始発電車

 田舎というほど田舎でもなく、都会というほど都会でもない。

 のびやかな空気と穏やかな温かさが漂う、名を記すまでもない町。

 そこに、同じく名を記すまでもない小さな駅があった。

 今はまだ朝五時。

 たった一人の駅員の他には、ほとんど人影が見当たらない。

 陽もまだ昇っていない。しかし、確実に町は目覚める一歩手前。

 そんな時間帯のことだった。

 ホームには旅の荷物を抱えた魔法使いが一人。

 新調したトランク、旅を始めたときからずっと使っている大きな鞄。

 格好は少々薄汚れていて、清潔とは言い難い。

 しかし、その汚れは彼が歩いてきた距離と時間を表すものなのだ。

 彼の前には、扉が開かれた始発電車。

 立つ人もいなければ、座る人さえいない。

 魔法使いは中へ入ろうとはせずに、じっとある方向を見つめていた。

 そこには、彼と同じように大荷物を抱えた女性がいた。

 旅行に行くのか。それとも引越しでもするのか。

 彼女は落ち着かない様子で、何度も電車と駅の外を交互に見ていた。

 誰かを待っているらしかった。

 しかし始発電車の出発までには、もうあまり時間がない。

 どうするのだろうと魔法使いが気にかける。

 そのうち、始発電車が出発する旨を駅員が大声で告げた。

 見送ってくれる人のいない魔法使いは、あっさりと中へ入り込む。

 まだ女性は動かない。

 頑なな表情で、来るべき誰かを待っているようだった。

 しかし時間は待ってくれない。

 駅員が気遣うような視線を彼女に送る。

 それに気づいた彼女は、時計に目をやってから頭を垂れた。

 今にも泣きそうな顔で電車に乗り込む。

 そんな彼女の背中を、ここにいない誰かの代わりに、駅員が悲しげに見送った。

 出発のベルが鳴る。

 窓の外は変わらない景色。

 まだ眠る町並が、悠然とそこにあった。

 乗客は魔法使いと彼女の二人だけ。

 世界に取り残された孤独感が、車内に漂っているようだった。

 背中合わせに座る乗客二人。

 魔法使いの背中の方から、彼女の涙ぐむ音が聞こえてきた。

 電車がかすかに揺れる。

 変わらない景色が僅かに動き出す。

 眠ったままの町を遠ざけて、目覚めた電車が走り出す。

 電車の揺れる音と、彼女の泣く声。

 それを耳にしながら、しかしどうすることもできないので、魔法使いは鞄から本を取り出す。

 田舎道を走る機関車が表紙に描かれた、古ぼけた本。

 出会う者もなかったあの町で魔法使いが見つけた、たった一つのものだった。

 暗がりの電車で、目を凝らして本を読む。

 旅立つ少女とそれを見送る少年。

 二人は再会を約束し、涙をいっぱいに溜めながら笑顔で別れる。

 陳腐な内容、と魔法使いは視線を外した。

 不意に、窓から光が差し込んできた。

 魔法使いは眩しそうにそちらを見る。

 余計な障害物の少ない綺麗な町並。

 その向こうから、空が新たな色を見せ始めていた。

 眠る町並から影を取り払い、世界の目覚めを告げる朝焼けの光だった。

 そのとき、魔法使いは眼下を走る自転車に気づいた。

 乗っているのは傷だらけの男性。

 あちこちから血を流しながら、片手で自転車を走らせている。

 必死に何かを叫ぶ彼の声は、しかし電車の音と彼女の泣き声で届かない。

 彼女は顔を伏せて泣いたまま、窓の外に気づかない。

 彼の乗る自転車は、次第に電車から引き離されていく。

 魔法使いは溜息と共に微苦笑をもらす。

 彼がそれに気づき、二人の視線が合わさった。

 怪我して遅れたドジな彼と。

 希望を簡単に捨てたドジな彼女のために。

 魔法使いは、時計を巻き戻した。


 眠ったままの町、それに電車。

 今はまだ朝五時。

 ホームには彼女と魔法使いがいた。

 不安げな表情の彼女に魔法使いが近づく。

 胡散臭いほどに爽やかな笑顔で、一言二言告げて――――。


 今は朝五時十分。

 ホームには彼女と彼。

 お互い涙と笑みで顔をぐしゃぐしゃにしていた。

 次の電車が来るまで、二人はずっとそうしていた。

 年老いた駅員も、穏やかな笑顔で二人を見守っていた。


 町より一足早く目覚めた電車が駆けて行く。

 乗客は魔法使い一人。

 見送る人もいなかったあの町で、たった一つ見つけた本を読む。

 ――――二人は再会を約束し、涙をいっぱいに溜めながら笑顔で別れる。

 陳腐な内容、と魔法使いはページをめくる。

 からかうような声が二つ、どこかで聞こえた気がした。


 電車は走り続ける。

 人より早く目覚め、人より速く走り続ける。

 いろいろなものを置き去りにし、あるいは迎え入れながら。

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