その晩、ていの園庭に呼び出されたりんえいは、足をみ入れるなり息をんだ。

 かおりにられて見上げた先には、満ちた月に照らされた満開の花、花、花。

 桃之夭夭 灼灼其華──そんな歌が聞こえたような気がしたが、目をうばわれたのもいつしゆん。次に凜瑛ののうをよぎったのは花へのかんがいなどではなかった。

(ここで〈けんげい〉は無理そうね……)

 凜瑛の指先が、こしいた剣のつかをそっとなぞる。──この剣にあせが伝うようなたんれんができると思ったのに。

 凜瑛を呼び出した父は、ふうどうどうたるたたずまいで大将軍のあかしであるふかむらさきがいとうをなびかせていた。ようこく大将軍であるせいがいが、地方のじゆんさつみやこにもどったことはひとづてに聞いていた。だい殿でんに報告に上がり、そのままこの園庭に寄ったのだろう。

 お帰りなさいませ。任務おつかれさまでございました。むすめとしての第一声はそれが正しいのだろうが、穿いて剣をたずさえてきたいま、それを口にするのもはばかられる。

 父であるとともに師父でもある『姫世凱』に稽古をつけてほしかったのだ、自分は。

 さて、あらためて父になんと告げたものか。そんなしゆんじゆんをしていた凜瑛は、父の第一声を聞きそびれてしまった。

 桃のれのせいかもしれない。あるいは風にう花弁に気をとられて。

 おおきくなったな。いくつになった。

 そのような内容だった気がする。だが今回、父が任務に出ていたのはほんの一ヶ月、あらためてかれることでもない。そういえば任務の直前に誕生祝いをもらったばかりだ。

 聞きちがいか、それとも任務のなかに頭でも打ったのだろうか。

「──はい?」

 凜瑛がいぶかしんでたずね返すと、父世凱は白いものが交じりはじめた頭をいた。

「ああ、その剣のそうしよくは先月おくったものだったか」

「そうです。先月の十四の祝いにいただきました」

 戦場においては不動如山、鉄のいわおしようされる姫将軍だ。さすがに自邸では巌ではないが、いつになく父のがおがぎこちない。

「どうしたのですか、父上」

 訊ねた凜瑛に、世凱は答えることなく「十四か……」と花を見上げて目を細めた。

「これから花の盛りだな」

 ──ますますもってらしくない。

 たしかに凜瑛のおおつぶの黒曜のひとみきわたせる長いまつはだの白さを引き立たせるなめらかなしつこくかみは、じんとして名高い母のえい夫人に似てきたとよく言われる。だが母のぼうならば夫君である父は見慣れているはずだ。

(お酒は入ってなさそうだけど……)

 父はしゆごうだが酒で乱れる人ではない。任務でおおきなあやまちでもおかしたか、それとも医師から重い病でも宣告されたか。凜瑛は心をかまえて言葉を待つ。すると世凱はぽつりと告げた。

「後宮に入らぬか」

「──はい?」

(えっと……)

 凜瑛が理解するまでの間、世凱は凜瑛に視線を向けることなく、桃花をじっと見つめていた。

「後宮というと……はくえん兄さまの?」

「そうだ。こうていとなられたの君の、だ」

 世凱は青年の名を口にするのをはばかった。

 新帝の名はてんえいあざなは伯苑。凜瑛とはたがいの母が姉妹同士なので、従兄いとこにあたる青年だ。年は十七。昨年に父皇帝が病できゆうせいし、太子であった天永が皇帝に立って一年あまりが経つ。

「世子であられた彼の君のは三年。後宮が開かれるのはまだ先になるが、宮城はすでにせんしゆうじよの試験にむけて動いておる」

「そこに入れ、と」

きさきが決まるころにはそなたも十五、六。ころいであろう」

 ──だからいまさら年を訊いてきたのだ。

 によにんえんだんは十五歳くらいからまとまりはじめ、十七、八歳にはとついでいるのが通例だ。十四歳になった凜瑛は大将軍姫世凱のひとり娘、縁談のひとつやふたつは舞いこんでくる。

 父に呼ばれたとき、その可能性に思い至らなかったおのれのうかつさに凜瑛はうつむき、くちびるんだ。

「知らぬ相手でもない。悪い話でもないだろう。各省のじゆうちんの方々もかんげいするとのおおせだ」

 父のこわはまるで己自身に言い聞かせているかのよう。この話は父の本心からの望みではないのか。その声音に逆なでられ、凜瑛はきっ、と顔を上げた。

「父上ご自身はどうお考えなのですか」

 むねたけほどの背の娘から思わぬ質問を受け、世凱は視線を下ろした。

「なに?」

「父上がわたしに剣を教えられたのはなにゆえです。の人間として生きろという意味ではなかったのですか」

 こうこくを支え、以来数多くの将軍をはいしゆつしてきた名門、姫家。歴史上には女将軍を輩出したこともある。姫家当主の娘として生をけた凜瑛は、物心がついたころからあたりまえのように剣を手にしていた。

「わたしとて姫家の娘、一族にじぬ武人になるべく鍛錬をかさねてきたつもりです。それをなぜ、急に後宮に入れなどと仰せになるのです」

 そう問う凜瑛自身わかっていた。凜瑛にはふたりの兄がいる。ともに一族に恥じぬ武人で、れっきとした姫家のあとぎだ。末娘である自分が剣を取る必要はない。──そう、わかっている。

 けれど。

(なら、どうしてわたしに剣を持たせたりしたの───)

「凜瑛!?」

 いままでの鍛錬の日々を否定されて、こみ上げてきたのはくやしさか悲しさか。凜瑛はただ感情に押されるまま、佩いた剣をにぎりしめてけ出していた。



 駆ける。駆ける。やみからせまりくるとうぼくを敵のようにけながら、ひたすら地をる。

 はやどうに押され呼吸をくり返すたびに凜瑛の胸に甘い香りがひろがり、息のうすくなった脳内をもしんしよくする。どれほど駆けたか、脳内いっぱいに桃の香りでおおくされてゆく気がして、凜瑛は一本の桃木に手をついて足を止めた。

 ずいぶん庭園の奥へと入りこんでしまった。だが果てまでいっても自邸のとうえんだ。迷子になってもたかが知れているし、今夜は月明かりもある。やしきに帰ることにはなんら問題はない。ただ、心のおさまりがつかなかった。

 かたいきをくり返すと、白いいきれた。いくら春とはいえ、羽織ひとつ持たずにしは厳しい。武官となって行軍にしたがえばこんな日がいくらでもあるのだろうけれど……と思いいたって、ちようの笑みがこぼれた。

 ──かなわぬ夢だった。そう思い至ったそのとき。


 桃之夭夭 灼灼其華──


 夜闇にけるようなささやかな歌声。凜瑛はびくりとした。桃の木が歌っているのかと思ったが、声の主は凜瑛が見上げた先にいた。

師兄にい、さま……?」

 桃の葉の合間から漏れる月明かり、木の枝にそべるようにもたれかかって口ずさんでいたのは、凜瑛のよく見知った青年だった。

「凜?」

 まさかこのような夜に凜瑛が外に出ているなど思いもしなかったのだろう。よほど考えごとでもしていたのか、青年のほうも駆けてきた凜瑛に気づいていなかったらしい。

 なにがあった。青年はあわてて枝から飛び降りたが、凜瑛にはないと見てとったのち、頭ひとつ低い位置にある凜瑛の顔をのぞき込むなり破顔した。

「すごい顔だな」

「見ないでくださいませ!」

 凜瑛はあわてて顔をそむけた。きっとあせばんで赤らんだ顔になみだが混じって、恥ずかしい顔になっている。しかしそれすらも可愛かわいい可愛いとばかりに青年は凜瑛の頭をでた。──いつもこうだ。師兄さまはやさしい。けれどどこか子どもあつかいなのがすこしくやしい。

「邸に来ていらしたなら、声をけてくださればよかったのに……」

 凜瑛はうつむいたまま告げた。顔を上げられない理由は汗と涙だけではない。先ほどとはちがう理由で顔が赤らみ、鼓動が速くなっている。

 師兄あに──りようは凜瑛の母方の従兄で、ともに父世凱の手ほどきを受けるきようだいだ。三つはなれた子龍とは背丈もうでまえも差が大きく、凜瑛が一方的にけいをつけてもらっている。実は凜瑛には子龍に兄弟子以上の感情もあるのだが、それもおそらく一方的なものだ。

「師兄さまも父さまの稽古を受けにいらしたのですか?」

 このようなところ、子龍にだけは見られたくなかった。そう思いながらも凜瑛がなんとか平静をよそおって見上げると、今度は子龍が目をらした。

「……まあ、な。宮城で将軍とお会いしたのでな」

「師兄さま?」

 おおらかでかつたつ、いつも関心をもって周囲をながめている子龍にしてはめずらしく歯切れが悪かった。ほかに興味を持って目を移すことはあっても、目の前の物事をけるように逸らす姿など見たことがない。

 どうして──と思った凜瑛は、こうをかすめた桃花のかおりにぴんときた。

「あ……」

 ──だからだったのか。

 満開の桃花をたたえるあの歌は、春をおうしたものではない──嫁ぐむすめ寿ことほぐ歌だ。宮城から世凱とともに来たときに、後宮入りのしんがあったことを聞いたのだろう。

 ──聞かれたくなかったと思った。

 子龍にとって後宮は、ただ娘が納められるだけの場所ではない。

「伯苑の後宮に入るのか」

 おとしめるでなく、にくしみゆえでもなく、子龍は現皇帝の字をけいしようをつけることなく口にした。

 ──彼だからこそ呼べる、

 子龍はき先帝の第二公子。新帝となった伯苑は、子龍の双子の兄だ。

 双子とはいえ一方はぎたる太子、一方はただの一公子、ふたりは明確に分かたれて育てられた。立場のちがいを理解させるために、子龍はあえてれいぐうされていたともいえる。

 そんな子龍に居場所をあたえたのが、子龍にとって叔父おじ叔母おばにあたる凜瑛の両親だ。

 生母叡正妃の妹、叔母の叡夫人から姫家に招かれ、叔父の世凱からけんを教わった子龍は、武人として生きることを選んだ。そしてふたりの娘である凜瑛とは、実の兄の伯苑以上に兄妹きようだいとしての時間を過ごしてきた。

 そのような凜瑛が、兄伯苑の後宮に上がる──その現実に、さまざまなおもいがうずいていないはずがない。飲みこみきれないじようきようを前にして、いつになく感情をしずめた子龍に凜瑛は反射的に声をあげていた。

「入りません……!」

「──え?」

「たしかに父さまからお話はいただきましたが、わたしは伯苑さまの後宮に入ったりしません!」

 父に言えなかった言葉がするりと凜瑛の口をいていた。それはきっと、いまの子龍の顔を見たからだ。

 それは双子の兄伯苑に対する複雑な思いゆえか、かつて自分が住んでいた後宮に妹分が連れ去られてしまうさびしさか──それがこいごころゆえでなくてもいい。寂しさだけでも感じてくれているなら。

「悪くない話だろう。なぜ受けない?」

 き出るいらちを押しかくすように子龍は告げる。

 悪い話ではない、ということは、けっして手放しで祝福しているわけではない。──いまの凜瑛はそれだけで十分だ。

「わたしは! 後宮に入るためにたんれんをしてきたわけではありませんから……!」

 わたしが好きなのは師兄さまだから、とは口にできなかったものの、実際に言ったこともおおきな理由のひとつだ。

 いままでの凜瑛の努力をなかったものとして、ただの一名家のひめとして──後宮に納める百花の一輪として扱われたくなかった。


 ──花としてくなら、この人のそばがいい。


 想いを口には出せず、凜瑛はくちびるを引き結んだままじっと見上げる。子龍は返す言葉がないまま見つめ返していたが、やがて、

「──そうか」

 そう言った子龍の表情。ほっと息をついてゆるんだその子龍の顔を見て、凜瑛はどきりとして、またうつむいてしまった。

 ──いまの顔を忘れない。きっと、いつまでも。

「行くわけ、ないじゃないですか……」

 凜瑛は先ほどよりも顔を赤く染めながら、そう小さくつぶやくことしかできなかった。



 それから三年。

 咲きほこる桃花の下で、まさかおなじ言葉を聞くことになろうとは思いもしなかった。


 ***


「後宮に入らぬか」

「──はい?」

 三年の間にぐんと背もび、凜瑛はもはや少女の域をえるによにんとなっていた。持ち込まれたえんだんも数知れず、断りの科白せりふも慣れたものだが、父からのとつぜんの申し出には三年前とおなじ反応しか返せなかった。

 おかげで打ち込む体勢でかまえていた足が行く先を失い、凜瑛はつかにかけていた手も離して身体からだを直立にもどした。──今日も鍛錬かと思っていたのに。

「後宮というと……そうさまの?」

「そうだ。こうていとなられたの君の、だ」

 父世凱もまた三年前とおなじ言葉を返した。

 父皇帝の急死により第二公子宗熙が皇弟となったのは四年前のこと。だがそれからの数年の間にふたたびは変わっていた。

 二年あまり前、宮城内で新皇帝天永がしゆうげきを受ける事件があった。天永は一命を取り止めたものの、今後皇帝としての職務はまっとうできないと、みずからじようを宣言。ぜんじようはほとんど例がなく、宮城はおおきな混乱をきたしたものの、禅譲相手が第一ていけいしよう者である宗熙だったためになんとか受け入れられ、譲位がなったのが昨年のこと。みやこもようやく落ち着きを取りもどしはじめたところだ。

 にとってもその事件はあとぎを失う結果となり、すくなからず混乱があったが、けいが後継ぎとなり、家中も落ち着いてきたばかりだというのに。

「宗熙様の後宮が開かれるにあたって、せんしゆうじよの試験がはじまっておる」

「伯苑兄さまの試験のつづきですか?」

「いや、天永様は後宮を開く前に譲位してしまわれたので、天永様のときの選秀女の娘たちは帰された。はじまっているのは宗熙様の後宮の新たな試験だ」

 三年前に天永の後宮入りをかたくなにこばんだ凜瑛だ。父だけではなく兄までも巻き込んで、あの手この手で説得を試みられた凜瑛は、自室にろうじようして断固として拒みつづけた。

 名門姫家にはとしごろの娘がいるにもかかわらず、大将軍は後宮に入れようとしない──その事実はさまざまなおくそくを呼び、やれ大将軍は反乱をたくらんでいるだの、やれ娘はとつぐにはさわりがあるだのと、世凱も凜瑛も根も葉もないうわさを立てられた。

 そのようななかの天永の一件、そして譲位宣言。あまりの事件の大きさに姫家の娘の噂などき飛んでしまったというのに、ふたたびあの噂がし返されるのか。

 ──しかし。

(宗熙さま──子龍師兄にいさまの後宮……)

 今回の後宮は天永のものではない。かつての第二公子宗熙──つまり凜瑛の師兄こと子龍の後宮だ。三年前にはまったく考えもおよばなかった帝位に、いまの子龍はいる。

 その子龍の後宮入り。

 三年前には思いもよらなかった申し入れに、凜瑛の心音がとくとくと速まりはじめた。

「わたしにそこに入れ……と」

 三年前とは異なる意味で、凜瑛のこわかたさを帯びる。

 天永の突然の譲位宣言より子龍は宮城から出ることがかなわなくなり、凜瑛も丸二年以上、子龍と会っていない。あいさつすらかなわぬ突然の別れだった。

 皇帝になれば私人として、妹として会うことはできない。子龍師兄さまにはもう二度と会えない──そのかくをしていたところにこの申し入れだ。予期せぬ現実に知らずと声音が硬さを帯びた凜瑛だったが、世凱がとつじよ声をあげた。

「いや! そなたが後宮入りを望んでいないのはわかっておる! よくわかっておるぞ!」

「……え?」

「これは武官になりたいと望むそなたの希望をまえたうえでの話だ」

 三年前、天永の後宮入りの話のあとに凜瑛が泣いてげ去ったときのこと、そしてその後の完全きよぜつを思い出したのだろう。世凱は口早に弁明した。

 武官登用と後宮入り、このふたつがどうして結びついたものか。

「と、申されますと?」

 と問い返すと、よくいてくれたとばかりに世凱はこうたんを上げた。

「そなたは武官としての宮城務めを望んでいただろう? 宮城ではいま、天永様の一件をかえりみて宮城内の警護を増やすことになってな、定期登用以外にも登用試験をおこなっておる。後宮の警護もふくまれておるのだが、女のそのである後宮をものものしくするのも限りがあるし、選秀女の試験中のむすめたちをしゆくさせるのも本意ではない。そこで、だ。木を隠すなら森の中、選秀女の試験の内部に警護を送り込むことになった」

「試験の内部に?」

 そうだ、と世凱はしんみようおもちでうなずいた。

「すでにほかにもいくにんか送り込まれているが、周囲には知らされていない。受験生のひとりとして選秀女試験に入りこみながら、宗熙様の警護に努める」

「そのお役目に選ばれたのがわたしだと?」

うでが立ち、選秀女にまぎれ込んでも目立たぬとしごろの娘となると、そう見つかるものではないからな。そなたには選秀女の娘たちに交じって試験にのぞんでもらうことになるが、ひととおりの芸事は修めたそなたならば問題あるまい」

 世凱はうなずきながらつづけた。

「試験をこなしつつ、陛下の警護を任せる。試験の期間は半年ほど、もうその大半は終わっているが、この任を無事務めあげたのちはその実績をもってきゆうていに武官としてすいせんすることもできよう」

 その申し入れに凜瑛は息をんだ。

 武官として宮城に仕えたい。凜瑛のその望みをかんぺきに呑んで、先の展望をもねそなえた申し入れだ。

 ──しかしなにかちがう……気がする。

(えっと……)

 あらためて思うところを語ろうと口を開きかけた凜瑛だったが、

「どうだ?」

「………」

 娘の期待にばんぜんこたえるかたちの申し出をして、期待に満ち満ちて返答を求める父世凱。そんな父を前に、凜瑛にいなやを唱える余地などなかった。

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