四章 イレギュラー

「ごめん、ちょっと電話」


死神グリム・リーパー〉はスマホを振ってみせた。


「お、彼女かな?」


 茜音あかねはニタニタと笑いながら、こちらの顔をのぞきこんできた。


「そんなんじゃないよ」

「じゃあ、ママか?」


 と嶺亜れあ

 くだらない冗談に付き合っている時間はなかった。〈死神グリム・リーパー〉は苦笑で受けながし席をたつ。


「ヒューッ、まざこーん!」


 からかいの声を背後に、トイレの個室へ駆けこんだ。すぐさま〈紫煙スモーカー〉と通信する。


「こちら〈死神グリム・リーパー〉。状況は?」

『こちら〈紫煙スモーカー〉。〈星光ティンクル〉より〈黒犬ブラック・ドッグ〉出現の報告をうけた。被害報告なし。クラス〈仔犬パピー〉。現在、ポイント五七八を南東方面へ直進中』

「五七八……」


死神グリム・リーパー〉は脳裏に周辺の地図を展開しながら呟いた。

 ここからはそう遠くない位置だった。しかもターゲットの進行方面には、ここはや瀬川せがわ高校がある。

黒犬ブラック・ドッグ〉が人口密度の高い学校を無視するとは考えづらかった。むしろ嬉々として狩りを始めるだろう。そして、多量の心を胃袋へおさめた〈仔犬パピー〉は、より強力で狡猾こうかつな〈猟犬ハウンド〉へ成長する恐れがあった。


『加えてターゲットの動きが変則的だ。〈拳闘士グラップラー〉が追跡中だが、見向きもせん。通行人にも同様だ』

「たしかに妙だな」


黒犬ブラック・ドッグ〉は敵意を向けられれば牙を剥き、心ある者に対しては容赦ようしゃなく襲いかかる。自己防衛を優先して通行人を見逃すことはあっても、あからさまな敵意を向けられて、それを無視するのは尋常じんじょうではない。


「ただちに戦闘準備に入る」

『ああ、〈拳闘士グラップラー〉との挟撃きょうげきが望ましい。情報統制には期待するな。〈帽子屋マッド・ハッター〉の到着には時間がかかるからな。できるだけ穏便おんびんに。フル装備で臨め』


死神グリム・リーパー〉は無言の首肯しゅこうをかえすと、すぐさま手のひらに黒い粒子ダークマタを溢れさせた。それは一度サラサラと指の隙間からこぼれ、時間を逆行するように手中へ戻る。

 襟首からも粒子が溢れだした。学生服を黒く濡らすように、足許までがおぼれていった。やがて手許だけに、人の頭部よりやや大きい流線型のシルエットが形成された。

 

死神グリム・リーパー〉が指を鳴らすと、すべての粒子は息絶えたように霧散した。


 その時、少年の総身を覆っているのは、学生服でなくロングコートだ。インナーもカーボンファイバースーツに置き換えられ、黒手袋がフルフェイスメットを支えている。大腿にはそれぞれ特殊警棒を収めたホルスターの膨らみがある。


死神グリム・リーパー〉の異能だ。

 黒い粒子ダークマタ内包ないほうしたものを転移させる。


 学生から狩人へと変身した少年は、個室をとびだし窓を開け放った。

 三階だ。それなりの高さがある。

 だが、それよりもグラウンドに通じているという点が気がかりだった。早くも昼食を終え、サッカーまがいの遊びにきょうじる生徒たちの姿がある。

 

 しかし〈黒犬ブラック・ドッグ〉が迫っているのだ。致し方あるまい。


死神グリム・リーパー〉は窓枠に手をかけ、一抹の逡巡しゅんじゅんを捨て跳んだ。


 地面が降ってきた。

 接触の瞬間は三と数える間もなかった。

 が、それに臆して判断を誤る〈虚無エンプティ〉ではない。

 彼は着地の瞬間、完璧なタイミングで前転。そのままクラウチングスタートの要領ようりょうで駆けだした。


「わっ! なんだあいつ!」


 案の定、上階から降って湧いた黒い人影をまえに、生徒たちが騒然とする。


『ターゲット、ポイント五二二を通過』


 一方、〈紫煙スモーカー〉の声は冷静沈着そのものだ。


「……」


 五二二か。

 もうかなり近くまで来ている。


 緑のネットを張り巡らせたグラウンドの外。

 安穏あんのんと佇む住宅街には〈紫煙スモーカー〉の能力で拡散された煙のたゆたいが見てとれた。


死神グリム・リーパー〉はネットの前に立つと、自分の背中で手許をかくし、粒子の鎌を形成して切り裂いた。

 スマホのシャッター音やざわめきを背後に、〈死神グリム・リーパー〉はいっそう紫煙の濃さ増す住宅街へとおどり出る。


 小径こみちへ進入すると、角を曲がって住宅のかげに滑りこんだ。

 あたりに人目がないのを見てとり、袖口からワイヤーフックを射出。巻き取り機構で住宅の屋根へ飛びうつる。


 そして見た。


 紫煙の霧たちこめる遠方えんぽうの景色に。

 つらなる屋根の地平線に、せる闇。

黒犬ブラック・ドッグ〉を。


死神グリム・リーパー〉は警棒を抜き、長さを倍に。手中で回転、風を切り、先端に粒子を凝集ぎょうしゅうさせる。

 闇夜を裂く三日月とは対照的な、蒼穹そうきゅうを裂く三日月。

 コードネームの由来となった大鎌を肩に〈死神グリム・リーパー〉は地を蹴っる。

 黒い陽炎かげろうじみた異形へと。


「グゥルアァァ!」


 異形もまた人型の化け物へと迫る。

 瓦屋根がくだけ加速した。破片が飛散。太陽光パネルが獣の足型にゆがんだ。


 引かれ合う黒と黒!


「……」


 接触の瞬間。

黒犬ブラック・ドッグ〉の振りかぶった前肢まえあしが、円弧をえがく大鎌と火花を散らした。


 息つく間もなく二撃目の爪撃そうげき

 鎌の位置はそのままに、〈死神グリム・リーパー〉はあえて踏みこみ背後へ受け流す。

 大鎌から異形の重みが伝わり、体勢が後ろへ傾ぐ。

 致命的な隙が生じた。


 だが、これでいい。


 頭上の〈黒犬ブラック・ドッグ〉を見上げたとき、は現れた。

 太陽を負い、肉薄する漆黒の偉丈夫が。


「ヌアッ!」


 両拳を覆った黒い粒子ダークマタのグローブが風にうなった。

拳闘士グラップラー〉の拳が、粒子の体躯を螺旋にえぐる!


「ゲギャ……ッ!」


黒犬ブラック・ドッグ〉が真横に吹っ飛んだ。血のように粒子が飛散した。

 ところが屋根を転がった〈黒犬ブラック・ドッグ〉は、爪を突き立て体勢復帰するやいなや、〈虚無エンプティ〉たちには目もくれず駆けだした。


「……あの調子だァ」


 傍らに着地した〈拳闘士グラップラー〉が荒々しい息を吐いて捨てた。

死神グリム・リーパー〉は浅くうなずくと、鎌を警棒に戻しホルスターへ収めた。


「乗せてくれ。

「了解したァ」


 短いやり取りの後、〈死神グリム・リーパー〉は〈拳闘士グラップラー〉の大きな背中へとび乗った。

 合図もなく〈拳闘士グラップラー〉は跳躍した。


 ゴウッ――!


 たちまちにして、臓腑ぞうふを背後に置き去るかのような浮遊感が押し寄せた。

 一瞬にして地上は遥か目下だ。

 瞬く間もなく、十メートル以上跳んでいた。


 異能の力だ。

 を踏むことで足許に斥力せきりょくを発生させる力。

 超常的な加速で肉薄にくはくし、その黒き拳で異形を穿うがつ。

 ゆえに彼は、〈拳闘士グラップラー〉の名で呼ばれていた。


「ぬァ……!」


 異能の力が、一度はひき離された彼我ひがの距離を埋めた。


「グルァ!」


 しかし落下軌道にはいり減速すれば、即座にひき離される――!


「次でいけるか?」

「……いけるゥ」


 にもかかわらず、二人の交わす言葉に諦めはなかった。

 屋根との接触の瞬間、〈拳闘士グラップラー〉がふたたび宙へ跳ねあがる。

死神グリム・リーパー〉は、偉丈夫の肩越しに意識を集中させた。

 蒼天そうてんへ吸い寄せられる視野に粒子が生じた。


 形作られる人型。

 間もなく〈拳闘士グラップラー〉がそれを通過する。


 霧散――。


 したかに見えたそれはしかし、〈拳闘士グラップラー〉の足許で瞬時に人型へとみ直された。


「……!」


 次の瞬間、背中の〈死神グリム・リーパー〉が

 器を割られた液体のように。


 そして一度は霧散した人型が、突如、ロングコートをはためかせる!

 粒子の肌が剥落はくらくし、漆黒の体躯たいくが息を吹き返した。

 その両拳が〈拳闘士グラップラー〉の足裏へと突きだされる。


「……」


 そこにいるのが本物の〈死神グリム・リーパー〉。

 己自身を粒子に内包し、瞬転しゅんてんした実体だった。


 拳と足裏が接触する。

 を踏んだ〈拳闘士グラップラー〉は弾かれたように加速した。


 黒き彗星すいせいのごとくに。

 燃えたつ〈黒犬ブラック・ドッグ〉の背を目がけて!


「ギャアアァァッグ!」


 衝撃インパクト

 異形の横腹がくの字に折れ、瓦を砕き転がった。

 擦過した後肢うしろあしが爆ぜ、影の肉は瓦礫に埋もれた。おびただしく飛散した粒子が、一帯を黒く染め上げた。


『まだだ。反応あり』


 すぐさま〈紫煙スモーカー〉からのサポート。

 前転で落下衝撃を殺した〈死神グリム・リーパー〉は、己の足で駆けだす。能力は連続して発動するのは不可能だ。再動まで三秒は必要になる。


 その間にも〈拳闘士グラップラー〉はたたみかける。

 むき出しの屋根をみ、加速。空隙くうげきを穿ち、腰でためた拳が螺旋らせんをえがく。


「ガア……ッ!」


黒犬ブラック・ドッグ〉は転がり、寸毫すんごうの差で拳を躱した。余波が粒子の体毛を散らすも致命傷にはほど遠い。


 やはり〈虚無エンプティ〉には目もくれない。姿勢をたて直すと、三本足とは思えぬ力で初速を打った。


 もはやグラウンドのネットは目前だった。

 学校を戦場とするのは避けられない。


『……統制部隊の手配は済ませた。早急さっきゅうに撃破しろ』


紫煙スモーカー〉からの指示。言われるまでもなかった。

 屋根のふちを蹴り、跳躍した〈黒犬ブラック・ドッグ〉を〈拳闘士グラップラー〉が押さえ込んだ。

 両者は蛇のごとく絡み合った。拳と爪牙の応酬おうしゅうに血と粒子がまき散らされ落下した。


死神グリム・リーパー〉も駆けつけた。

 警棒を鎌へ。屋根を蹴ってとぶ。勢いそのままに得物えものを叩きつける!


「ガアアァァッグ……ッ!」


 直前で〈拳闘士グラップラー〉の拘束を脱するも、〈黒犬ブラック・ドッグ〉は前肢まえあしを斬りとばされた。それでもなお立ちあがり、斜めにバランスをとって地を蹴った。

 グラウンドのネットに、異形の牙が穴を穿った。


「……」


 突如、現れた怪物を前に、生徒たちが水を打ったように沈黙した。

 不審者さわぎに駆けつけた教師が、慄然りつぜんと目を剥いた。

 サッカーボールが、ひとりでに転がる。

 それを異形の爪が踏み潰した。


 瞬間、


「うわああああああぁぁぁああぁあぁッ!」


 せきを切ったように悲鳴がこだまする!

 生徒たちが、教師が、蜘蛛の子を散らしたように方々へ駆けだす!


 校舎の窓に野次馬が押しよせ、


「きゃぁああああああぁぁぁぁああああッ!」


 悲鳴が恐怖の坩堝と轟きわたる!


「くそっ」


 加速を試みる〈拳闘士グラップラー〉の直線状に生徒が割りこんだ。一拍の遅れが生じる。

 一方、〈死神グリム・リーパー〉のもとにも狂乱した生徒が意味不明の悲鳴をあげ、縋りついてきた。


黒犬ブラック・ドッグ〉はグラウンドを横切り、校舎の壁をよじ登りはじめる。


 悲鳴はいっそう険しさを増す。

黒犬ブラック・ドッグ〉の肢か、それとも悲鳴が共鳴したか。

 窓が爆ぜた。

 異形の体躯たいくは間もなく三階へ。屋上まではのぼらず、ようやく餌を見出したかのように、割れた窓へ首を突っ込んだ。


 その時〈拳闘士グラップラー〉が斜めに跳躍。拳をふり抜く。

 しかし尾にふり払われ、落下する。


 迎撃失敗と見るや〈死神グリム・リーパー〉は追撃した。

 得物を振りかぶり、投擲とうてきした!


「ゲギャッ……!」


 三日月の刃が背中に突き刺さり、宿主しゅくしゅの血をしぶかせた。

 それでもなお〈黒犬ブラック・ドッグ〉は力尽きなかった。

 前肢一本で自重をひきあげ、ついに校舎へと侵入を果たす。


 生徒たちはすでに逃走をはじめていた。

 しかし一斉いっせいに逃げだしパニックにおちいった生徒たちは、互いを押し合い、通路をふさいでいる。阿鼻叫喚が渦を巻いた。


黒犬ブラックドッグ〉からすれば、それは大量の餌だ。

 しかし獣の馳走は、有象無象ではなかった。


「……ぁ」


 狙いは、とある教室のすみにいた。

 身を寄せ合う、だ。

黒犬ブラック・ドッグ〉はその瑞々みずみずしい魂から、馥郁ふくいくたる香りを嗅ぎとっていた。


「ファァッグ……」


 酩酊するほど甘美な香りだ。

 ふらつく足で歩みよった異形は、恍惚こうこつの予感にあぎとをひらいた。


「……」


 首筋に黒々とした人影が降りたったのは、その時だった。

 粒子りゅうしの肌が散り、漆黒のロングコートがはためく。


 背中に刺さった警棒がひき抜かれ。

 血濡れの刃がぞわりと震えた。

 死の鎌は、たちまち円弧えんこの残像をえがいた。


「……カッ」


 ずるり、と異形の首がすべり落ちた。

 その断面には、骨のごとく赤いものがのぞいていた。


 血がしぶいた。

 異形の体躯を構成する粒子が一斉に霧散した。

 肩を抱き合った三人の少女の顔に、赤い斑点はんてんが付着した。


「……被害ゼロ。〈黒犬ブラック・ドッグ〉討滅に成功」

『ターゲットの消失を確認』


 すでに教室の中にまで紫煙がたなびいていた。

 黒いまたたきが明滅し、それも次第に眠りにくように、かすんでいこうとしている。


 ところが、その時、


「……!」


死神グリム・リーパー〉は視野の端、ディスプレイの隅に、黒く蠢動しゅんどうするものを捉えた。

 反射的に鎌をふり抜き、


「ひぃっ……!」


 少女たちの首を刈りとる寸前で動きを止めた。


『〈黒犬ブラック・ドッグ〉の反応を感知……いや、消失した?』


紫煙スモーカー〉と同じ当惑とうわくを、〈死神グリム・リーパー〉も感じずにはおれなかった。


 見た。たしかに見たのだ。

 視界の端に黒いものがうごめいたのを。


 しかし少女らへ向きなおってみると、そこには〈紫煙スモーカー〉の粒子の瞬きが見られるだけだった。


死神グリム・リーパー〉は震える少女たちを前に、しばし警戒を続けた。


 だがそれ以降、〈黒犬ブラック・ドッグ〉の反応が感知されることも、粒子が湧くこともなかった。

帽子屋マッド・ハッター〉が早瀬川高校へと姿を現したのは、空に俄かに茜がにじむ頃であった。



――



 その夜。


 白犬ホワイト・ドッグ宿舎へ戻った〈死神グリム・リーパー〉は、報告書の作成に余念がなかった。

ノートゥ〉被害こそ抑えられたものの、住宅の屋根、グラウンドのネット、校舎北西部は損壊、おまけに他支局へ遠征えんせい中だった〈帽子屋マッド・ハッター〉を呼び戻したこともふくめ、支局長だけでなく本部から直々に叱責をたまわる結果となった。


 ゆえに、これは報告書というよりも始末書に近い。

 今夜も徹夜を覚悟すべきだろう。


 感情が希薄な〈虚無エンプティ〉といえど、肉体は人間のそれと変わりなく、食物を摂取しなければえ、眠らなければ疲れはえないものだ。気が重いと言えるほどの情緒はないにせよ、反射的にかすれた吐息くらいは漏れてくる。


 とはいえ、白犬ホワイト・ドッグも〈虚無エンプティ〉の反省に期待するほど暇ではない。これはあくまで報告書であり、真心など皆無の形式的な反省文より、他に記述せねばならない事があった。


黒犬ブラック・ドッグ〉の変則的な行動についてだ。

 あれは〈虚無エンプティ〉も一般人も、まるきり相手にしなかった。ひたすらに早瀬川高校を目指していた。


 いや、より正確に言うならば。


 監視対象の三人――九条くじょう茜音あかね西園寺さいおんじかおるつきしろのいずれかに惹きつけられていた。


 問題は奴が、三人のうち誰を狙ったのか。

 あるいは三人を同時に狙ったのか。

 そして、〈紫煙スモーカー〉の感知した〈黒犬ブラック・ドッグ〉の反応と関係があるのかという点だ。


 簡潔かんけつに報告書をまとめつつ、〈死神グリム・リーパー〉はめたコーヒーをすすった。

 すると、机上に投げだされた通信端末が、バイブレーションの下手くそなダンスを踊った。

 ディスプレイに表示されたのは意外な名前だった。


「……こちら〈死神グリム・リーパー〉」

『うむ、相賀おうがだナ。こちら〈帽子屋マッド・ハッター〉』


 多忙ゆえ、滅多に通信など寄越よこしてこない相手だった。

 何故か〈死神グリム・リーパー〉を本名で呼ぶ稀有けうな〈虚無エンプティ〉でもある。


「何の用だ?」

『確認したいことがあって連絡した。問題ないかナ?』

「……」

『……ふむ。では、きたい。〈黒犬ブラック・ドッグ〉は最後に監視対象のいずれかを狙った。間違いないナ?』


 合流の際、情報は共有してある。


「間違いない」

『なら問題ない。その件について、事務局の連中に色々と調べさせてみた。すると、興味深いことが一つ解ってナ』

「……」


虚無エンプティ〉にカテゴライズされようと、そのすべてが同じ性格というわけではない。それぞれに個性があり、個人差がある。

 中でも〈帽子屋マッド・ハッター〉は、比較的情感ゆたかな〈虚無エンプティ〉として知られる。回りくどい話し方をするのは、そのためだろう。


『わたしの力は知っているナ?』

「ああ、相手の記憶を改竄できる」

『うむ。その通りだ。相手の記憶を直接覗けんのが玉にきずだがナ」

「要件を話せ」

『おっと、また悪い癖が出たナ。んん、では本題に戻るが、わたしは記憶に干渉かんしょうした相手の記録を逐一ちくいち残している。目撃者はともかく、〈黒犬ブラック・ドッグ〉が目をつけた相手に、何らかの共通項が見られるかもしれんしナ』

「ああ」

『それをさかのぼってみたら、ある名前が浮上ふじょうしてきた』

「……」


 沈黙は催促だ。

帽子屋マッド・ハッター〉は含み笑うように告げた。


『九条茜音だ』


死神グリム・リーパー〉は意外な名にまゆをひそめた。


『むろん、監視任務の発端ほったんとなった事件とは別だ。今回の犬は、監視対象のいずれかを狙ったようだった。それもお前らを無視し、ピンポイントで。前例がないようだから調べてみればビンゴだ。九条茜音には、以前にも犬出現の現場に居合わせた記録があった』


「同じような経歴の持ち主は、他にいないのか?」


『他の二人にも不審な点はあるナ。西園寺家と関わりのあった人物で、ひとり行方の知れないものがいる。月城嶺亜の両親も蒸発しているな。今は母方の祖父母の家で厄介になっているらしい』


「〈黒犬ブラック・ドッグ〉と関連があるのか?」


『さあナ。だが九条茜音だけは、間違いなく犬との接触がある。しかも一件ではない。今回をのぞいて三件だ。内一件は、四年前の〈奈落の霊牙サーベラス〉戦のあとだ。道理で見覚えがあったわけだナ』


「〈奈落の霊牙サーベラス〉……」


 未だ逃走をつづけている〈猟犬ハウンド〉の一体だ。十三年前に出現して以来、度々〈ノートゥ〉被害を引き起こしている。

 四年前の〈奈落の霊牙サーベラス〉戦といえば、〈死神グリム・リーパー〉が初めて〈猟犬ハウンド〉と遭遇そうぐうした戦いでもあった。あれはしい戦いだった。人海戦術で、あと一歩のところまで追いつめたものの、討滅には至らなかったのだ。


奈落の霊牙サーベラス〉だけではない。現在国内で確認されている七体は、いずれも討滅にいたらず逃走を続けている。


「……あの時にもいたのか。つまり、〈紫煙スモーカー〉の感知した宿主は九条茜音で、彼女は〈黒犬ブラック・ドッグ〉を惹きつける特性をもっている?」

『断言はできんが、その可能性が高いナ。彼女がイレギュラーな存在であるならば、いっそう注視ちゅうしせねばなるまい』


 たしかに偶然の一致と一蹴いっしゅうするには不自然だった。

黒犬ブラック・ドッグ〉の出現自体は、さして珍しいことでもないが、同じ人間が四度も狙われるのは異常だ。単に運が悪かったと考えるのは楽観的に過ぎるだろう。


 九条茜音。


 快活かいかつで悩みの一つも抱えているようには思われないあの少女が、〈黒犬ブラック・ドッグ〉を飼っている恐れがある。

 あるいは正常な自我をもちながら〈虚無エンプティ〉として覚醒かくせいしているかもしれない。

 その上、〈黒犬ブラック・ドッグ〉に狙われやすいという特性まで浮上してきたか。


 消えた〈黒犬ブラック・ドッグ〉反応。

 それを発端に始まった今回の事件にかんしては、どうやら既存きそんの情報など役立ちそうにない。

 報告書の止まった文字を一瞥いちべつし、〈死神グリム・リーパー〉は今宵二度目の吐息をついた。

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