六章 一日の終わりに

 ホームルームを終えた教室は茜色に染まっている。普段ならあわただしく部活へぎだしていく生徒たちも、ふと足をとめ景色に魅入みいっているようだった。うっとりと感嘆を吐き出せば、ようやく我に返って、どたどたと廊下を駆けていく。


 薫と嶺亜も、それぞれ部活へ向かうらしかった。薫は文芸部、嶺亜は女子バスケットボール部に所属していて、別々の方向へ去っていった。


 教室に残った生徒は、だからそう多くはない。まだ夕焼けに魅入る者もいるが、部に属さない者は、早々に教室をでて校門をくぐっている。


 意外なことに、茜音は哀愁あいしゅうにじむ空に魅入った生徒の一人だった。

 頬杖をつき、燃ゆる茜に見惚れてひとみをらしていた。普段のお転婆な雰囲気などどこにもなく、まるで彼女自身が切ない天空の象徴めいていた。


死神グリム・リーパー〉はそのかたわらに立って、これが本当にあの九条茜音かといぶかしんだ。


 今の彼女になら、たしかに〈黒犬ブラック・ドッグ〉が宿っていてもおかしくはないかもしれない。静謐で索漠さくばくとしたものが、彼女の周りをオーラのように取り巻いている。


「……九条さん」


 呼びかけに、茜音は驚いた様子もみせない。

 こちらを一瞥して微笑み「キレイだね」とつぶやいた。


「……うん」


虚無エンプティ〉に、そんな情感は理解できなかった。

 またぞろ胸の奥に湿った風が吹いた。


 気持ち悪い。


 その質感は、やはり複雑ふくざつだった。

 暗闇のなかで不意に壁を探り当てたような。頼もしくも、不明を恐れてしまうような――。


 その正体を探り当てる間もなく、


「帰ろっか」

「あ、うん」


 おもむろに茜音が立ちあがる。重力を感じさせない、不可思議な仕種しぐさで。

 今日の彼女は、どうも様子がおかしい。対峙した〈死神グリム・リーパー〉自身も、まるで自分が自分以外の何者かへと変貌へんぼうを遂げてしまったような気がしてならない。


「……」


 二人はろくな会話も交わさず、気付けば校舎の外にいた。体育館やグラウンドのほうから運動部のかけ声が聞こえてくる。

 空はまだ赤々と燃え黄昏たそがれというには早い。一方で、一日の終わりが近づいていることを人々に伝えかすように鮮烈せんれつだった。

 少し前を歩く茜音が、思い出したように〈死神グリム・リーパー〉をふり返る。


「今日はなにも予定ないの?」

「うん。基本いつも暇だから」

「そうなんだ。じゃあさ、どっか寄ってかない?」


 後ろで手を組んで前のめりに距離をつめてくる茜音。彼女の背後に赫々かくかくと夕日が映え、色という色をはかなく滲ませた。


「いいよ。どこ行く?」

「ファミレスでも行こうよ。あたしソコスのチョコミントケーキ好きなんだー」


 ようやく調子が戻ってきたらしく、茜音はその場でくるりと回ると、口角をあげニッと笑った。


「チョコミント好きなんだ。めずらしいね」

「ええ? 珍しいのかな。あ、もしかして、チョコミントのこと歯磨き粉みたいって思ってないよね?」

「ちょっと思ってる」


 茜音は露骨ろこつに顔をしかめた。


「うわぁ……。今、全チョコミント派を敵に回したからね。マジ許されない発言だったからねっ?」


 むすっと正面へ向きなおった茜音は、どうやら本当に機嫌をそこねたらしい。速足になって、ぐんと距離をひきはなされた。

死神グリム・リーパー〉はとっさに足を速める。

 となりに並び立ち、大仰おおぎょうに「ごめん!」と詫びた。自然に声が震えていた。


「ホントにごめん!」


 と繰り返せば、茜音はこちらを流し見た。


「じゃあ、今日は永田くんのオゴりね」


死神グリム・リーパー〉はあわてた素振りで財布の中身を確認した。大した額は入っていないが問題なかった。どのみち生活費以外に使い道などなかった。


「……わかった。おごるよ」

「おっ、ラッキー」


 現金なもので、茜音はすっかり機嫌をなおしたようだ。ニカリと笑って、またくるりと回ってみせた。


 それからは他愛たあいのない会話が続いた。とりとめがなく、中身のない話ばかりだった。そんなやり取りの何が面白いのか、茜音は、時折ケラケラ笑い〈死神グリム・リーパー〉の腕をたたいたりした。


 そうこうしているうちに、ファミレスソコスへ辿り着く。

 店内の客はまばらで、はちの巣のように席が空いていた。蜂の子きゃくはほとんどが学生で、中には早瀬川高校の制服も見られた。タイやリボンの色を見るかぎり、同級生の姿はないようだ。


 二人は店員に案内されるまま、窓際の席に向かい合ってすわった。

 水が運ばれてくると、茜音は「ありがとうございます!」と礼を言って、酒でもあおるように一口で飲みほした。店員は苦笑をこらえきれず「ご注文がお決まりになりましたら――」と、マニュアル通りの応対でっていった。


「永田くん、なに頼む?」

「ドリンクバーだけでいいかなぁ」

「えー、せっかくだし何か食べないの?」

「奢らなくちゃいけないから」

「あー……財布ペコペコ男子だったのね。なら、いいよ。無理しないで。自分で払うから」

「いやいや、奢るって。大丈夫」

「おっ、男らしいねぇ。じゃあ、特別に! チョコミントけてあげようかなぁ」


 べつに欲しくもなかったが、小腹は空いていた。どうせ自分の財布から金がでるのだから、分けてもらってもばちは当たらないだろうと頷いた。


「ありがとう」

「いやぁ、お礼言うのはこっちのほうなんだけどね」


 苦笑気味に肩をすくませると、茜音はまたくだらない話をはじめた。二人でサーバーの前に立ち、ドリンクをえらぶ間も、その口調にはよどみがなかった。さすがに出尽くしたろうと思われた話題が、彼女の口からはいずみのごとく湧いてくる。


死神グリム・リーパー〉は適当な相槌あいづちを打ちながら、九条茜音はなぜ、今日この場所で自分と過ごすことを選んだのだろうかと考えた。そこに〈自我エゴ〉の性質を知るための手がかりを探した。


 答えはすぐにみちびきだせた。

 彼女の性格からして、ノートを貸して欲しいとか、より殊勝しゅしょうに考えても勉強を教えて欲しいとか、そういったたぐいのことだろうと思われた。


 だが、どうも様子がおかしかった。


 いざチョコミントケーキがやって来ると、それまで沈黙を恐れるようだった言葉の波が、ふいに途切とぎれた。これを食べたいと言っていたにもかかわらず、彼女は「やった!」とも「待ってました!」とも快哉かいさいをあげない。


 挙句の果てには、フォークで三角の先端をきると、力尽きてしまったように静止してしまう。


死神グリム・リーパー〉は、ある種の予感をぎとった。なんの予感なのかは解らなかった。ただ人間らしく振る舞うために「……どうしたの?」と声をかける必要を感じた。


「……」


 にもかかわらず、〈死神グリム・リーパー〉は沈黙を守った。そのわけを自問する前に、茜音のほうが口を開いた。


「……今日ね、おとうさんが来るんだ」


 奇妙なニュアンスに〈死神グリム・リーパー〉の自問はうち消された。


「お父さんが来る?」


 訊ねると、茜音が逡巡しゅんじゅんしたようにうなずく。おもむろに目をせると言った。


「実はさ、あたしの本当のお父さんってね、もういないの。あたしが三つか四つくらいの頃に事故で死んじゃったんだって。だから、ずっとお母さんと二人でらしてきたんだよね」


 いざ話しだせば茜音は、中途でつかえることもなく冷静に話した。

死神グリム・リーパー〉は、彼女の発言になにも感じなかった。事前の身辺調査で、彼女に父親がいないことは承知している。彼女が生活的にゆたかでないこと、それゆえに「帰宅部」としょうしてアルバイトに精を出していることも。


 クラスメイトがだまっていると、茜音はそれを優しさと受け取ったのか。

 たっぷりと濡らした絵筆で縁取ったような繊細せんさいな微笑を浮かべた。


「ごめん、急に。ヘンなこと言っちゃって」

「ううん。変じゃないよ。それで?」

「話していいの? きっと長くなるよ」

「大丈夫。俺も帰宅部だから」


 クラスメイトの言葉に、茜音は心底ほっとした表情をみせた。


「ありがと……。それじゃ、もうしばらく付き合ってくれる?」

「もちろん」


 少年はごくごく自然に頷いた。

 教えられた所作ではなかった。演じられた仕種ではなかった。

 身体がそうすることを知っていたような〈死神グリム・リーパー〉でも、永田裕司でもない、もっと別の誰かの――。


死神グリム・リーパー〉は、そこにさほど違和を感じなかった。煙草でむせる〈紫煙スモーカー〉の姿が脳裏をぎった。これはきっと、自分が人間であった頃の残滓ざんしのようなものだろうと考えた。


 深呼吸をくり返す茜音に目をやり、彼はまた頷いた。

 すると茜音は微笑んで、続きをかたりはじめた。


「えっとね、聞いて欲しいのは、あたしとあたしのお母さんの話なの。親子の関係がうまくいってないとか、そういうんじゃないよ? お母さんのことは大好き。とっても優しい最高のお母さん。小さい頃からずっとそうなの。お父さんが死んだ頃のことって、あんまり覚えてないんだけど、お母さんが笑顔で接してくれてたことは覚えてるくらい。きっとつらかったはずなのに、悲しむよりあたしへの愛情を優先してくれてた」


 語り進めるうち、茜音の焦点は〈死神グリム・リーパー〉から離れていく。未だ口のついていないフォークの、その先端のにぶい輝きに、とうとい時の流れを見ているようだった。


「なんていうかね、自分以外の事に一生懸命な人なの。だからあたし、小さい頃から、そのおもいに応えなきゃって思ってた。元気でいなきゃって。辛い顔みせたらお母さんの努力、無駄にしちゃうってさ。でも中学生の頃、クラスの子にからかわれて嫌な思いしたんだ。それでも、お母さんの前では辛い顔できなくて、苦しい時期だった。たぶんお母さんも、無理してること気付いてたと思うけど、どっちもお互い態度たいどには出さなくて。そういう親子なんだよね。あっ、今はカオちゃんとレーちゃんがいて、永田くんとも仲良くできて幸せだよ」


 そこで茜音はいったん言葉を切った。つとこちらを見つめ、意味不明のはにかみを寄越よこした。〈死神グリム・リーパー〉はその意図を受けとめかねて「ありがとう」とだけ言った。

 茜音はその整った口端くちはに、あわい微笑の色をいた。


「それでね、綺麗事みたいだけど、あたしってみんなに幸せでいて欲しいんだ。あたしがバカやってるみたいに、みんながケラケラ笑ってたら嬉しいの。お母さんにも、そうあって欲しい。あたしの事ばっかじゃなくて、もっと自由気ままに笑って欲しい。でも、最近お母さんに恋人ができてね。躊躇ためらいがちだったけど、笑って、教えてくれて、あたし嬉しくて泣いた……」


 茜音は今まさによろこびを噛みしめるかのように、まなじりをきらめかせた。それを人差し指でかるくぬぐって「ごめん」という彼女を〈死神グリム・リーパー〉は無感情に分析しようとした。


 けれど意味がわからなかった。

死神グリム・リーパー〉は自分にほとほと呆れたように首を振る。

 湿った風が胸をおかしていた。


「それでね、お母さんの恋人が、ときどき家へ遊びに来るようになったの。普通のサラリーマンで、とっても優しい人。文句の付け所がないほどイイ人。お母さん、素敵な人見つけたなって嬉しくなった。だけど……」


 窓外からす赤が、ふいに翳りをびた。黄昏が藍色をともなって、一日の終わりを連れてくる。

 茜音の表情も、呼応するように翳を落とした。徐々に強張ってゆく肩のうえ、ざわざわと闇が身悶みもだえたように錯覚した。


「お母さんから再婚しようかと思ってるって言われたとき、何でか急に怖くなったの。あの人がお母さんに相応ふさわしくないなんて思わない。むしろ、これ以上ない相手。でもね、怖いんだ。ずっとお父さんがいなかった所為せいなのか、それとも大好きなお母さんをられちゃうって思うのか。分かんないけど……。あたし、自分がすごくイヤになった……」


 普段の彼女からは想像できない低くかすかな声音が、空気をふるわせた。微笑みや翳りの予兆なく、ふいにその相貌そうぼうが歪んで、涙のしずくが頬をつたった。

 それを目の当たりにした瞬間、


「あっ……」


死神グリム・リーパー〉は声をもらしていた。

 それは彼女に対する憐憫れんびんでも、驚きでもなかった。

 ふとして胸中にわいたあわが弾けたように声がでた。


 続く言葉など知らなかった。それが必要かどうかも判じかねていた。

 沈黙はもどかしかった。

 では、何と声をかけるのが正しいのか?


虚無エンプティ〉らしさのない焦燥しょうそうは、〈死神グリム・リーパー〉に、ある種懐なつかしい感覚を想起させた。

 それは茫漠ぼうばくたる心のなかに、かつてんでいたモノへの恐怖だ。遠いとおい決して手の届かない暗黒の底から遠吠えを聞く危機感だ。


 茜音が嗚咽おえつを押しとどめるまでの間に、〈死神グリム・リーパー〉は、たたび沈黙をやぶることができなかった。

 涙のあとを残し、痛々しくも無垢むくに笑う少女を前に、


「……ごめん。その人がね、明日うちに来るの。その人の口から、お母さんと結婚させてってお願いに来るの。そんな最高の瞬間がある、はずなんだけど……受けとめきれなくて。自分だけじゃ整理できなくて。せめて話だけでもって、永田くんを――」


死神グリム・リーパー〉は耳を失った。

 彼女の言葉が、中途で剥がれ落ちていった。


 そこにからだ。


 彼女のそうけんにおりた髪。

 そこから滲みだすように、蠢動しゅんどうする闇が。


 先の感覚は、決して錯覚などではなかった。

 それは形と質量を有する、心の闇だ。


 だ。

 

 窓外そうがいから忍びよる夜のごとく。

 きざした闇は、茜音の悲痛にゆがんだ顔の隣に、己の頭を形作った。

 無数の牙が蠢き、えさを嗅ぎつける鼻が上下し、底のない双眸が〈死神グリム・リーパー〉を見た。


「……!」


 見紛みまがおうにも見紛えぬ姿だった。

 闇によって命を与えられただ。


死神グリム・リーパー〉は、とっさに黒い粒子ダークマタの気配を波打たせた。


 しかし茜音からすがるような眼差しを向けられた彼は、刹那、殺意を忘却ぼうきゃくする。


 犬をかたどった闇の頭部は、化け物にあるまじき情動じょうどうを嗅ぎとったのかもしれない。

 あざけるように牙を剥きだすと、殺意をあらわにすることなく、外界の夜と融けるように霧散むさんしていった。


「……永田くん?」


 胸の早鐘はやがねを叩くように、声がかかった。

 ただならぬ動揺を、赤く泣きらした目が見つめていた。

死神グリム・リーパー〉はつと我に返り、動揺を隠そうともしないまま目を伏せた。


「ごめん、驚いたんだ。九条さんが、そんなに苦しんでるなんて知らなくて……」


 このに及んで白々しらじらしい同情を吐ける自分が、いっそ誇らしかった。そう感じられるほどに、死神グリム・リーパー〉は我を失っていた。


 九条茜音の悲しみを見るたびに、彼は自分自身が何者か判らなくなった。

 そして垣間見た〈黒犬ブラック・ドッグ〉の姿を、その対処を判じかねる自分を、胸中で糾弾きゅうだんせずにはおれなかった。


「……優しいね。永田くんを選んで正解だった」


 茜音の涙は、いつの間にかその傷痕しか見出せなくなっていた。〈黒犬ブラック・ドッグ〉が姿を消したように、彼女の相貌そうぼうにもどこか普段の明るさの兆しが見てとれるようだった。

 痛々しくも端正な横顔が、ふと窓外の景色にひき寄せられる。


「もうすぐお母さん帰ってくる」

「大丈夫?」


 そう訊ねるのが、今の彼にできる精一杯だった。まるでそれ以外の言葉を知らない子どもになってしまったようだった。

 けれど茜音は、そんな何の価値があるとも思われない一言に、柔和な微笑を返すのだった。


「分かんない。でも、話してみてちょっと楽になった。あたしってやっぱきたないって思ったけど……そういう気持ちとも付き合っていくしかないのかなって。話してて思った」

「そっか。俺、なにもできなかったけど……話聞くくらいならいつでもできるから」

「帰宅部だもんね?」

「うん」


 そのやり取りを〈死神グリム・リーパー〉は作業のようにこなした。

 この肉体のなかに、別の人格が迷い込んだような感情の波は、もうどこにもないと自覚できた。


 小首をかしげ笑う茜音の姿に、何も感じるものはなかった。

 義務的に支払いをませ、彼女を家の近くまで送り届けて。


 それでも何も感じなかった。

 その小さい、あまりにも小さい背中が、いっそう小さくなることにも。

 心細く振り返った彼女の視線が、まっすぐにこの身をつらぬいたときにも。

 宿舎へ帰り、ひとりパソコンへ向きあったときにも。


 何も感じなかったはずだった。


 監視任務の引継ぎをすませ、日報の作成にとりかかり。

 己を持たぬ〈虚無エンプティ〉は、変わらぬ一日を終える。

 九条茜音というイレギュラー――〈自我エゴ〉だけが、影なる組織の思惑おもわくによって、その人生を一変させられる。


 それが正しい運命の結末けつまつだ。


 ところがこの日、〈死神グリム・リーパー〉によって提出された日報に。

黒犬ブラック・ドッグ〉出現に関する報告は、いっさい記載きさいされなかった。

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