明日の黒板

佐倉奈津(蜜柑桜)

ショコラとメレンゲ

「チョコレートならビターとスイート、どっちが好き?」


 結露で曇った窓ガラスの向こうに雪が降りしきる二月。人のいない教室に響くチョークの音を止めて、春子は突然俺に聞いた。


「えっと…ちょっとビターなやつかな…」

 日誌にペンを走らせていた俺は正直、どきりとして答えたんだ。


「そうだよね!夏男君もそう思うよね!やっぱりチョコレートは甘すぎて砂糖の味しかしないのより、最低55パーセント、そこから80パーセントくらいのビターがいいと思うの」

 春子は俺の方に振り返ると輝く笑顔で話し始めた。

「それから、シンプルなのもいいんだけど少し洋酒が効いているのが美味しいと思うの。オレンジリキュールかアマレット…コアントローのガナッシュがとろけるのもいいと思う」


 春子は入学した頃から常にこんな調子だった。折につけ、お菓子に関して異様なほどの反応を見せるのだ。

 化学で融点、沸点、凝固点の実験をやった時には飴細工を作るのに最適な温度を解説しだし、英語の授業で赤毛のアンを読めば、トフィーやレイヤーケーキの地域差と伝統を話し出す。ピカイチは歴史の授業で、南蛮貿易に話が及べば金平糖やカスドースを巡る日本とポルトガルの繋がりが、世界史の先生が「パンが無ければケーキを食べればいいじゃない」という、かの有名なマリー・アントワネットの言葉を出すや「先生、正確にはケーキではなくブリオッシュです」と即座に注釈を加える。

 春子はセミロングの髪の毛と大きな目が可愛らしくモテそうなのに、恋愛そこのけ、無邪気で恋バナよりもお菓子への情熱を語る時の笑顔が最も眩しいくらいの女子高生。


 いつからなんて知らないよ。俺がそんな春子に惹かれていたのは。


 その春子と、何の幸運かバレンタインデーに共に日直になり、何の運命か二人きりの教室でチョコレートの話をされたのだ。どきりとしない男はおかしいだろう。

 ペンをノートの上に置き、俺は春子の菓子談義を真剣に聞く姿勢になった。

「チョコレートっていうと、板チョコとか、せいぜいコンビニで売ってるトリュフ程度しか食べたことないけど、結構色々あるんだね」

「それは勿体無い!チョコの可能性は無限大よ。ショコラ・オランジェットはオレンジの爽やかさと苦味が抑えた甘さのビター・チョコレートにぴったりだし、ランドグシャみたいに薄い生地にホワイトのガナッシュなんかも。抹茶やほうじ茶みたいな和ものにも合うし、ナッツ、フルーツ、何にでも…」

「ああ、そういえば」

 何か春子の気をひく話題がないかと記憶を手繰った俺は、この間、大学合格祝いに家族で食事をした時のデザートを思い出した。白い大きな皿に美しく鎮座した焼き菓子。赤いソースと生クリームが添えられて。

「この間食べたの、美味かったな。何だっけ。フォン…なんとか…」

 しかし情けない、名前を思い出せない。だが、春子はカラメルを焦がすバーナーさながらの速さで反応した。

「フォンダン・ショコラ!」

「そうそれ」

「さくしゅわの生地を割ってガナッシュがとろって出てくる時のスプーンの感触もだけれど、中に何があるのかなっていう楽しみは、作る方も食べる方もドキドキするのよね!」

 いや、どきどきしてるのはこっちだ。

「夏男君はフォンダンはナッツ入り派?それとも木苺のガナッシュ、それかプレーンなビター・チョコ、どれが好き?」

 何だかお洒落な言葉が並び過ぎているが、春子に似合うのはなんとなく可愛いピンク色だ。

「木苺、かな」

 すると春子はぱっと黒板から離れて自分の鞄を取り上げ、中から細いピンク色のリボンで飾ったレース模様の袋を差し出したのだ。

「じゃあ夏男君にはこれあげる。フランボワーズのフォンダン・ショコラ!」


 冬の薄暗い空から降る雪が、俺には白く輝く祝福の天使の羽根に思えたね。



 その日は、究極のフォンダン・ショコラをいかに作るかという春子の熱っぽい講釈に耳を傾け、そのレシピの魔法のような言葉を調べてすっかりフォンダン・ショコラ博士になった気分で帰ったよ。家の自分の部屋で一人、レストランのよりずっと小さい白い皿の上に乗った艶々の焼き菓子は、赤いソースもクリームもないけれど、俺の木目の机の上で、テーブルクロスの上よりずっと美しく光っていた。

 さくしゅわの生地を割ってガナッシュがとろっと出てきた時のフランボワーズの甘酸っぱい香り。もうこの焼き菓子の名前を忘れることはないと確信した。


 ただ、すっかり舞い上がって春子のショコラ談義に耳を預けていたものだから、自分の返事を言い忘れたんだな。


 だからチャンスと思ったんだ。卒業式がホワイトデーって言うのは。

 返事を忘れたとは、やはり男としちゃ格好悪い気がした。なら格好良くホワイトデー、しかも卒業式という新しい門出の日にキメるのもありかと。俺は残念ながらお菓子は作れないから、代わりに受験勉強以上の集中度合いで下調べをした。本屋でカフェ情報誌や業界人向けの料理雑誌を漁り、今最も注目を浴びているパティスリーを隅から隅まで調べ、その中でも俺のお財布に見合い、かつ女性に人気が高い、目にも楽しいお菓子を作る職人の店名をリストアップし、卒業・入学祝いに来た従姉妹の姉さんに、女子がもらって喜ぶお菓子の種類をそれとなく聞いて、徹底的に準備をした。お陰で随分とお菓子に詳しくなった。何せ雑誌はレシピまで載ってるし。

 そうしたら俺の努力を天が見ていたのか。何と絶妙なタイミングで、日本どころか世界で最旬のパティシエがデパートの催事に期間限定出店。電車の吊り広告でそれを知り、二時間かけて横浜まで行った。若いお姉さんやおばさんたちが作る長蛇の列も、全く苦にならなかったんだ。


 ***

 いい風は、俺に向かって吹いている。

 今日の卒業式、勝利の女神に微笑まれた俺の鞄の中には、卒業証書でも色紙でもない最重要物、海の向こうから来た至宝のボックスが鎮座していた。


 式を終え、仲のいい女子に「教員室行くから先帰ってて」と春子が言うのを耳にキャッチした俺は、廊下に出た春子を捕まえて教室で待ってると告げた。アール・ヌーヴォー風の唐草模様がフランス国旗の周りを飾る、いかにも女子受けしそうな菓子箱を机に置いて。


 廊下を小走りに駆けてくる軽い足音が近づいてきた。いつものように元気よく扉を開けて、春子が駆け込んでくる。

「あれっ夏男君以外、帰っちゃったの?ごめんねっ」

 明るい笑顔に期待で膨らむ胸の鼓動が外にまで聞こえそうだったが、俺は努めてクールに見えるよう、ゆっくりと立ち上がった。すると俺の方を見た春子の視線が机の上へ移動した。

「それ…」

 来た。

「ピエール・ブノワのムラング・クレーム…」

 さすが春子。情報量が尋常ではない。俺は笑みが抑えられないのを感じつつ、なるべくスマートに見えるよう、箱をすっと春子の方へ押し出した。

「そう。春子に」

 吸い付くように箱を見ていた春子の瞳が、ぱっと大きく見開いた。

「うそっ!嬉しいすごい!いつぶりだろう、ムッシュー・ブノワのムラング!口の中でしゅわっと崩れて濃厚なクリームが絡むのっ!」

 途端、春子の口から滔々と言葉が流れ出し、滝のように勢いを増す。作戦は大成功だ。

「レシピ真似してもなかなかできなくて、あぁ、早くこの味にってここ数ヶ月、ずっと待ってたんだぁっ…あのパパでさえ、修行時代に何度も食べたらしいけどなかなかこの味には近づけなかったっていう…」


 ––は?


「でもパパもね、今度はムッシューを超える味を極めて世界で勝負するって一念発起して…」

「ちょっと待って」

「え?」

「春子の父さんって…」

 春子は、いつもと同じ底抜けに明るい声で答えた。

「私のパパ、パティシェなの。言ってなかったんだっけ。パティスリー シェ・プランタンってお店やってるんだけど」

 そのパティスリーなら見た。雑誌で。日本精鋭パティスリーの一つ、世界で戦える日本のトップ・パティシェ特集。確か本店は…この間閉店…。

「でねでね、パパは今月からパリに移って、本場でもう一回、腕を磨きながらお店を広げるの!だから私もやっと本場でムッシュー・ブノワにも作ったお菓子見てもらえるかもしれないの!パパのお店手伝ってエコールに通って、パパやムッシュー・ブノワみたいなトップ・パティシェールに…」

 春子の口調は熱を帯び、淀みなく夢を語る。デコレーションのアイディアやガナッシュクリームの味の組み合わせ、本場でしか手に入りにくい材料やコンクール…立ち尽くす俺の様子には気付かないままあらかた語ったところで、漸く春子の夢語りが途絶えた。幻の「ムラング」にキラキラ瞳を輝かせながら。

「でも夏男君、何で私に?」


「バ…レンタインの…俺、春…子が…」

 格好つけるどころではない。言葉切れ切れの俺に、春子は「あっ今日…」と小さく漏らすとみるみるうちに顔を紅潮させる。先ほどまでの笑顔は何処へやら、頰が強張り、瞳がうるっと揺らいだ。

「ごめんなさいっ…‼︎」


 教室に一人残された俺は、そのままずるっと椅子に身を落とし、駆けていく足音をどこか遠くに聞いていた。


 ––何で考えなかったんだ…バレンタインのが、義理チョコかもしれない可能性を…

 帰り道にある公園、オーブンから出て一気にしぼんだ出来損ないのスポンジみたいな気分で、俺は虚しく飛んでいく鴉を見ていた。座ったアルミのベンチは制服のズボン越しにも冷たい。春はまだ遠い。


 おもむろに例のムッシュー・ブノワの小箱を取り出し、ぼんやりと眺める。負けたのか?ブノワに…。


 蓋を開けると、花形に絞り出された白い焼き菓子が、ピンク色の四角い箱に詰まっている。フィルムを剥がして一粒取り出すと、白い生地が沈んでいく夕陽の濃い色にほのかに染まる。

 口に放り込んだそれは、しゅわっと生地が崩れ、口の中にカカオのほろ苦い甘味が広がった。そしてそれが、砕けたメレンゲと絡む。


 頰の中に広がるメレンゲの砂糖は今の俺には強烈に甘かった。


 ––あんなにお菓子への情熱がある春子なら…


 負けた相手はブノワじゃない。春子の夢だ。


 ––そうだ、あんなにも出会いたかった菓子に歓喜した春子なら…


 甘さがキツすぎたのか、空腹のところ急に脳へ刺激がきたせいか、俺の足は衝動的に学校の方へ向かった。人のいい守衛のおっちゃんに「最後にもう一度教室を見たい」と言えばすんなり中に入れてくれ、日暮れて間もなく、俺は小箱を右手に持ったまま元の教室の机に戻っていた。


 メレンゲの中からとろけて出てきたチョコレートクリームが、カカオ何パーセントなのか俺には分からない。そして俺は、あのフォンダン・ショコラが百パーセント義理だとも聞いてない。


「55パーセントに賭けてみるか…」

 春子がパティシェになるなら。パティシェの強い情熱を持つなら。


 手のひらに乗る可愛らしい小箱を黒板前の机に置くと、俺は空いた右手にチョークを握った。


 ***

 翌朝、太陽が真上に来る前に、俺の足は再び教室へ向かっていた。忘れ物をした、と言えば気のいい守衛のおっちゃんはまたもすんなり校内に入れてくれ、俺は急く思いで廊下をひた走る。

 息せき切って教室の前で急停止し、音を立てて扉をスライドさせると、すぐに賭けの結果 –– 黒板を見た。


「うおっ」


『meringue crème』と大きく書かれた下に、色とりどりのチョークを使った図解付きで、びっしりとレシピが書かれていた。一グラム単位での卵白と砂糖の配分、オーブンの余熱温度と時間、泡立ての加減(電動ミキサーから途中で泡立て器に持ち変えるらしい)に砂糖を入れていくタイミング、さらに絞り出しの直径と高さまで。黒板の右側にはガナッシュ・クリームのテンパリング温度から洋酒の種類(お気に入りはアマレットとシェリー酒だそうだ)、クリームの冷却温度などなどが所狭しと書き連ねてある。そして…


「やっぱりな」


『君に食べて欲しい、これの作り方は?』


 昨日の夜、俺が書いた我ながら汚い字。その横の矢印が指す位置にあった、机の上の小箱は消えていた。代わりに春子の端正な字が踊っている。


『ホワイトデーありがとう!ムッシュー・ブノワのレシピはこの通りだけど、向こうでムッシューを超えてくる‼︎』


 窓の外に白く降るのは、二月のバレンタインデーとは違って早咲きの桜の花びらだ。揺れる花弁の間に一瞬、飛んで行く飛行機が見えた。


「今度は八十パーセントの方に賭けるか…」

 腰を下ろした教室の椅子は、陽だまりにぬくめられて暖かい。次は海の向こうから来る菓子を待つもんか。自分で行ってやる。


 ***


 それから春子とはどうなったかって?勿論、関係は続けた。メッセージのやりとりも、たまにはインターネット通話だって。

 初めは「お菓子作り以外のフランス語がわかんない!」と嘆いていた春子だったが、

「今日は市場に仕入れに行かせてもらった」

 から始まり、

「フルーツカットを教えてもらった」

「カスタード担当になった」

「テンパリングを任された」

「デコレーションの依頼が来たの!」

 と、着々とパティシェール(一度パティシェと言ったら怒られた。男性形だと。)への道を歩んでいるらしい。俺の方も日本の大学の講義、高校の奴らの近況、最近地元にできたパティスリー(これのチェックは卒業式以来、怠っていない)を逐一話した。


 好きって言ったか?そんな、言葉に表さなくても伝わり合うことはあると信じている。勘違い?ないない、多分。いつかはバシッと格好良く決めてやりたいと思うけれど。


 春子の父親は確かに優れているらしく、渡航後すぐにパリの店を開くや大評判となり、地元紙に取り上げられ、あれよあれよと弟子を増やし、ヨーロッパ内に次々に支店を開いていった。俺が大学に通う間に日本との多角経営にも着手し、数々の有名ホテルチェーンと契約して洋菓子を輸出、一部の弟子を派遣してレストランのデザートを担当、小売店対象の輸出業者との提携など、郷里日本との連携を含めてビジネス展開を広げている。


 春子はすっかりパリジェンヌとなり、パティシェールへの道をまっすぐ進んでいるらしい。最近は本格的に新作ガトーの考案にも携わり、やはりこのままパリへ定住するのは目に見えていた。

 だからといって俺の方も、諦めてはいない。世の中もうグローバルだ。残念ながら料理はさほどできないが、とにかくパリ支店のある会社(パリに移住できるかもしれないし)、シェ・プランタンが提携しているホテルその他の会社(春子がいつか来るかもしれないし)の就職試験を受けまくった。

 やはり勝利の女神は微笑んだ。シェ・プランタンの委託販売をする日本の洋菓子メーカーへ入社したのだ。春子はいつもの明るさで「良かったねぇ夏男君!」と純粋な祝福をくれた。


 その後も俺の努力は終わらなかった。入社だけでは春子はまだ海の向こうの遠い人だ。

 春子に会って驚かせてやりたい一心で、当人には言わずにフランス語をネイティヴに習い、欧州菓子の伝統と流行りを勉強し、フランス菓子業界の情勢を研究し、会社の異動希望届けのたびにパリ支社希望を提出し続けた。

 何せ春子のお菓子に対する並並ならぬ執念−−もとい情熱−−が俺にもうつったらしい。春子への並並ならぬ情熱という形で。


 そして入社三年目にして得たのだ。フランス支社への配属切符を。シェ・プランタンが日本支店設立に当たり、出資した俺の会社との連携強化のために募集された臨時異動枠だった。


 ***

「それじゃ、相川君はまず来週、パリ支社出張で向こうの担当者と顔合わせということで」


 都心のオフィスの会議室、部長が書類をめくりながら予定を確認していく。

「その後、うちの社の最終調整をしたら四月からはパリ勤務ですね。しっかりやらせていただきます」

 販売商品をチェックして、書類にマーカーを引いていく。日本はホワイトデー、パリはイースターと、菓子業界は繁忙期だ。向こうの様子を見るにはちょうどいい。

 ブラインド越しには雲ひとつない青空が広がり、眼下には白く色をつけ始めた新宿御苑の桜が見える。


 −−ついに春子のいるパリへ。春子のいるパリで、春子のそばで暮らすときが来た。


 春子と連絡を取りつつも会えない、苦い日々は終わる。フォンダン・ショコラさながらに熱い思いが成就するのだ。

「よろしく頼むよ…そうだ、今日はこの後、シェ・プランタンからもこっちに移り住む支店担当者が一人来るということでね。向こうに行く前に君が会えればいいと思ったんだが、空港から直接らしいから、フライトが遅れてるのか…」

 椅子を揺らしながら言う部長の声に重なって、廊下を小走りに走る軽い足音が近づいて来た。そして会議室の扉が勢いよく開けられ、細身のパンツスーツの女性が元気よく入って来た。


「お待たせして申し訳ありませんっ!このたび、シェ・プランタンの日本拠点の支店長を任されました主任パティシェールの住吉春子ですっ‼︎」


 衝動的に立ち上がった俺の後ろで、オフィスの硬質な椅子が床にぶつかる音が響いた。


「部長っ‼︎」


 人生のビターって、何パーセントだ。




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明日の黒板 佐倉奈津(蜜柑桜) @Mican-Sakura

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