づく気配。凜瑛はたかぶるどうおさえて、気配から動きを読む。

 窓からしんだいまでのきよを何度も思い出し、このじようきようとの整合性を取る。そして。


 ──間合い!


 凜瑛はするりとけ布からけ出すと、しんにゆう者に向けて剣をぎはらった。

 ギンッ、とひびく重い鉄同士がぶつかる音。重いしようげきが凜瑛の手首に伝わった。どうやら相手は凜瑛の一撃を柄で受けたらしい。

 そして剣を力押しではじき飛ばされたかと思うと、凜瑛はとんぼを切って寝台をはなれ、間合いを取った。

「何者!」

 かべぎわに仕込んでおいた暗器を手にしながらの、凜瑛のするどすい。いざとなれば、背後のとびらからげることもできる。

 それに対して、ふっとれたいき。──その吐息だけで、察した凜瑛の身体からだの一部がふるえた。

「あいかわらずかんは良いようだな」

(この声……)

 おくの奥に大切にしまっていた声。そしてたった今、夢の中で聞いていた声。それを現実に耳にして、ふるえる心と身体でその相手をぎようする。

 ともしびを小さくしていたしよくだいにぼんやりと照らし出されていたのは男性、黒地のちようほう姿だ。とはいえ同色でされた龍のしゆうとそのうろこせいさに、すぐさまいつぱん人が身にまとうしろものとはちがうものだとわかった。

 問題は、なぜ、いま、凜瑛にあたえられた室内に、そのやんごとなきころもをまとう人がいるのか、ということだ。

「陛、下──」

 驚きのあまり、凜瑛はぼうぜんと立ちくす。そんな凜瑛の前で、侵入者──こうてい宗熙は、窓の外に向かってひらっと手をり、

「問題ない。ひかえていろ」

 そう命じると、やみの向こうでいくつかの気配が消えた。凜瑛を震撼させたれの気配は皇帝宗熙の護衛のものだったらしい。

 そして宗熙は凜瑛と向き合うと、ふっとくちもとをゆるめた。

「ひさしいな」

 すこしやわらかくなった宗熙の表情、それが過去のおもかげとかさなった。

 かみは昔よりきっちりとい上げてごうしやにしきはくおおわれていたが、まつに意志の強い目、せいかんな首筋は二年前と変わらない──いや、さらにきたえたのか筋の深さが増している。

 そしていまの宗熙の目は朝会ったときの、他人を見るような目とはちがっていた。宗熙は自分のことをたしかに覚えている。

「かれこれ二年ぶりか」

師兄にい、さま……)

 凜、と昔のように呼んでもらえる気がして、凜瑛の胸がとくとくと高鳴った。

 まずは皇帝そくの祝辞を述べるべきか、それとも会えなかった二年の間にあったことを伝えるか。自分のけんけいしんちよくや、最後の春に巣を作っていたつばめひなが無事巣立ったこと、庭に植えていたももの種から芽が出はじめたこと──話したいことはたくさんあるのに、あまりにとつぜんの出来事に、はじめの一言が出てこない。

 凜瑛が頭の中をぐるぐるさせていると、宗熙のほうから切り出してきた。

「こんなかたちで再会することになろうとは思わなかった」

 しかしそのこわは再会の喜びを感じさせるものではなかった。どちらかといえば非難に近い。なぜこんなところにいるのかという響きだ。宗熙はつづけた。

「後宮入りはいやだったんじゃなかったのか。後宮に入るためにたんれんしていたのではないと、泣いていただろう」

「……!」

 それは三年前の春──伯苑の後宮入りをしんされたときのことだ。泣いて逃げた姿を子龍に見つかった。

「そんなおまえがいまここにいる。どういう心境の変化だ?」

「それは──」

 伯苑の後宮と子龍の後宮。あのときといまとでは凜瑛にとってはおおきく事情が異なるが、後宮入りそのものが嫌だと言って断っていたのだから宗熙にしてみれば状況はおなじ、当然いだいている疑問だ。

(子龍師兄さまの後宮だったならわたしは──)

 しかし当人を前にしてそのようなことは言い出せず、凜瑛は言いよどむ。

「武の道はあきらめたのか」

「いえ! あきらめてなどおりません」

「ではなぜここにいる」

「それは────陛下をお守りするためです」

「なに?」

 思わぬ返答を受け、宗熙はまゆを寄せる。凜瑛は父世凱から聞いた事情を明かした。

「いま宮城では警護の数を増やしているとお聞きしました。そこで後宮にも警護は必要だというので、みつせんしゆうじよ試験に送り込まれたのがわたくしです。この任を無事終えたあかつきには、きゆうてい武官のすいせんを受けられるやもしれないと父から聞いております。けっして武の道をあきらめたわけではございません」

 宗熙は意外な返答に目を丸くしていたが、なるほどな、とごちた。

「武官になる前に、まずは後宮にうでだめしに来たというわけか」

(腕試しだなんて……)

 そんなたいそうなことは思っていない、そう返そうとした凜瑛だが、

「──変わらないな」

 そうつぶやいたその表情。きびしい中にもかすかに宗熙の目許がやわらいだ気がして、凜瑛は思わず見入ってしまい、反論しそびれた。

 三年前、武官になると言い張っていたのは伯苑の後宮入りをこばむためだった。今回もまた、父がぶらさげたいついたにすぎない。しかし理由はなんでもよかった。──もう一度、この人と会えるのならば。

 ずっと会いたいと願っていた。けれどもとても遠い相手で、もはやかなわぬ夢かとも思った。しかしいま、その相手が目の前にいる。

(子龍師兄さま……)

 まさか夢ではなかろうか。自分はもうてしまっていてこれは夢の中の出来事、先ほど見ていた夢のつづきで都合のいい夢をつくりだしているだけ。思わぬ幸運にそのようなことを疑ってみる。

 そんな凜瑛の前でなにやら考え込んでいた宗熙は、「なるほどな」といま一度うなずいて、あらためて視線を向けた。

「あれからも鍛錬を続けていたのか」

「はい。一日も欠かさず」

「そうか。によにんかぎりという制約があるとはいえ、いきなり前線にほうりこむとは師父殿どのようしやがないことだ」

 その言に「前線?」と凜瑛が小首をかしげると、宗熙がしんそうに眉をひそめた。

「伯苑の件を知ってここに来たのだろう?」

「ええ。宮城内で災難にわれたとか」

 宮城の警護を増やしはじめたのは、伯苑がおそわれたことがきっかけだと聞いている。

「その災難に見舞われた場所というのがここ、後宮だ」

「え!?」

 凜瑛は息をんだ。──さすがにそれは聞いていなかった。

 伯苑のそばには大将軍姫世凱の長子、凜瑛の兄がついていた。凜瑛よりよほどうでの立つ兄がついていながらなぜ守りきれなかったのか、そう思っていたが、場所が後宮ならば無理もない。成人男性である兄はここには入れない。伯苑は兄の目が届かぬところで襲われたのだ。

 側にいられない場所だったとはいえ、皇帝がを負えば側近の罪だ。自責の念から自死を選ぼうとしていた兄を伯苑がちよくめいで止めた。こたびの責めはほかに問わぬこと。皇帝の命にしたがい兄が国からとがめを受けることはなかったが、もはや姫家をぐことはできぬと兄はこうけいしやの立場を退き、いまは退位した伯苑の側に一武官として仕えている。

 ちようけいに代わって次兄が宗熙の側近として仕えているが、選秀女試験の行われている後宮に立ち入ることができないのは伯苑のときとおなじだ。

(だからわたしを……?)

 凜瑛は、あとぎとしての長兄を失ったときの父のいを知っている。だから次兄におなじことがり返されぬよう、後宮の中にいるときはおまえが守れと、父世凱は自分をここに送り込んできたのだ。

 事の重大さをあらためて知って、凜瑛は手のひらをにぎりしめた。

「なんだ、知らずに来たのか。まあ、伯苑の件はそうそう気安く話せることではないから知らなくても無理はないな。──だがそういう理由で来たというなら得心がいった」

(え?)

 きびしい声音が変わったわけではない。ただそのときなぜか、き放された気がした。

 そしてその予感どおり、宗熙は用は済んだとばかりに凜瑛に背中を向けた。

「巻き込まれる前にいますぐ帰れ」

 凜瑛はきようがくに目を見開いた。

「俺がかくでなくてよかったな。後宮は推薦状をもらいに来るような場所じゃない」

「──! わたくしは! ここに物見さんに来たつもりはありません!」

 凜瑛は思わず声を上げた。花窓の細工に気づけなかったこと、そして父の持ちかけてきた話に便乗したことはたしかだ。けれども自分は、推薦状や腕だめしのために後宮に来たわけではない。──ただ、もう一度会いたかった。その会いたかった本人から否定されて、帰れと言われても、とうてい受け入れることなどできない。

「実戦は鍛錬とはちがう。命がかっているんだぞ」

「わかっております。そのかくはしてまいりました」

「前線と知らずにか?」

 そこを突かれると厳しい。凜瑛が言葉をまらせると、

「──またそうけてうれしかった」

「──!」

 ややり向きざまに落とされた一言。別れの言葉だと察した凜瑛は言葉を継いだ。

「現場であれどこであれ、わたくしの願いは陛下をお守りしたい、ただそれだけです」

 このようなかたちで終わりにしたくなかった。

 宗熙は危険だから巻き込まれる前に帰れと言う。だが言った宗熙自身は、命を危険にさらしながらこの場所に居つづけるのだ。この人を失いたくないと思った──現世から、そして自分の視界から。

 こうていである宗熙が宮城に居つづけるなら、宮城で守りつづければいい。自分が守りつづけるかぎり宗熙を失うことも見失うこともない。

「命の危険に晒されてもか」

「鍛錬の日々はここに在るためにあったのだと思っています。任務のために自身の身に危険がおよんだとしてもほんもうです」

 その言葉に一点のうそもない。凜瑛はさらにつづけた。

「長兄は先の陛下にお仕えし、次兄もまた陛下にお仕えしております」

 振り向きざまのまま聞く宗熙に、凜瑛はひざまずいて言上する。

「わたくしも姫世凱のむすめ、陛下のおんの名に懸けてお守りします、かならずや……!」

 聞き終えた宗熙はしばし思案するようにてんじようあおいだ。いま宗熙が考えているのは自分を退けるための言だろうか。心がきようにふるえる。しかし身体からだに表れないように凜瑛は岩にてつして裁可を待っていると、やがて宗熙は、凜瑛の手を取って立ち上がらせた。

「その言葉、受け取っておく」

 身にあまるお言葉です。そう答えつつ、つづく宗熙の言葉がこわくてげ出したくなる思いを必死にこらえる。宗熙はそんな凜瑛の手首をつかんで告げた。

「だが約束しろ。絶対にちやはするな。手に負えないと感じたら、逃げろ」

「──!」

 許された。──けれども、新たに付けくわえられた条件。それは許されたうちに入るのだろうか?

「警護の身で、陛下に先んじてそのようなこと……」

 できるはずがない。まだ未熟だと、腕が足りないと言われたのも同然だ。しかし任にある以上、腕が足りずとも、この身をたてとしてでも守るのが務めだ。その命は到底受け入れることなどできない。

「心配せずとも俺には警護がついている。おまえより数段れの者がな。おまえに見てもらいたいのはここにいる娘たちだ」

「娘たち?」

「そうだ。伯苑の事件はせんしゆうじよの娘が引き起こした」

 それも初めて聞く事実だった。選秀女のなかに手練れがまぎれ込んでいたということか。伯苑も女の園ということで気を許していた面もあったのだろうが、皇帝が女相手に不覚を取ったということ、そのような手練れのせんにゆうを許していたことは国の面子メンツかかわる問題だ。事件のしようさいを表に出せなかったのも無理もない。

「後宮は、当人だけでなくその一族、そして一族に関わる者すべての欲望がうずく場所だ。選秀女の娘たちは入れわったが、ここでまた新たな事件が起きうることは容易に想像がつく。おまえには事件がふたたび繰り返されることのないよう、娘たちに目を配っていてもらいたい」

 自分には宗熙の護衛につく腕は足りない。しかし直接宗熙を守ることはできなくとも、選秀女の娘たちの動向を見張ることはできる。それは間接的に宗熙に害がおよぶことを防ぐことになる。宗熙を守るということに変わりはない。

 宗熙から下された新たな命に、凜瑛は「うけたまわりましてございます」ときようしゆした。

「それとこれの警護もだな」

 宗熙が向けた視線の先にあったのは、いろもうせん──国宝の名箏だ。

「ずいぶんと腕を上げた」

「……わたしだと気づいていらっしゃったのですか?」

 自分と知ってそつきようをふっかけたのか、それとも〈てんりゆう〉を聞いて自分だと気づいたのか、気になっていたのだが、

「幸い、目はいいほうなのでな」

 その返答で察した。目が合ったのは顔をせるまでのほんのいつしゆん、それだけで宗熙は凜瑛だとわかっていたということだ。

「わかっていらっしゃったなら、なぜあのような真似まねを……」

 箏を聴きたいならこうしてしのんでくればいい話だ。ただでさえ『えんちゆうから入ってきたとし』と悪目立ちしているというのに、宗熙があのような真似をしてくれたおかげでさらに娘たちから目のかたきにされてしまった。だが、

げんを切られていたろう」

「え?」

「楽器はがく府の者が毎日点検を欠かしていない。俺がおもむくような日は特に、すべてをばらして組み立てるてつていぶりだ。もちろん弦も張りなおす。張られたばかりの弦が、生ぬるい合奏程度で切れるはずがない。何者かがおまえの箏に細工したんだ」

 宗熙の言に凜瑛はぜんとした。

 たしかにみな座るべき席は決まっていた。席の決まっていなかった凜瑛がつくべき席も、当然わかっていたことになる。凜瑛がれる箏があらかじめわかっていたなら、細工自体は難しいことではない。──あれは、何者かがわざと仕組んだのだ。

「なんのために……」

「さあな。おまえにはじでもかかせようとしたのかもな」

 凜瑛は感じなかったが、みなの前で非礼をびさせること、そのことでしゆくしてしまう娘もいるかもしれない。

「ここではよくあるいやがらせだ」

 宗熙はそうつづけた。娘たちが持てるすべてできそう選秀女試験、その洗礼のようなものだったらしい。

「どんなおもわくがあったにせよ、実際におまえの指が傷つけられた。だからまあ、あれはその当てつけだな」

 自分が新入りにけたわなで、逆に皇帝の目に留まるきっかけをあたえてしまったとなれば、犯人はいまごろ?みしていることだろう。つまりこの箏の一件は犯人に対する宗熙のしゆがえし。あのとき、宗熙が言葉をかけていたのは凜瑛に対してだが、凜瑛の思いの寄らないところで見えないやりとりがあったのだ。

「指はだいじようか」

「はい、きたえていますから」

 そう答えると、「たんれんが思わぬところで役に立ったな」と宗熙のもとがかすかにゆるんだ。

 しかしそれも一瞬のこと。宗熙はより目を険しくして告げた。

「宮中にいる者はみな敵だと思え」

「え?」

「悪意は常にひそんでいる。なにげないところにも命の危険につながる罠が仕組まれている。けいかいおこたるな」

 厳しい言いようだと思ったが、この後宮で兄天永を失いかけた宗熙には、そう思えてしまってもしかたがない。

「至らず申しわけございません」

 自身の不注意が宗熙に二年前の事件を思い出させて、厳しい言葉を言わせてしまったのだろう。不快な思いをさせたことに凜瑛が頭を下げると、宗熙はいらたしさをかくさず視線をらした。

 その視線の先にあったのは、ぐうぜんにも先ほど自身がね飛ばした凜瑛の得物だ。

「──ああ、あれでは武器になるまい」

 そう告げると、宗熙はためらいなくこしいていた刀をさやごといて、凜瑛にき出した。

「これも貸してやる」

 そうしよくのない鞘にかざりがひとふさはたにはなんのとくちようもない品だが、その刀は皇帝である宗熙が佩いていたもの。──つまり中身は本物の刀だ。

 皇帝である宗熙を除いて、本物のものをこの後宮に持ち込むことが許されるのは武官だけ。それを与えられたということは、すくなくとも武官見習いとしての自分へのしんらいあかしと思ってよいだろうか?

「──つつしんでお預かりいたします」

 きんちようのあまり、指先に先ほどとはちがう痛みを感じながら、かたひざを突いてその刀を拝受する。

 そんな凜瑛に、宗熙はかさねて告げた。

「くれぐれも警戒を怠るなよ」と。

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華陽国後宮史 龍は桃下に比翼を請う/九月文 角川ビーンズ文庫 @beans

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