Dive18
「ここ禁煙なんじゃないの?」
「あたしはいいの。特別」
「もう少し大人になってからの方が……」
「ありがとう。でもあんたより歳上だし20歳は超えてる」
「……」
最高に失礼だ。ハッキングするスキルは1ミリもないが、僕が彼女のPCをハッキングして、あらかじめ年齢を調べておくべきだったのかもしれない。
「あのアプリだけどいつ手に入れたの?」
「今日の朝かな。手紙と一緒に届いた」
「自殺した後にそれが届いたってことだ」
「どうしてそれを?」
「あたしに向かってその質問は酷くバカな質問。自殺したのその人? 好きな人かなんか?」
「……大事な人であることは確かかな」
「あんたを見てもあたしにはさっぱり理解できないんだけど、得体の知れないアプリを託したってことは、ケシキにとってあんたも大事な人だったみたいだね」
「ケシキのこと知ってるのか?」
「今日本じゃ彼女は超有名人。そうは言っても元々ケシキをあの学園に転校させたのはあたしで、過去にある事件からケシキを助けたのもあたし。でもそんな話今はどうでもいい。とにかくあんたはあのアプリがなんなのかを知りたいわけだ?」
「教えてくれるのか?」
「あたしもまだ全てを知ってるわけじゃない。たた……あんたがこのアプリのことを知れば、もう後戻りはできない。すべてが始まってしまう」
「……僕はそのすべてを知らなくちゃならない。ケシキがこのアプリを僕に送ったことには、なにか理由があると思うんだ」
ユウグレは火のついている1本目のマルボロメンソールを、残りわずかになったコーヒーの入ったカップに投げ入れながら、すぐに2本目に火をつけた。世界のすべてを見てきたような彼女の瞳の前を漂う煙りが、ユウグレのオレンジ色の髪にまとわりついていく。世界のすべてを把握するために彼女はもしかすると地獄の淵からやってきたのかもしれない。そんなバカな妄想が浮かぶのはきっと、店内の照明に照らされたユウグレの姿が、どこか人間離れしたこの世のものではない、そんな存在に見えたからだ。
「ケシキの……あのLive映像についてはどう思う?」
「残念だけどあれはLive映像なんかじゃない」
「そう言いきる根拠は?」
「ケシキが全チャンネルをジャックした日の九紋ビルの監視カメラの映像を全部確認したけど、ケシキの姿はなかった。あの日の九紋ビルに住民以外で訪れたのは、郵便配達員とAmazonの箱を持った宅配業者、それとドミノ・ピザを宅配したアルバイトと警察だけ。ケシキが変装しているわずかな可能性も考えて、その後の全員の足取りも辿ったけど、もれなく全員本人で間違いなかった。ケシキのことだからもしかしたら自殺したのが九紋ビルじゃない可能性もある」
「それはないよ……絶対に」
あの日僕とケシキは九紋ビルから一緒に飛ぼうとした。断言できる。ケシキは絶対に九紋ビルから飛んだ。あの映像はフェイクなんかじゃない。きっとケシキは九紋ビルから飛ぶことで、あの日僕に言ったこと、あの日に思っていた、すべてのことが決して嘘ではないということを証明したのだ。僕を置いて一人で飛んでしまったことは悲しいけど、苛立ちや怒りといった感情は不思議と沸いてこなかった。今でもケシキの言葉と、あの日九紋ビルの屋上から見た風景だけが、何度ゴミ箱に入れても消すことのできない、ウィルスのように、頭のすみに残り続けるデータとなっていた。
「フラッシュメモリーいい?」
僕は鞄の奥から黒いフラッシュメモリーを取り出しキャップが付いたままユウグレに渡す。ユウグレはそれを親指と人差し指で押さえながら全体を見た。それから一度深く息を吐き出し、僕にも見えるように顔の前に移動させる。
「中身の前に、これはよくない。別のに変えた方がいいよ」
「よくない? 安物だから?」
「値段の問題じゃない。これだと誰がどう見てもフラッシュメモリーだから。捕まったらその場で奪われてデータが消される。持ち歩くんなら、こういうのにした方がいい」
ユウグレはそう言って首からネックレスを外し、銀の十字架を僕の前に置いた。
「もしかしてこれもフラッシュメモリ?」
「そう。まあ容量は少ないけど。人に見られると困るものを見るのがあたしの生きがいだから本当にヤバいのはこの中に入れておく。持ち運ばなきゃならないことなんてそんなにないけどね」
ユウグレが手渡したそれは、どこからどう見ても十字架にデザインされた、どこにでもある普通の銀のペンダントにしか見えない。手にとってみても、見た目通りそこそこの重さを感じる。ただよく見ると十字架の上の方にうっすら切れ目のようなものが見えた。ゆっくり引き抜くと日本刀の鞘から刀が引き抜かれるようにソケットとフラッシュメモリ本体が分離した。
「それにとりあえずバックアップしとくよ」
「ああ。だけどきっとユウグレにも危険がおよぶんじゃないかな?」
「あたしがその危険によって傷つくことはない。まずは中身を調べる」
ユウグレは僕が渡したフラッシュメモリをMacBook Airに差し込んだ。それから本のページをめくるようにキーをリズミカルに叩いていく。画面に白いウィンドウが表示され、英語の文字列が目まぐるし流れていくも、僕にはなにが起きているのかさっぱりわからなかった。 カチャカチャとキーを叩く音と店内に流れる雨の音だけが静かに鳴り響く。20分ほど経過した辺りで気づくとキーボードを叩く音が消えていた。ユウグレは画面を殺された両親の仇でも見るように睨みながら3本目のタバコに火をつけた。モニターを覗くと以前に僕も見た人口増加対策推進協議会のホームページが映っていた。
「これは……よくない」
「中身がなんなのかわかった?」
「……6年前から日本政府とある企業が結託して進めてきたプロジェクトをリアルタイムに監視できるアプリだと思う。残念だけど起動の仕方がわからない。別のアプリか、特別な端末が必要なのかも。これなら導火線に火の点いた爆弾持ってガソリンスタンドに走って行く方がまだマシ。持ってるだけで命が狙われる」
「そのプロジェクトに……人口増加対策推進協議会が関わっている?」
「関わってるというかそのクソ達が主導になって行われている可能性が高い。さらに九紋重工傘下の製薬会社、ダイノ・コア製薬もプロジェクトに参加してる……プロジェクト名は……12月の天国」
「12月の……天国」
「気味が悪い」
「どの辺が?」
「このプロジェクト名さ。こういう頭でっかちな奴らはこんなプロジェクト名を付けない。そこが気持ち悪い」
「その気持ち悪いプロジェクトの概要は?」
「プロジェクトの概要まではまだわからない。このアプリはあくまで計画の一部。まぁあたしにとっては一部で充分だけど」
「あまり今回の件に興味がない?」
「興味がなかったらここには来ないよ。むしろとても興味がある。すべてを知る準備はもうできた。黒幕がわかれば、あとはキーを押すだけでいい。2日欲しい。もう少し詳しく調べる」
「わかった」
ユウグレはなぜか笑っていた。その笑みはまるで、全人類を騙すために壮大なトリックを仕掛けたマジシャンのようだった。そんな彼女に、気づけばケシキを重ねてしまう自分の不透明な感情が、どこからくるのか不思議だった。きっとケシキとユウグレの共通点は、視線の先のさらに先、ずっと遠くにある別のなにかを視ているようなところだろう。そんな気がした。
「じゃあこのアプリでわかったことは、人口増加対策推進協議会とダイノ・コア製薬が得体の知れないプロジェクトを行っているってことだけ?」
「いや。それとは別に今調べてもう一つわかったことがある。大昔に914人が自殺した人民寺院の集団自殺事件……知ってる?」
「いや……聞いたことないかな」
「1978年に南アメリカ北東部にあるガイアナ共和国で、人民寺院という名前のカルト教団の信者達が、大きな鍋に入ったシアン化合物入りの飲料水を飲む方法と、シアン化合物を注射するというやり方で、集団自殺を実行した。信者の約9割である914人が見事自殺に成功して死亡した。その内の267人は18歳以下の子供だった」
「壮絶な事件だけど……今回の件とどんな関係が?」
「マスコミには伏せているみたいだけどケシキが自殺した日に143人の人間が自殺してる。それも全員が示し合わせたかのようにケシキが自殺した時刻とほぼ同時刻に……」
「……143人」
「つまり……一色ケシキが143人を道連れ、もしくは誘導して自殺したってこと。警察はすでに捜査をはじめてる」
「きっと元々自殺を考えていた人達があの映像に影響を受けたんだ。日本の自殺者数は異常だし自殺を実効できずに頭の中だけで考えている人間はきっと多い」
「それはさすがに無理があるでしょ」
無理があることは自分でもわかっていた。信じたくないという思いから出た嘘だ。なにか理由があるにしても143人はあまりに多すぎる。そもそも143人と共に自殺する理由なんてあるのだろうか? 僕にはその理由が思いつかない。自分の想像を超えたことが起こり過ぎて僕は恐怖を感じはじめていた。
すぐにケシキが濃い霧の先に向かって歩いていく姿が頭の隅に浮かんだ。彼女は絶対に振り返らない。目の前にあるものを隠す濃い霧すらも味方につけて、迷うことなく進み続けていく。まるで彼女にだけは目的の場所がはっきりと視認できているかのように進み続ける。どんなにケシキの名前を叫んでも彼女に僕の声は届かない。きっと僕の声に振り返るよりも重要なことがあるのだろう。美術の授業で教師の存在と授業を全否定するよりも、143人と共に自殺することの方が、彼女にとって特別な意味があるのだろう。その特別を僕は知る必要がある。
いや違う。それも嘘だ。僕はもう一度彼女に会いたい。ただそれだけだ。
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