間章 〈死神〉に関してⅠ

黒犬ブラック・ドッグ〉に心を喰われたものは、廃人と化す。

虚無エンプティ〉のように、実直に命令を遂行する人形としてさえ運用できない、無価値の存在。


 それが〈ノートゥ〉だ。


 白犬ホワイト・ドッグは、この憐れな人々を「〈黒犬ブラック・ドッグ〉の生態解明」を口実に利用し、非人道的な人体実験を行っていた。中には〈黒犬ブラック・ドッグ〉と関連がない臨床研究も含まれている。〈虚無エンプティ〉が組織の道具なら、〈ノートゥ〉とは組織のモルモットである。


 表向きは製薬企業として運営されているかざはら製薬が、その舞台だ。組織内における通称を奈落の底タルタロスという。


「ろくなとこじゃないよなぁ」


 そのとある一室で、〈虚無エンプティ〉の観察記録をデータ入力しながら御堂筋みどうすじとうはこぼした。

 次の面談対象のファイルを運んできた補佐官がいぶかしげに首を傾げるのに、東吾は愛想笑いを返した。

 返ってくるのは見慣れた苦笑だ。

「庶務課」と揶揄やゆされる〈虚無エンプティ〉面談官に、自ら立候補した変態のことを気味悪がっての反応だとはすぐに判った。


 まあ、普通じゃないよな。


虚無エンプティ〉のメンタルケアと称しながら、その実は、彼らが本当に心をもたない抜け殻かどうかを観察するのが面談官の役割だ。不審な点があれば本部に報告し、抹消まっしょうを促す。


 だが「不審な点」など、まず見出されることはない。〈虚無エンプティ〉とは、すべからくそのような存在だからだ。


 ひたすら面談をくり返し、経過観察する日々ばかりが続く。

 それはある意味、懊悩おうのうする人間を相手どるより難儀なんぎな仕事だ。

 彼らに対するコミュニケーションは、暖簾のれんに腕押しをするのと変わらない。


 ゆえに面談官の中には「壁と話しているようだ……」と精神を病み、辞表を提出する者が多いらしい。そこまで重症化せずとも、異動願はしょっちゅう出されていて、わざわざ立候補するやからなど都市伝説にも等しかった。

 つまり東吾は、はたから見れば〈虚無エンプティ〉と大差ない異端なのだ。


「はぁ……仕事仕事」


 東吾は気持ちを切り替え、運ばれてきたファイルにざっと目を通した。添付された顔写真は、すっかり目に焼きついたものだった。


死神グリム・リーパー〉。


 七年前に覚醒した少年だった。

 戦いを強いられる〈虚無エンプティ〉の中で、七年も生きていられる者は、比較的まれだ。それだけ東吾のもとに訪れる回数も増えるわけで、印象的な存在として記憶に残っている。


 補佐官がふたたび東吾の許を訪れると、彼は「来ました」とだけ言って、そそくさと奥の部屋へもどりドアを閉めた。

 何が来たのかは言われずとも分かる。

 東吾は執務席をたち、面談席に腰かけると〈死神グリム・リーパー〉と書かれたノートをひらいた。


「どうぞ」


 入室を促せば、ノックの一つもなくドアが開かれた。


「……」


 無言のまま姿を現したのは、黒ずくめの少年だ。フルフェイスメットまでは装備していないものの、ロングコートに黒手袋、黒ブーツというである。


「やあ、相賀おうがくん。座って」


 東吾は臆することなく、むしろ微笑みながら〈死神グリム・リーパー〉を促した。

虚無エンプティ〉は促された通りに、腰を下ろした。もちろん、愛想笑いのひとつも返ってこなかった。


「うん、リラックスしてね。いつも危険なところにいるから疲れるだろう?」

「多少は。しかし充分に休息をとっているので問題ありません」


 機械的な答えだ。

 如何にも〈虚無エンプティ〉らしい。


 異常なし。

 と言いたいところだが、少年の目の下に滲んだくまが気になった。


「そうかぁ。何か変わったことはあった?」


 しかし東吾は、あえてその点に触れなかった。

 よくよく観察していれば解ることだが、〈虚無エンプティ〉にも感情というものはある。

 常人と比較すれば非常に希薄きはくなのは確かだが、彼らとて焦ったり苛立ったりするのだ。直截ちょくさいな問いは、不要なストレスを与えかねなかった。

 会話は自然に穏やかに、だ。〈虚無エンプティ〉に限らず、それが良好な関係を築いていくための土台となる。


「新しい任務が始まりました」

「新しい任務かぁ。珍しいね。狩りとは別の仕事ってことかな?」

「はい」

「へぇ。普段とは違う仕事を任されるとなると大変だろうね」

「……ええ」


 東吾は同調するように頷きながら、微妙な間があったことに注目した。

 そんな些細なことが、〈虚無エンプティ〉にとっては珍しいことなのだ。

 よほど大変な仕事なのかもしれない。


「最初は解らないことばかりだものねぇ。人間関係にしても。あの人、何考えてるんだろとかさ」


 その時、茫洋ぼうようとした〈死神グリム・リーパー〉の視線が、ふとこちらに焦点しょうてんを合わせたような気がした。

 東吾は笑いかけ、驚愕を隠した。


 反応した……。いまの話題に興味をもったか?


 何に対しても〈虚無エンプティ〉が興味をもつのは特異なことである。その呼び名が示すとおり、彼らの精神構造は無関心で無感動だ。


 にもかかわらず興味を示したということは、それに相当するだけの刺激を受けたと考えるのが自然だろう。ここは思い切って踏みこみ、答えを引き出すべきと東吾は判断した。


「もしかして相賀くん、新しい任務で気になる人がいる?」


 多少語弊ごへいのある言い方だが、誤解を招くことはないだろう。

 それよりも、反応に注視すべきだ。

 身動みじろぎひとつさえ、彼の心に生じた変化の大きな手がかりだ。


「……」


 しかし〈死神グリム・リーパー〉からの答えは沈黙だった。

 瞬き、鼻の膨らみ、唇のひきつり――些細な反応にも目を凝らしてみたが、変化なしだった。肯定も否定もしないのは、おそらく話題に対する興味自体が失われたためだろう。


 東吾は落胆した。

 彼にとって〈虚無エンプティ〉は興味の対象だ。白犬ホワイト・ドッグの意向などどうでもよく、異常があれば、むしろ嬉々として報告をもみ消すつもりでいる。〈虚無エンプティ〉を研究し、彼らの心を掘り出すのが生きがいだった。


 東吾から言わせれば、〈虚無エンプティ〉とはなのだ。希薄でも確かに心をもっている。それは実に人間的な素質だ。希望を失っているように見えても、実際は、彼らにしか見えない世界が広がっているに違いない。その意識の一端だけでも覗き見るために、東吾は面談官となることを選んだ。


 だがそれは、しょせん稚気じみた夢なのかもしれない。

 ノートに『反応なし』としたためようとした東吾は、


「……っ」


 しかし、とっさに手をとめた。

死神グリム・リーパー〉が、こくりと頷いたからだった。

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