無人の家
無人の家は、人里離れた森の奥にあった。
森は明るくはない。が、薄暗くもなかった。
程よい木漏れ日が家を照らし続けている。
かつてこの家に住んでいた住民は、そういったところが気に入ったらしい。
長い旅路を終えた後の隠遁生活。
しかし、辛気臭い場所は嫌だった。
だが、あまり人の出入りしやすいところだと、色々と面倒臭い。
そんな人にとって、ここは安息の地として最適の場所だった。
「変わってないなぁ、ここも」
森の奥の、無人の家。
そこに、一人の魔法使いがやって来た。
彼の名は飛鳥井秋人。各地を渡り歩く旅人である。
しかし、定住の地を持たぬ旅人にも、思い出の地はある。
絶えず未知の場所を求める秋人にも、たまには帰りたい場所というものはある。
それが、この無人の家だった。
「秋人さん、ここは……?」
彼の背後から、すっと女性の姿が現れる。
まるで背後霊のように登場したその女性は、秋人の旅仲間だった。
正式な名はないが、秋人が便宜的に付けた名は『夏名』という。
彼女がここを訪れるのは、これが初めてだった。
「以前何度か話さなかったっけ」
「こいつの師匠が住んでいた家だ」
と、秋人の鞄の中から声がした。
秋人が鞄を開けると同時に、声の主が中から飛び出してくる。
それは古ぼけた一冊の本。
古の時代から生き続けている、名もなき本である。
秋人たちは彼を『ナナシ』と呼んでいた。
秋人との付き合いは夏名よりも長い。この家のこともよく知っていた。
「旅をし始める前は僕もここに厄介になっていてね。師匠と喧嘩別れしてここを飛び出してから、僕の旅は始まったんだ」
「そうなんですか……でも、確かそのお師匠様は……」
「ああ、うん」
秋人は少しだけ目線を下げながら頭を掻いた。
「二年前に一度戻ってきたんだけどね。……そのときは、もう」
「そう、ですか」
「気にすることはないよ。僕は気にしてないしね。というか、気にしてたらわざわざここには来ない」
苦笑して、秋人は夏名の肩を軽く叩いた。
「しかし、急にここに来たがるとはな。何か思うところでもあるのか?」
「いいや。ただ、近くまで来たから寄ろうと思っただけさ。まぁ……そろそろ掃除しとかなきゃな、とは考えてるけど」
そう言って、秋人は家を仰ぎ見た。
数年前から住む人のいなくなった家。
しかし、廃屋という程ぼろぼろになっているわけではない。
無人の家、という表現が一番ぴったりだった。
「さすがに埃とか沢山積もってそうだし。たまには手入れしとかないと」
「お前にしては珍しい意見だな」
「ま、ここは僕にとっても思い出の場所だからね」
秋人は家の壁をさすりながら、静かに言った。
「ずっとあの頃のまま、というわけにはいかない。でも――――朽ちて欲しくない、という思いもあるから」
掃除は丸一日で終わった。
家全体を徹底的に掃除したことを考えると、早く済んだ方である。
この家の住人は元々、余計な物を置かない主義の人だった。
だからこそ、片付けるのが比較的容易だったのである。
全てが終わったのは、翌日の昼中だった。
「うん。大分綺麗になった」
いくら拭いても落ちない壁の汚れには、新しい壁紙を張ることで対応。
しつこい錆びも念入りに取り除き、家の中は大分綺麗になった。
「秋人さーん」
と、夏名が妙に嬉しそうな表情で飛んできた。
手にはアルバムが二冊。
掃除の最中に見つけたものだ。
掃除が全部終わったら見せるという約束だったので、早速見ようというつもりなのだろう。
秋人たちは居間に集まり、テーブルの上でアルバムを開いた。
「わあー」
写真に写っている光景を見て、夏名が思わず声を上げる。
大海原。
広大な砂漠。
深い森。
冷たい風が吹く雪原。
遊牧民と草原。
写真には、世界中の光景が収められていた。
「師匠は僕と同じ旅人だったらしいよ。この写真は、その中で撮ったものなんじゃないかな」
「ああ、そうだな。あいつは何かと形で表すのが好きな奴だった」
アルバムの側に浮かんでいたナナシが、懐かしそうに言った。
「ナナシさんも、お師匠様と一緒に旅をしてたんですか?」
「ああ。このアホの前のマスターが、こいつの師匠だったんだ。えらく破天荒というか、喰えないというか……まぁ、こいつの師匠に相応しい性格の奴だった」
「あ、あはは……」
ナナシの毒舌に、夏名は曖昧な笑みを浮かべた。
アルバムをペラペラとめくっていく。
その中には、風景だけではなく、人を写したものもあった。
各地で出会った人々なのだろう。
皆、写真に向けて笑顔で写っている。
「僕もこのアルバムは初めて見るけど……師匠の旅はなかなか楽しそうじゃないか」
「そうでもない。あいつの旅も、お前のものと同じくらい無茶苦茶なものだった。この写真に写っているものが全てではない。むしろ、写ってない――――写したいとも思わないようなものの方が多かった」
「それでも師匠は旅を続けたんだよね」
「ああ、およそ二十年間。この地を見つけるまで、あいつは進むことを止めなかった」
「……」
ナナシの言葉に気になる部分があったのか。
秋人の表情が、不意に硬くなった。
「……どうかしたんですか、秋人さん」
心配そうな夏名の声にも反応を示さず、秋人は口元に手をあてながら、物思いに耽るように眉を潜めている。
その視線は、この家のあちこちに向けられていた。
安住の地。
落ち着く場所。
それは、秋人が求めるものとは正反対だった。
未知の場所を求め続け、それゆえに旅を続ける。
それが、飛鳥井秋人のスタンスなのである。
しかし、彼の師匠は生涯を終える前に、旅を止めた。
二十年も旅を続けておきながら、その生き方を変えてしまった。
いつか、自分もそうなる日が来るのだろうか。
そう思うと、奇妙な焦燥感を抱かずにはいられなくなる。
この命ある限り続けようと思っていた旅にも、いつか終わりが来る。
自ら、幕を引くときがやって来る。
終わりがあるのだ。
それは、いつ来るか分からない。
ならば、少しでも多くの場所に行ってみたい。
少しでも多くの、人々に出会ってみたい。
それは自ら歩を進めるような欲求ではなく、何かに背中を押されるような、不愉快な望みだった。
眠れない。
この家は安らげる場所だったはずなのに、今日は妙に落ち着かない。
それは。
ここが、旅の終わりを意味する場所だと意識したからなのだろう。
物事にいつか終わりが来るのは当たり前のこと。
しかし、それを意識すると妙に不安になってしまう。
「やれやれ……何を今更」
旅は秋人にとって、長年の夢だった。
スポーツ選手がスポーツに焦がれるように。
創作家たちがまだ見ぬ世界に焦がれるように。
秋人は、昔から旅に焦がれ続けていた。
だが。
もし、その夢が終わりを迎えたら――――自分はどうなるのだろうか。
分からない。
全く想像もつかない。
今ある自分以外の形など、まるで想像することも出来ない。
そんなことを考えていたせいだろうか。
「おい、秋人」
「……心臓に悪いな、いきなり現れるなよリアル人外」
いつのまにか寝室に入り込んできたナナシに、まるで気付けなかった。
秋人は寝転がっていたソファーから身を起こし、ナナシに顔の高さを合わせる。
「それで、何か用?」
「ああ。お前、何かつまらんことでも気にしてそうだったからな。話を聞いてやろうと思ったのだ」
「話、ねぇ」
秋人は微妙にナナシから視線を逸らし、小さく呟いた。
誰かに話を聞いてもらったとしても、こんな不安はどうにもならないだろう。
それでも、ただ黙っているよりはマシかもしれない。
そう思って、秋人は自分の考えをナナシに告げた。
ナナシは時折相槌を打ちながら話を聞いていたが、最後まで聞き終えると、呆れたような声をあげた。
「そんな悩みを持つなど、十年早い」
ナナシは部屋の中をクルクルと飛び回りながら、
「旅が終わった後、お前がどうしているか? そんなことは知らん。悩んだところでどうにもなるまい」
「……いや、まぁ、そう思えたら一番楽なんだけど」
「ふん。だからお前はアホなのだ」
小馬鹿にするように、ナナシは秋人の頭上でクルクルと回ってみせた。
「夢の終わりはお前の終わりではない。――――その先があるだろう」
「……」
「つまらない現実の中で生き足掻く者もいる。再び夢を見始める者もいる。不安に思うことはない。やれることは、いくらでもある」
ナナシの言葉は、非常にさっぱりとしていた。
それはどことなく、もういない誰かの口調に似ていた。
「お前が終わりを迎えるまで、夢の残滓はお前の中に在り続ける。だからお前は、今を必死に進み続けろ。そうすればきっと――――夢はより強い輝きを持ったままお前の中で生き続ける」
秋人はただ、静かにその声を聞いていた。
まるで、教師の授業を真面目に聞く生徒のように。
その顔には、懐かしむような微笑が浮かんでいた。
翌朝。
早速秋人たちは、この家を出ることにした。
「いいんですか、秋人さん。もう少しゆっくりしていったほうが……」
「いや。あまり長居すると時間が勿体ない。ここにはまた、二年後ぐらいに戻ってくることにするよ」
「…………分かりました」
夏名はゆっくりと、笑顔で頷く。
そして彼女は、家に向かって軽く頭を下げた。
「それでは、行ってきます」
かつて、彼女がいた場所。
かつて、彼がいた場所。
そこにはもう、誰もいない。
夢の終わりによって住民を得た家は。
新たな夢を持つ者を送り出し、無人となる。
秋人は一瞬、その家に言われたような気がした。
夏名の声に応えるように、いってらっしゃいと。
夏の木漏れ日に照らし出されながら。
秋人の旅路は、温かな再開を迎えた。
それは、無人の家が建てられた頃のこと。
家の中でくつろぐ女性の側に、一冊の本が浮かび上がった。
「……これでいいのか、お前は」
「なんだ、突然」
「いや。……旅に、未練はないのかと思ってな」
ナナシの言葉に、女性はのんびりとした声で返答した。
「さあ……よく分からないな。ただ、旅を終わらせたことは後悔してないよ」
「そうか」
どこか気落ちしたような声のナナシ。
女性はそれに気付き、彼に苦笑を向けた。
「なんだ、そういうナナシこそ旅に未練があるんじゃないか?」
「別に、そんなことはない」
「次のマスターが旅好きな奴だといいな」
「いや、人の話聞けよお前」
微かな光が窓から差し込む、温かな部屋。
そこで椅子に腰掛ける女性に、ナナシは問いかけた。
「……しかし、なぜだ。旅はお前の夢だったのだろう。なぜ、止めてしまった?」
「探してたものが、皆見つかってしまったからだよ」
女性は穏やかな声で答えた。
この部屋の暖かさに、若干まどろんでいるように見える。
「私は、どうしても知りたいこと。見つけたいことがあって旅を始めた。それは旅をすればする程増えていった。……だけど、ある日を境に、少しずつ減り始めた。そして最後には零になった。そのとき、私は漠然と思ったよ。もう、これで終わりなのだ、とね」
時計の針が動く音が聞こえる。
外からは鳥の鳴き声も聞こえてきた。
夢の終わりに辿り着いた場所。
ここが、彼女の旅の終着点なのだ。
これまで辿ってきた道を振り返ると、この終着点は彼女に相応しいと言えるのかどうか。
それはきっと、誰にも分からないだろう。
「……望みを全て果たした、ということは、今のお前は何も望みを持っていない、ということか」
「そういうことになるな」
目を閉じて安らかな表情を浮かべる彼女。
ナナシも長年彼女に付き合ってきたが、こんな表情はこれまでに見たことがなかった。
「……それでお前は今、幸せなのか?」
望みは何もないはずなのに。
そんなつまらない日々の中で、彼女はなぜこうも安らかな表情を浮かべることが出来るのか。
それがナナシには分からなかった。
「さあて。……そいつは、私にも分からないな」
彼女自身にも、分からないらしい。
ナナシの問いかけに、彼女はゆっくりと頭を振った。
そして、こう続けた。
「でも――――これからどうするかを考えるのは、なかなか面白いよ」
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