その『なきごえ』は誰を呼ぶ

シキヤマ ヒル

第1話



猫がうるさいのよ。

そう妻が愚痴るようになったのは、妊娠がわかった頃だった。


「またか。隣は猫なんか飼ってないと言ってたじゃないか。大体、あのアパートはペット禁止だろ」


「でも時々聞こえるのよ。きっと隠れて飼ってるんだわ」


俺は聞いたことはなかったが、時々というならたまたま俺がいない時に鳴いているんだろうと、その時はそう気にはしなかった。


「まあ、隠して部屋飼いしてるなら、うちの庭には入ってくることもないだろう」


「入って来なくたって、うるさいことに変わりはないじゃない! 何度も注意したのに、しらばっくれてばかりなんだから……あなたからもなんとか言ってちょうだいよ」


「そんなに目くじら立てなくたって……俺は聞いたことないし、たまにしか鳴いてないんだろう?」


俺も妊娠中にはマタニティブルーなどで不安定になるのは知ってはいたが、猫の声程度の騒音をいちいち気にしたり、近所と揉めるようになるほどとは思わず、何度も言われるうちに辟易してきた。

とはいえ妊娠中の妻を強く叱るのもストレスを与えて子に悪くないかと躊躇われるし、気の強い妻は叱ればかえって反発するタイプなのは過去の経験から身に染みていたし、前はそこまで物音に過敏というわけでもなかったのだから子供が生まれれば落ち着いて元に戻るだろうと、それほど深刻には考えていなかった。






猫がうるさいのよ。

臨月に入った妻は、前にもましてそう愚痴るようになった。


「前よりよく聞こえるのよ。きっと隠れて飼うのに味を占めて、何頭も飼うようになったんだわ」


「またそれか……大家さんに確かめて貰っても何もなかったんだろ、野良猫じゃないのか?」


食事時にまでグチグチと聞かされると、ただでさえそう上手いというわけではない妻の料理が、さらに味が落ちるような気がした。

結婚したばかり頃は妻の手料理という感動が何よりのスパイスになっていたが、食べ慣れてくるとそれも効果が薄まっているのに、その上に不味くなるようなことは控えてほしい。


「鼠捕りの粘着シートや毒の餌を庭に仕掛けたけどかからないのよ。鼠用じゃ足りなかったのかしら」


さらっと出た言葉に、ギョッとして食べていたものを詰まらせてしまう。

しかし妻はむせる俺を見ても、何やってるのよ、と呆れた顔で水を差しだすだけで、何が俺を慌てさせたのかは思い当たらないらしい。


「粘着シートや毒の餌って……そんなもの仕掛けたら死んじまうじゃないか。猫にそんな……」


「何言ってるのよ、駆除するためなんだから死なないと困るでしょう」


再びなんでもないことのように言われて、ちょっと薄気味悪くなる。

妻があまり動物好きではないことは知っていたが、それにしたってこんな酷薄なことを平気でいうほどだとは思わなかった。

自分だってそう動物好きというわけではないが、流石に犬猫を駆除するのは躊躇われる。

ある種の愛護論者なら鼠だって動物じゃないかというかもしれないが、飼ったことのない俺でも、犬猫と鼠ではどうしても感覚というものが違うのだ。

それに、確か法律でも犬猫の殺傷は違法じゃなかったのか?


そう尋ねてみても、妻は気にした様子もなく、さらりとばれなければいいでしょう、と返す。


「別に変質者みたいに後を放置したり甚振るわけじゃなし、毎日庭を見回ってるんだから駆除してすぐに見つけて捨てればいいでしょう」


「お前なあ……俺は犬や猫には、そこまで冷たくはなれないよ」


「じゃあ、どうしろっていうのよ。あなたは昼間は家にいないからいいけど、あたしは毎日あの耳障りな声を聴いていなきゃならないのよ。ただでさえ妊娠中で辛いのに、その上に騒音で苛立たされるあたしの身にもなってよ。大体あなたは……」


「わかったわかった。後で害獣用の檻でもネット通販で探してみるから。それで引っかかったら保健所に連れて行くよ。」


こういう時の妻は反論すればするほどしつこく愚痴り続けて、ついには非難の矛先があちこちに飛び火することも今までの経験で身に染みているので、口論を続けるのは避けてとっさに思いついた嘘で宥めにかかかる。

保健所に連れて行ったって引き取り手が現れなければ同じなので躊躇するが、妻はいちいち保健所に問い合わせて確認するほどマメではないし、遠くへ離してしまえば気付かないだろう。


幸い俺の嘘には気付かず、その場はそれで納得した妻に、腹の子に栄養をつけるためにも今度何か美味いものでも食いに行こうと明るい話題に移したのだった。






猫がうるさいのよ。

月満ちて無事に男の赤子を産んだ妻は、何時も何時もそう愚痴るようになった。


「ほらまた! もううるさくて寝られないじゃない! あなたどうにかしてきてよ!」


「いい加減にしてくれよ……猫の声なんて聞こえないだろ。仕掛けた檻にだって何もかからなかったし、お前の気のせいだって」


「気のせいなわけないでしょうこんなにうるさいのに!! どうしてあなたは気付かないの、耳が詰まってるんじゃないの!?」


ムッとして、いっそ詰まってたらお前のうるさい声を聞かずに済むのにな、と言い返しかけて、大声のせいだろう目を覚ました息子が泣き出す声にはっとする。

せめて出産後にもつきものらしい不安定が落ち着くまでは、多少ヒステリックになっていても気遣うようにしようと決めていたのだが、こんなわけのわからないことで愚痴どころか喚かれては、流石に我慢できなくなってくる。


「ほら、いい子だな、ああ、そろそろ腹は減ってないか?」


息子を抱き上げてあやしてやる間も、妻は一緒にあやすどころか、泣き続ける息子に野良猫でも追い払おうとするように手を降る有様だった。


「もう、猫みたいな声で泣かないでようっとうしい!」


「猫みたいな声で泣くなって……仕方ないだろう、赤ん坊の声はそういうものなんだろうし……」


猫を飼ったことはない俺は、実家の近所の飼い猫や野良猫の声を耳にする程度で、弟妹も、面倒をみるような親戚の子も、もちろん子どもも息子が生まれるまでいなかったから赤子なんてたまに子連れに遭遇した時くらいだったが、どちらもそんなに聞き入ったことがあるわけではなかったが、こうして息子の声を聞きながら言われてみれば、猫が騒がしくしてる時の声なんかまあ似ているような気はする。

しかし、いくら苛立っている猫の声に似ているからって、自分の息子の泣き声にまで怒鳴ることもないだろう。


「赤ん坊は泣くのが仕事というし、泣くことでしか親に気持ちを伝える術を持たないんだから仕方ないじゃないか。ほら、腹が減っているみたいだから乳をやってくれよ」


あやしてやっても泣き止まないし、前の授乳の時間からいっても乳を求めているのだろうと妻に差し出すと、しぶしぶ授乳をはじめたものの、その表情は我が子に乳を与える母のイメージとは異なった忌々しそうなものだった。

まるで本当に赤子をうっとうしい騒音の元として見ているようで、今後への心配がよぎる。


まさか本気で我が子とうるさい動物を同一視しているわけでもないだろうが、幻聴らしき猫の声といい、一度カウンセリングに連れていった方がいいのかもしれない。

今考えると妊娠中から隣近所にいないし野良にしては罠にもかからない猫の声が聞こえるのも、マタニティブルーで幻聴が聞こえるようになっていたからなのかも……。


しかしこの気が強く他人から叱られたり反論されるのを嫌う妻を、なんといってカウンセリングになど連れて行ったものか。

妻の実家の方に相談して、なんとか宥めて連れて行ってもらうか……。



そう考えた俺は、次の日の夕方に仕事を早引けして妻の実家へと訪れた。

伝えるだけなら電話やメールでも事足りるが、やはりこうしたデリケートな問題は直接会って伝えるべきだろう。


しかし昔気質の妻の両親には娘をカウンセリングに行かせることには反対され、産後で不安定になっているのだろうからしばらくすれば落ち着くだろう、君が我慢して配慮してくれれば、と前の自分のような答えを返すばかりだった。

自分もそう思っていたが落ち着かず悪化していたのだし、落ち着くまでの間に育児に支障をきたしたままでは息子も心配なのに、娘と孫の話にもっと親身になってくれないものかと気落ちして家を出ると、庭の駐車スペースで車に乗る前に義弟が声を潜めて話しかけてきた。


「あの、姉さん、猫の声の幻聴が聞こえるって……」


義弟は妻とは年が離れているせいかあまり仲が良くないらしかったが、やはり産後の姉の不安定となると家族として心配なのか、顔色が悪い。


「そうなんだよ。近所では猫なんて飼ってないし、地域猫なんてのもいないし、野良猫も見かけないし、最近は俺がいる時にもそういうんだけど俺には何も聞こえないしで……」


「……あの、実は姉さん、前にもそんな幻聴に悩まされたことがあるんです」


「……え?」


そんな話は、今まで妻から聞いたことがなかった。

妻はずっと猫の声を現実のものだと思い込んで愚痴っていたし、昨日も俺が気のせいだと宥めたら反発したのに。


「正確には、姉さんは幻聴だとは思ってなかったみたいだし……その、幻聴でもなかったのかもしれないけど……」


「どういうことだい? 幻聴じゃないって……この辺りでも猫は見かけないけど?」


義弟はしばらく迷っていたが、よほど人に聞かれたくないのか更に声を潜めて、囁くような声になった。


「俺がばらすのは不味いのわかってるけど……実は、姉さんはその、昔、中絶したことがあって……」


「……中絶って…………堕胎?」


妻が俺と付き合ってから妊娠したのは息子が最初だから、中絶したというのが俺の子ではないのは直ぐにわかったが、だとしても妻が、付き合う前であってもそんなことをしていたということに、吐き気のような感覚が湧き上がってきた。


「前の彼氏と別れた時に、妊娠してて、シングルマザーになる気なんてないって……。俺は反対したけど、当時ガキだった俺が育てるってわけにもいかないし、親父たちもそういうの恥だからって……」


顔に出てしまったのか、義弟は俺の顔を窺うように、俺が勝手に話すの不味いとは思ったけど、ともごもごと呟く。

確かに知りたくはなかったし、家族とはいえ妻の過去の中絶など夫に話すようなものではないが、今まで黙っていた義弟が、こんな時に、そんな話を持ち出すのが単なる誹謗中傷目的とも思えずに、続きを促した。


「その後、俺は水子供養とかした方がいいんじゃないかって言ったんだけど、姉さんは気が強いしオカルトとか全然信じない方だし……。でも、それからしばらくして姉さん、猫の声がうるさいって幻聴に悩まれるようになって……。俺、ベビーフードも出してるファミレスでバイトしてたから、よく赤ん坊連れてくるお客さんも見てて、赤ん坊と猫の鳴き声が似てるの知ってたから、俺もそうオカルトとか信じる方じゃないけど、流石に気味が悪くなって、姉さんに黙って水子供養してもらったんですよ。何度もそうしてるうち、姉さんの幻聴も止んだみたいだったんだけど……」


『もう、猫みたいな声で泣かないでようっとうしい!』


『猫みたいな声で泣くなって……仕方ないだろう、赤ん坊の声はそういうものなんだろうし……』


妻が聞いていたのが、猫の声ではなく、赤子の声だったら。

そう思ってゾッとするが、しかし聞こえていたのが妻が堕ろした水子の泣き声で、一度は義弟の供養で収まったというなら、何故今になってまた現れるのか。

義弟にもそれはわからず、俺は気味の悪い思いを抱えながら帰路に着いた。


気味が悪かったのは、オカルトじみた話だけではなかった。

別に清廉潔白だとか貞操堅固だとか思っていたわけではないし、前にも付き合った男が何人かいただろうとは思っていたが、妻が自分の知らない所で、赤子ひとりを、我が子を、生まれる前に殺してしまっていたということが、今は自分が赤子の息子を持つ身ということもあって、どうしても気味の悪さを拭いきれなかった。

生まれる前なら人ではない、相手の男と別れたのなら仕方ないと思いきれる人間も多くいるのだろうが、俺にはとても、そうできる気はしなかった。


妻にいえばおそらく付き合う前のことまで話す義務はないと反発するだろうし、自分だって過去のことを根掘り葉掘り聞いたりも話したりもしなかったけれど。


自宅に着いても妻に会ってどう話せばいいのか決心がつかず、ひとまず中絶を知ったことや過去の幻聴のことは置いておき、心霊現象かもしれないからと供養だけ勧めてみようと思いながら門を開けようとしたところで、どこか緊張した面持ちの近所の老婦人に声をかけられた。

妻は幻聴のせいで近所に猫を隠して飼ってないかと難癖をつけたことがあるし、最近は怒鳴り声が近所にも響いているだろうから、その抗議だろうかと身構える。


しかし老婦人の話は予想外なもので、また先ほど義弟から聞いた話と妙に共通点があった。


俺たちが今住んでいるあの家は、ずっと昔、事件があったという。

正確にはあの家が建つ前の話だけれど、住んでいた女が未婚のまま何度も妊娠し、生まれた子を殺害しては遺棄していたという事件。

発覚した時には女は精神状態が危うく、取り調べもろくろくできなかったため、捜査で発見された遺体が全てなのかもわからず、しばらくあの辺りで赤子の泣き声を聞いたとか、まだあの家には未発見の遺体が眠っている、などという噂もあった。


いつの間にかその噂も立ち消え、家は更地になり、隣近所も引っ越したり新しくアパートが立てられたりして入れ替わり、そして更地になっていた土地にも新しく家が建てられた。


そして、俺たちが引っ越してきた。


昔の事件だし、家は新しく建て替えられているのだし、住むのに気分が悪くなるような話を新婚夫婦にわざわざ聞かせない方がいいと老婦人は黙っていたが、猫の声がどうのという幻聴に悩まされていると聞いて心配になり、既に妻には話したのだが、オカルトなど信じない妻は一笑に付したのだという。

しかし最近は怒鳴るような喚き声まで聞こえるようになり、幻聴が酷くなっているのではと心配になったらしい。


一度お祓いに行った方が、と老婦人が勧めるのに生返事で返して、嫌な予感にかられながら門から玄関までの短い距離を必死で走る。


玄関のドアを開け、妻の名を呼びかけても、返答はない。

台所、居間、寝室、物置代わりの空き部屋、風呂やトイレまでを次々確かめても、妻も息子も影も形もなく、息子の泣き声さえ聞こえない。

大きな声で呼びかけても、いつもは大声を上げると泣き出してしまう息子の声はやはり聞こえてはこない。

しかし、微かに妙な音が聞こえるのに気付いて、必死で耳を澄ましながらその音の元を捜しあてた。


息子は、押入れの中に入れられていた。

口にガムテープを張られ、布団を詰められて、僅かに唸る声もか細く……苦しさのためか真っ赤になった顔は涙と鼻水に塗れ、テープを剥がしてもまだ弱々しい声しか上げられず……後に、医者と警察からは、窒息死しなかったのが奇跡だと言われた。


警察の捜査でも、妻は見つからなかった。

元々居もしない猫を探して近所と揉めたり、息子に怒鳴る声が近所に聞こえたりしていたためもあり、出産と育児のストレスから幻聴に悩まされるほど精神状態が悪化して、とうとう息子を虐待して家出したのだろう、そう噂された。


確かに、息子の口にガムテープを貼り押入れに閉じ込めたのは、認めたくはないが妻の可能性はある。

息子の泣き声を『猫の鳴き声』と混同して苛立ち怒鳴ることさえあった妻は、エスカレートして息子を黙らせるためにそうしたのだろう。


しかし、その後で妻は何処へ行ったというのか。

財布もスマホも、カードも通帳も、免許証もパスポートも、家を出て新しく生活を始めるにしても必要だろうもの全てを置いて。

発作的な家出だから何も持たなかったとしても、何も持たず計画性もなく家を出て隠れ通せるものなのか。


その点は警察も不審だったらしく、俺も疑われているようなふしがあったり、家出後にトラブルに巻き込まれた可能性から何度か身元不明遺体の確認に呼ばれたりもしたが、結局妻は見つからなかった。


俺はあの家に住み続ける気にはとてもならず、家に残って妻を待っていてくれという義両親の反対を押し切って家を手放した。

義両親は、妻が育児でストレスを溜めて虐待や家出にまで走ったのも俺の配慮が足りなかったからだと思っているようで、しばらくその件や今後の息子の養育について揉めて仲が険悪になったりもしたが、今は俺の実家で両親に手伝われながら、息子と平穏に暮らしている。


ただ、今でも見つからない妻は、もう二度と見つからないような気がした。


俺もあの家に住んでいたのに、俺には聞こえなかった声。

あの声が母親に殺され遺棄された哀れな赤子たちのものだというのなら、赤子の泣き声とは親に気持ちを伝えるためにはそれしか術がないから上げるもので。

そして聞こえた妻には、まだ生まれていない我が子を殺し、そして祟られた過去があったのなら。

そして、妻が消える直前にした行為は、息子を殺していてもおかしくなかったことで……。


あの家に憑いていた赤子たちは、殺した我が子に祟られている、そしてまた我が子を殺しかねない行為をした妻を、自らを殺した母親と同一視したのではないだろうか。


真実は、俺にはわからない。

もしもそれが真実だとしても、妻が何処へいってしまったのかも。


ただ、今でも俺は毎年、妻がいなくなった日に義弟とともに供養を続けている。

それが妻と、妻の水子がいる何処かへ届くのかどうかもわからないけれど。


数年後、通りがかったあの家に立ち入り禁止のテープが張られ、警官が出入りしているのを見た。

あの家の祟りは、まだ続いているのかもしれない。


けれどその真実も、俺にはわからないし、もう関わりのないことだった。



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