Dive10

「今この教室にいる全ての生徒と話したわけではないので絶対とは言いません。ですが、本当に絵画が好きだったり、少しだけ美術に興味がある、そういった生徒以外は全員、私と同様に息抜きのためだけにここにいると思います」




「息抜きですって?」




「そうです息抜きです。先生はそれを知っているはずです。日々気の休まらない授業ばかりが続けば息が詰まる。そんな科目の連続を避けるように合間合間にごく自然に入っている美術や家庭科や体育、音楽の授業が情操教育というのは結局後付けで、子供達の集中力低下を避ける為に、文部省が苦肉の策で考えたシステムなのは当然ご存知ですよね?」




「一部の人達がネットなどでそういったことを言っているのは知っています。ですがそれら全てが事実ではありません。情操教育は人間がより人間らしくあるために必ず必要な授業です。そうでなければここまで長く、それらの授業が存続していけるはずがない。そう思いませんか?」




「今を生きる私達に必要なのは情操教育ではなく、死にたくなるような明日をどうやって乗り切るかということ。それ以外の問題はきっとバカみたいに小さなことです。先生……私は声のボリュームを上げて本当のことを言える人間なんです。誰もが濁った空気で満たされた世界で、空気を読んで言わないようなキーワードも、誰もがいつの間にかあらゆることに無関心になってしまったこんな世界でも、私は本当のことを言える。洗脳はもう……うんざり」




教師はその後しばらく何も言わなかった。ケシキの言葉達が縦横無尽に駆け回り教室中が埋め尽くされる。生徒達はただ黙ってモニターを見つめ教師が次に発する言葉を待っていた。僕はケシキの言葉にドキドキしていた。思っていても口にしないこと、口にできないこと、ケシキはその全てを簡単に吐き出していく。そのたびにケシキが言ったことを僕は正しいと感じ、打ちのめされ、どこか心地よい気分になった。




「あなたは少し‥‥‥問題のある生徒ですね一色さん」




「ええ先生。まったくその通りです。私には問題が多い。だけどそんな風に現実を、吐き気がするほど甘い甘い生クリームで隠して、きれいごとばかりを言う先生には、今の私が抱える問題の本質はきっと視えない。今の私にはボッティチェリがどうしてホロフェルネスの遺体発見を描いたのか理解できる。それは私がボッティチェリと同じで、世界には自由がないと知ってしまったから。先生のように生者の振りをしている人間を見ていると本当に辛くなるんです。先生がどんな思いで美術の教師になったのかはわかりません。ただ私にはわかってしまう。先生がどんな思いで日々を生きて、どんな思いで私達に授業を教え、どんな思いで夕食を口に運び、どんな思いで夜、眠りにつくのか……」




「一色さん‥‥‥次回からは私の授業には出ないで下さい」




「そうですね。そう言ってもらえると助かります。ずっと言いたかったことが言えたのですっきりしました。私のことは構わずに授業を続けてください」




そんなケシキの最後の言葉もむなしく授業終了を告げるチャイムが鳴り響いた。どうやらケシキにとって美術の授業は今日で最後のようだ。ケシキは教科書もノートも机に置いたまま、美術の教室から出て行った。きっと終わってしまったものに、興味はないのだろう。ケシキが置いていった開かれたままの教科書を見るとポール・ドラローシュの作品である絵画、レディー・ジェーン・グレイの処刑が載っているページだった。


今まさに処刑されようとしている目隠しをされたレディー・ジェーン・グレイは、この絵を観賞する人間と目を合わせることはない。その絵画を解説した全ての文字を否定するかのように、上から赤いペンで大きく書かれた太字の英文が殴り書きされていた。




私達が救いを求める主は、私達を絶対に救わない




そう書かれていた。ケシキが書いた文にも関わらず、なぜだかケシキが目隠しをされ、処刑されるイメージが頭に浮かんでしまった。

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