第一章 その1



「すでに試験に臨んでいるほかの娘たちとそんしよくなく、あなたが芸事を修めていることは認めました」

 宮城の一室でこしを落とした凜瑛の頭上から、親子ほども年のはなれたによかんが告げた。

 ──父世凱の申し入れからわずか三日後、凜瑛はくわしい事情など聞かされないうちにあわただしく宮城に上がることになった。

 宮城の案内やしきたりなどなんの説明もないままだん使われていないらしきろうかくに連れられた凜瑛は、数名の女官を前に楽やまいろうさせられ、まつりごとや国の質問を受け、言われるままに花をけ、茶をれた。そのあと別室に通され、次はなにを命じられるかと待っていると、女官たちの中心にいたひとりの女性が入室してきたので、凜瑛は前日に仕込まれた宮廷式の礼を取ったところで、現在に至る。

「試験におくれてくわわったことでよからぬ噂も立つやもしれませんが、それはあなたが負うべきかせです。試験を終えてきさきに任じられるようなことがあれば、今後あなたはその娘たちを従わせる立場となります。口さがない年頃の娘たちをだまらせるのも、妃としての資質のうちとお考えなさい」

 泣き言は聞かぬというけんせいか。長年、口さがない娘たちを束ねてきたらしき女官は、げんをもってくぎをさし、

「たとえ陛下のお目に届かぬとも、陛下にお仕えする身には変わりありません。おこたりなく、おつとめにはげむように」

 その命に凜瑛はさらに一段頭を下げた。

 そのあと凜瑛はきゆう殿でんの奥の一室をあたえられ、早めに荷ほどきと湯あみを済ませて明日に備えて休むように告げられた。運び込まれていた荷箱は持ってきたときのままざされていて、中も変わらずていねいたたまれていたが、ところどころにはさんでおいた糸の位置がずれている。荷を検分されたらしい。宮城にしんなものを持ち込ませないために当然必要なだ。

 凜瑛はいま一度、持ち込んだ荷物に過不足がないか、あやしい薬などみ込まされていないかを調べる。そして問題なく、ただの荷のあらためだったことをかくにんしてから、湯あみをしてしんだいに横たわった。

 湯あみの間も室にもどってからもずっと気配と視線を感じていたが、宮城とはそういうところだ。姫家息女としてのいまの自分は、かんされ、評価を下されるためにここにいる。武官候補としての自分は、いずれ監視する側にまわることもあるだろう。その監視者に殺気がないことは察したので、凜瑛は持ち込みを許されたなまくらのけんかたわらに置きながら、早々に休ませてもらうことにした。

 目覚めたのはまだの出る前、うすやみのなかで小鳥たちがさえずりはじめたころだ。あさげいをしている凜瑛にはいつもどおり目覚める時間だが、耳をましても宮殿内は静まりかえっている。

(まさかわたしひとりに与えられた宮殿でもないだろうし……)

 感覚をぎ澄ましてみると、人の気配はたしかにある。朝も早いのでまだているのだろう。今日の予定はまだ聞いていないが、いまのうちに身体からだを動かしておこうと凜瑛がえて歩廊ろうかに出ると、「そこ!」とすかさず声が飛んできた。

「はい?」

 ふり返ると不寝番らしい女官がすたすたと歩み寄ってくる。その足音から、足取りはしっかりしているが武芸を修めた者ではないらしい、などとあたりを付けながら凜瑛はきようしゆで女官をむかえた。

「何用にございましょうか」

「新入りの娘ですね。しようしらせがあるまで室を出てはなりません」

 報せ? と凜瑛が小首をかしげると、「ああ、間もなくです」と女官は歩廊の先に視線を移す。すると。

 ゴォン────

 おおきな音がひとつ、宮殿の外で鳴りひびいた。だ。

 その音を合図ににわかに宮殿内があわただしくなった。各室からばたばたと音がして、四半時もせぬうちにすこし離れた室からひとりの娘が飛び出してきた。娘は染めのない穿き、長いかみい上げているがかざりはない。ちょうどたんれんをしようとしていた凜瑛と似たかつこうだ。そして宮殿の外にけだしたと思うと、次々におなじ恰好の娘たちが室から出てきて、同じ方へと向かっていった。

 女官に「こちらです」とうながされて凜瑛が付いていった先は宮殿の院庭なかにわ、広いいしだたみに先ほどの娘たちがきっちり一列に整列していた。その数、三十名ばかり。

(……軍隊?)

 とうかんかくにきっちり並ぶさまはまるで軍隊の朝礼だが、直立する姿はかたや背中にに力が入って様にならず、いかにも新入隊員といったぜいだ。

「みなさん、おはようございます」

 娘たちの前に先ほど凜瑛を呼び止めた女官が進み出ると、「おはようございます!」と娘たちの唱和がつづいた。

「健康な身体づくりは健全な朝の目覚めからはじまります。今日も一日健康に留意して試験に臨んでください」

「はい!」

「………」

 こうていの妃を決める『せんしゆうじよ』。もっとたおやかではなやかな女たちの世界を想像していたのだが、これでは新入隊員研修だ。

 あまりに想像とちがう光景に凜瑛がぜんとして見つめていると、

「姫凜瑛」

「──はい」

 女官はなにも言わなかったが、こちらに来いということだろう。凜瑛は向けられた多くの視線にどうが速まるのを感じながら女官のとなりに立つ。

「このむすめが今日から試験にくわわります。姫凜瑛です」

 しようかいされた凜瑛がややせていた視線をあげると、娘たちの目がいっせいに向けられていた。黒目がちなおおきなひとみを見開いて、新たに入ってくるのはどのような娘なのか、一挙一動からさぐろうと目を皿のようにして見つめている。

 凜瑛の後宮入りはあまりに急な話だったので、父から選秀女の試験についてほとんど話を聞く時間はなかった。だがしょせんは宮城内のこと、戦争まっただ中の前線に送り込まれるわけではない。なにがあろうとどうようせず、任務をこなすことができると思っていた。しかし。

(……父さま、さすがにこれは聞いていなかったわ……)

 いま凜瑛は多くの視線を一身に浴びている。それくらいでは動揺しないが、いま凜瑛をたじろがせているのは、娘たちのそのだ。

 凜瑛がつうの女人よりも背が高いという理由もある。だが、おなじ石畳の上に立っているはずの娘たちの目線は、あきらかに凜瑛より頭ひとつ低かった。

 ──凜瑛の前に並んでいたのは嫋やかな女人などではなく、凜瑛よりいくつも若い、まだとしもいかない少女たちだった。



 娘たちに交じって朝の鍛錬らしきものをこなして、つづいて宮殿のせいそう、朝の食事を終え、ようやく妃候補らしいたくを終えた凜瑛はいま、朝よりも広い中庭の石畳にいた。

 今度は直立ではなく、石畳にはにしきを張ったが並べられている。前列と姿が重ならぬよう、たがいちがいにずらしてひし状に並んだ木椅子、その前に置かれていたのはそうだ。みなで合奏ということだろう。

 席の数は百あまり、宮殿で見かけた娘よりずいぶん数が多いと思ったが、いつの間にか娘たちが増えていた。試験中の娘は凜瑛とはべつの宮殿にもいるらしい。席は決まっているらしく、娘たちは迷うことなく腰かけてゆき、その場でとまどっていた凜瑛が女官にうながされたのは中央の席だった。

 新参の自分など末席でいいものを、と思ったものの、演目が示されて演奏がはじまると、前後左右に人がいるおかげではくが取りやすいことがわかった。たがいちがいとはいえ娘たちにもれていれば、様子を観察しているによかんたちの目につきにくいという利点もある。習った曲なのであぶなげなくきこなせているが、もし不慣れな曲だったときに多少音を飛ばしても気づかれることもない。

(たしかこの曲を習ったのは──)

 弾き慣れていたことで心にゆうが生まれたのか、なつかしい調べが凜瑛に当時のことを思い起こさせた。ちょうど三年前、天永の後宮入りをしんされたころだ。

 あのときの凜瑛はたしかに、武官になりたいと言って後宮入りを断りつづけていた。しかしそれはあくまで後宮入りをこばむため。天永の後宮に入るくらいなら一生とつぐことなく武官として職をほうじるかくだった。

 とはいえ凜瑛はけっして天永自身をきらっていたわけではない。天永──伯苑とは従兄妹いとこあいだがら、子龍ほど会う機会はなかったが、伯苑はおだやかでやさしく、従兄いとこのひとりとしてしたっていた。

 伯苑自身にはなにも問題はない。もし、後宮が伯苑のものではなく、まったく会ったことのない相手のものだったなら、凜瑛があそこまで拒むことはなかっただろう。ただ、伯苑は子龍のふたの兄で、子龍が複雑なおもいをいだいている相手──その一点の現実が、凜瑛をかたくなにさせた。天永の後宮にだけは入るわけにはいかなかった。

 だが、それが子龍の後宮となれば、話はまったく別だ。

(はじめに持ち込まれたのが子龍師兄にいさまの後宮入りの話だったなら……)

 きっと自分はなおに首を縦にっただろう──あのときあわく月光に照らされていたとうのようにほほを染めながら。

 だから子龍の後宮入りの話を持ち出されたとき、たしかにうれしかったのだ。自分は。

 準備があわただしく、ばたばたしているうちに父に真意を伝えそびれてしまったが、立場はどうあれ、子龍にもう一度会えることがただただ嬉しかった。

 しかし、子龍との再会で頭の中がいっぱいだった凜瑛を現実に引きもどしたのが、今朝の一件だ。

 朝、新たにくわわった凜瑛に向けられた娘たちの目──その目が無言でうつたえていたのは、ただひとつの問いかけだった。

 ──その年で?

 世の娘たちが嫁ぐのは十六、七歳。いま十七歳の凜瑛はそのはんちゆうだが、こと後宮となれば開かれてからが勝負だ。石畳に整列していたのは、いまはまだ幼くとも、後宮が開かれてから数年後にてきれいを迎えるような娘たちばかりだった。特に、武官志望の凜瑛は普通の女人よりも身のたけがある。成長期の年の差にくわえてその身長差は、あきらかにほかの娘たちとは異質だった。

(たしかにそういう年なのよね……)

 三年前、天永の後宮入りの話を切り出されたとき、凜瑛は十四歳になったばかりだった。あのとき話を受け入れていれば、三年早く宮城に上がっていた。つまり、いま凜瑛の周りにいる娘たちと同年代だったということだ。

 しかし時の流れはざんこくだ。子龍と会えなくなって二年あまり、凜瑛にとってはただたんれんをくり返す日々だったが、時はたんたんと、そして刻々と過ぎていて、いつの間にか凜瑛は選秀女試験にのぞむには異質な年齢になっていた。ということはつまり、きさきとしての評価にもえいきようする年齢だということだ。

(彼女たちが子龍師兄さまのお妃候補……)

 自分がここに送り込まれたのはあくまで警護役として。妃としての評価などなんの関係もない、そう思っていたし、皇帝のお妃さまなど凜瑛とは無関係の遠い世界の出来事で、実際に妃になる娘がいるという実感もなかった。

 しかし選秀女の試験をおこなっているのだから、だれかが妃になる。先ほど凜瑛を見つめていた娘のだれかが。もしくはここに居並ぶ娘たちのだれかが。もしかしたらいますそがかさなるほど近くにいるすぐ隣のこの娘が子龍の妃になるかもしれない。

 妃でなくとも、ひんや世婦でもおなじだ。ここにいる娘たちは後宮に入り、やがて子龍師兄さまから差し出された手を取る──

 思考が先々へと勝手に走りはじめて止まらない。凜瑛の胸の奥で息苦しさにも似たなにかがおおきくうねる。

 呼吸が重くなって、それでもおもてには出さないように努めていた凜瑛だったが、たまらず整ったまゆひそめそうになったそのときだ。


 びんっ──


 音をたてて、凜瑛のげんがはじけた。

「やめ!」

 すぐさま女官が声をあげ、演奏が止まる。みなが頭を下げて顔を伏せたので、凜瑛もそれにならった。

 はじけた弦は、いたつめの上から凜瑛をしたたかに打ち付けていた。手はけんじゆつきたえているほうだがそれでも指にじんじんとひびく。しかし静まりかえるその場で女官のつづきの声がないことを察した凜瑛は、声をあげた。

「演奏を中断させてしまい、申しわけございません」

「姫凜瑛ですか。楽器の手入れも務めのうち、仮に主上のぜんであったならば許されぬぎわです。たとえ練習であってもはじと知りなさい」

「はい、心得ました」

 手入れと言われても、凜瑛は後宮に昨日入ったばかり、この箏もあらかじめ用意されていたものだ。れたのもいまがはじめて、自分のあずかり知らぬところでおきた不具合だが、女官の言い分は正論だと思ったし、楽は心の表れだ。

 弦が切れたのは自分の心がれたせい、そう感じた凜瑛はさらにこうべを低く垂れた。──そのときだ。

「なんだ。名花の箏がけるというので来てみたが、中断か」

 その場にあるはずのない男性の声。凜瑛のどうが大きくねる。ぴりっ、と空気が固まった気がしたのは思いちがいではなかったらしい。椅子の上で頭を垂れていたむすめたちが、いっせいに椅子を降りていしだたみに手をついた。

 女官たちもひれす中、倣わなければと思いながらも凜瑛の動作が一拍おくれた。

(あ……)

 その姿を見たのはほんのいつしゆん。まとうしゆに金糸のころもかんむりも初めて見るもので、すぐにひざまずいたが凜瑛はわかった。

(子龍師兄さま……)

 そして現れたのは子龍──こうてい宗熙だ。

「見かけない顔だな。新入りか」

 問われたのは自分ではないが、自分のことを語っているのだと思うと、石畳に伏せた凜瑛の顔がにわかにほてりはじめた。低くつややかなこわ。耳の奥に残っている、よく聞き知った声だ。

 宗熙の問いかけに、「本日からくわわった者にございます」とこの場を仕切っていたそうねんの女官が言上した。

「おしの最中にご無礼のほど、ごようしやくださいませ」

「なに、本日からか。ならば手入れはその者の責めではあるまい。持ち込みを許した名器というわけでもないのだろう?」

おおせのとおりにございます」

 つづく子龍の声音には、まったくどうようした様子はなかった。──二年ぶりの再会だ。すこしくらいおどろきがあるかと思っていたのに。

(それとも、もしかしてわたしだって気づいていない……?)

 先ほど女官から名を呼ばれたが、子龍が来る前のことだ。聞こえていなかったかもしれない。一瞬目が合った気がするが、子龍からすればこちらは大勢の娘たちのなかのひとりで、娘たちの真ん中にいる凜瑛とはきよもある。それに凜瑛がいることを聞いていなければ、後宮にいるはずのない相手だ。気づかなかったとしても無理もない。

(子龍師兄さま……)

 いま子龍がどのような表情をしているのか見てみたい。しかしいまの子龍は皇帝、許しなく顔をあげて玉顔を拝することはできない。二年前までは直接けんわしてさえいたというのに、これがいまのふたりの距離だ。

たい品がその者のうでにそぐわぬものであったのやもしれぬな。──ああ、ちょうどいい。それは名花のうでまえはいちようしようと持ってこさせたものだ」

 子龍はそう言ってうなずくと、こちらに声を向けた。

もの

 呼びかけられて、凜瑛のかたがびくりとふるえた。次いでによかんからひかえめな声で「面を上げよ」と命じられ、凜瑛はこわる肩に力を入れて面を上げる。

 ひれにしきの背が百あまり。その向こうで子龍──宗熙は運び込まれたこしを下ろし、おおきながさを受けながら、かたひじを付いてゆうぜんとこちらをながめやっていた。

 その居姿は凜瑛の知っている子龍とはちがう。ごうがんさのようなものがにじんでいた。

あいさつ代わりだ。どれほどのものか聴いてやろう」

 傲岸な居姿そのままに、宗熙が命じる。やはり気づいていない──それとももう自分のことなど忘れてしまったのか。

 凜瑛の前にはおごそかに厚いもうせんに包まれたそうが運ばれ、ゆっくりと台にせたのちにおおいを取りはらわれた。

 覆いのごうしやさとは裏腹に、りゆうがくにもりゆうぜつにもでんなどのかざりはいつさいない。ほうしよくひんとしてではない、きこまれた名器だと察した。

 凜瑛はひととおりの手習いはしているが、宮城のほうもつ殿でんに保管されている名物を弾きこなせる腕などない。しかし、いまここで凜瑛が許されている返答はただひとつだけだ。

「──仰せのままに」

 凜瑛はひとつ頭を垂れると、用意された箏をつまきはじめた。──切れた弦にはじかれた爪が、いつも以上に痛く感じられた。

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