Dive09

翌日


その日ケシキは午前中の授業には顔を出さずに午後の選択授業の途中から出席した。僕とケシキが選んだのは美術だった。美術を選んだ理由は少しだけ絵画に興味があったから。ブレイクの「巨大なレッド・ドラゴンと火をまとう女」や「レディー・ジェーン・グレイの処刑」をぼーっと眺めているとなんとも言えない不思議な気持ちになった。だから少しでも絵画というものについて知ることができればと思ったのだ。ケシキは僕とは正反対に一番どうでもいい科目を選んだと言っていた。その日のケシキはなぜか終始暗い顔をしていた。ただ暗いのではなく、どこか恐れのようなものを感じさせる、そんな顔だった。あまり笑うことがないので他の生徒は気づいていないだろうけど、僕はケシキが周りにそれを感じさせないように、いつもの一色ケシキを演じていることも含めて、その微妙な違いを瞬時に読み取っていた。




「おはよう」




「おはようって時間じゃないけどおはよう。予定よりかなり遅くなったわ」




「いいんじゃないかな。午前の授業はケシキが後悔するほど中身のある授業だったとも思えないし」




「この学校にきてから中身のある授業を実感した瞬間なんて一度もないわね」




「一色さん授業中です。静かにっ」




巨大モニターの中で険しい表情をする40代後半の女性教師。彼女はいつも赤いスーツを着用し、常に背筋をシャンと伸ばしていた。その言葉や身のこなしから美術が心底好きだということがわかった。ただどんなに険しい顔をしながら大声で怒っても、僕達生徒側からすると結局はモニター越しで起きていることなので、残念ながらその怒りや緊張感は伝わらない。ただただ巨大なスクリーンに滑稽な姿が映るだけだった。聞きたくない授業や嫌いな教師の授業なら、裏技を使ってワイヤレスイヤホンのボリュームを0にすればいい。そうすれば僕らに声は届かない。ケシキはあからさまに苛立った表情を教師に向けた。切れ長の目はより鋭さを増し、冷たい表情を瞬時に作りあげた。処刑の合図でも出すように、まっすぐピンとケシキが右手を挙げる。なんだか嫌な予感がしてきた。




「先生。質問があります」




「なんですか? 一色さん」




「どうして美術の授業が今なお消えることなく残っているのか教えてください」




「美術の授業にはより豊かな情操を育てるという目的があります。一色さん。情操という言葉の意味を知っていますか?」




モニター越しの教師は自分の子供を見つめる母親のような瞳を教室にいるケシキに向けていた。ケシキは少し間を置いてからその質問にこたえる。




「美しいもの……すぐれたものに接して感動すること‥‥‥だったと思います。ということは美術の授業は感情や情緒を育むのが目的であるということですか?」




「そうですね。その通りです。道徳的意識や価値観を養い、人間がそれぞれ持つ個性的な心の働きを豊かにしていくための……」




「ぷっははははっ。あははははははっ。 あっはははははははぁ」




教室内に壊れたおもちゃのようなケシキの笑い声だけが響き渡る。永遠に続く錯覚を感じるその音は、リフレインとなり教室内にあるすべての物を振動させていた。生徒全員が笑い転げるケシキに史上最悪の殺人鬼でも見るような視線を向けている。




「一色さんっ なにがそんなに可笑しいんですか?」




「すいません先生。決して授業を妨害するつもりはないんです。ただあまりに可笑しかったからつい」




「だからなにが可笑しいのか言いなさいっ」




「こんなにも……こんなにも人間が人間を殺し続ける世界。こんなにも人間の心の闇と嘘が蔓延する世界。こんなにも汚れ続ける世界。こんなにも腐敗を続ける世界。どれだけ多くの人間が死んでも同種族である生物の死を意識しない世界が完成してしまった今がある以上、先生が言う情操教育はなに一つ価値がなく、そして無意味だったという結論にたどりつきます。美しいものは美しいと思う以上に世界は醜く汚れてしまった。それを知っている私は情操教育からなに一つ学ぶ気がないんです」




教師はケシキの言葉をゆっくり消化するように下を向いて黙っていた。僕が教師ならケシキの今の言葉に返す言葉はきっとない。




「じゃあなぜ選択したのですか。あなたがここにいるのはあなた自信でこの授業を選んだからじゃないんですか?」




教師の声に震えが混ざる。必死に怒りを抑えようとする細かく振動した音声は、ワイヤレスイヤホンを通過して僕の耳にその怒りを伝達する。

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