最終話 赤ずきんはオオカミさんの夢を見る

「なんだ、いきなり、改まって」


 焦げ茶色の瞳を丸くして、大神さんは少し驚いたような顔で言います。

 わたしはそんな彼を、小さく笑って見つめました。


 わたしは、たぶん――ううん、本当に、心から。

 ……この人のことが、とても好き。

 大神さんは不器用で、ちょっと意地悪で、いつも仏頂面ばかりしているけれど……わたしのことを、いちばん理解してくれる人だと思うから。


「これからもずっと一緒にいられたらいいですね」

「俺の手料理目当てか?」

「もちろん、それも込みで、です」


 目を合わせ、くすくすと笑い合います。


 ああ、なんてあたたかな時間なんでしょう。花弁がせせらぎを流れていくように、ゆっくりと、ゆったりと、優しい時間が流れていきます。

 わたしは、この時間が大好きです。彼と出逢う前までは、童話を読んでいるときがいちばん幸せでした。でも今は……大神さんといるときに、いちばんの幸せを感じます。

 きっと物語の主人公たちは、ハッピーエンドの瞬間をこんな気持ちで迎えていたのでしょうね。ヒロインに憧れを抱き続けていたわたしにも、ようやくそれがわかるようになりました。彼の……大神さんのおかげで。


「幸せってこういうことを言うのですね」

「腹いっぱい飯が食えれば、そりゃあ幸せだろうな」

「違います、そういう意味じゃなくて……いえ、そうなんですけど、でもそうじゃなくて、わたしが言いたいのはですね」

「冗談だ。わかってるよ」


 視線が交わります。いたずらっぽく細められた眼がわたしを射貫きます。たったそだけのことなのに……わたしの小さな胸は、きゅんと小さく音をたてました。

 なんだか照れくさくて、今さら目を合わせることに恥ずかしさを憶えて、思わず視線をそらしてしまいそうになります。……それでも大神さんは、優しい笑みを浮かべながら、そんなわたしのことをじっと見つめてきました。


 大神さんがそこにいる。

 出逢った当初よりは、よっぽど近い距離。

 手を伸ばせば簡単に触れられます。

 でも、だけど、それでもまだ――もっと近づきたいと思ってしまうのは、なぜでしょう。


「不思議ですね。わたしはいつからこんなに欲深い人間になってしまったんでしょうか」

「なんのことだ?」

「もし金の斧の童話に出てくる女神さまがここにいたら、きっと呆れられるでしょうね」

「……さっきからなんの話をしている?」

「あなたの話ですよ、大神さん」


 言うと、彼は子犬のように首をこてんとかしげてみせます。

 わたしは静かに椅子から立ち上がり、とことこと大神さんの隣へと行きました。そして、なにも言わずにその服の裾をきゅっとつまみます。

 彼は一瞬不思議そうな表情をしましたが、頬を染めて目を伏せるわたしを見ると……くすくすと忍び笑いをしました。


「どうした、袖なんて掴んで。なにか言いたいことがあるのなら、はっきり言わないとわからないぞ」


 そんなの嘘です。大嘘です。本当は全部わかっているくせに。

 だってあなたがそうやって笑っているのは、わたしの思いに気づいたからなのでしょう。

 ……もっと触れたい、もっと近づきたいと強く願ってしまう、わたしの思いに。


「ほら、どうした? 俺にどうしてほしい?」

「……相変わらず意地悪ですよね、大神さんは」

「そんな俺を好きになったのはおまえだろう」


 言い返せません。確かに、そんな大神さんに恋をしてしまったのはわたしです。

 ああ、ほんと、どうしてこんな人を好きになってしまったのでしょうね。少し早まったでしょうか。自分の趣味を疑います。だってこんなオオカミ男なんて。

 うん、でも、やっぱり……好きなんですよね。悔しいけれど。


 わたしは弱々しい目で彼を睨みつけました。しかし大神さんにはまったく効いていません。それどころか小憎たらしい顔でニヤニヤニタニタと笑みを浮かべながらこちらを見てきます。


 ああ、もう、わかりました、わかりましたよ。もうお手上げです。どうせ彼には、なにをしたって勝てません。わたしがいくら意地を張ったところで、大神さんのほうが一枚どころか二枚も三枚も上手うわてなのですから、敵うわけがないのです。

 ……だったら、さっさと自分の思いに正直になってしまったほうが、ずっといいはずです。


 わたしはくちびるをとがらせながら目をそらし、小さな声で呟くように言いました。


「……ぎゅう、したいです」


 そうです。

 抱き締めてほしかったんです。ずっと。

 言いたかった。言い出せなくてもどかしかった。

 わたしはあなたに触れたくて仕方なかったんです。

 本当に……不思議なほどに。


「甘えん坊だな、おまえは」

「いけませんか」

「いいや、ちっとも」


 大神さんは首を横に振ります。

 それから、わたしに腕を伸ばすと――。


「ひゃっ」


 思わず変な声が出ました。

 だって驚いたのです。

 椅子へ腰掛けたままの大神さんが、わたしの体をひょいと持ち上げたのですから。


「よいしょっと」


 向き合う体勢で、わたしは大神さんの膝の上に座らせられました。

 大きな彼に抱えられるわたしのこの姿は、傍から見ればきっと小さな子どもです。

 いつもなら「子ども扱いするな」と怒っているところなのですが……さすがに今回は、驚きのほうがまさって、うまく言葉が出てきません。それに、ほら、こんなにも……至近距離ですし。


「……ええと」

「どうした」

「なんというか……ずいぶん軽々と持ち上げるのですね」

「実際に軽いからな」

「そこそこ重いと思いますよ。足しびれませんか」

「全然。子猫を膝に乗せているのと同じ感覚だな」


 え、これってもしかして子ども扱いではなく子猫扱いですか。

 わたしは彼女じゃなくてペットだったんですか。さすがにそれは屈辱的です。

 こうして近距離にいられる嬉しさと相まって、いよいよどういう表情をしたらいいのかわかりません。わたし、今どんな顔をしていますか。変な顔してませんか。大丈夫ですか。


「じゃあ早速」


 と、大神さんが手を広げます。


「お好きなだけどうぞ」

「……と言いますと?」

「おまえから言い出したんだろう」

「なにをですか?」

「おい、自分で言ったことも憶えていないのか」


 大神さんは目を細めて言いました。


「ハグしたいと言ったのはどこのどいつだ」


 ああ、その話。

 うん、わたしですね。

 わたし、ですけど。


「……そういうのって、男の人からするものでは?」

「レディファーストだ」


 めちゃくちゃです。そんなレディファーストなんかいりません。もしかしてアレですか、大神さんは「レディファースト」とか言いながらお化け屋敷で女の子に先を歩かせるタイプですか。最悪です。絶対一緒に遊園地なんて行きません。


 ……というか、そんなことを言って、どうせあなたはただわたしの恥ずかしがる姿を見たいだけでしょう。そういうところありますもんね。出逢った頃からそうでしたしね。

 本当に、あなたって人は。


「……やっぱり意地悪ですよ、大神さんは」

「そうか?」

「そうです」

「でも嫌いじゃないだろう?」


 当たり前です。

 嫌いなわけがないじゃないですか。

 わかっていて聞くのだから……やっぱり意地が悪いです。


 頬を膨らまし、くちびるをとがらせ、すねた顔で彼を見ます。

 怒るつもりでした。

 鼻を鳴らして「もういい」とそっぽを向いてやるつもりでした。


 ……それなのに。


 ねえ、大神さん。

 どうしてさっきからそんなに優しい笑みでわたしを見つめるのですか。

 やわらかに、愛おしげに、どうして、そんなにも――。


「……大神さん」


 名前を呼び、その焦げ茶色の瞳を見つめ返します。

 ガラスのような透き通った眼の中に、わたしの姿が映し出されます。


 わたしは彼の肩にそっと手を乗せ、静かに問い掛けました。


「大神さんの耳は、どうしてそんなに大きいのですか」

「それは、おまえがどんなに遠くで泣いていてもすぐに駆けつけられるようにだ」

「大神さんの目は、どうしてそんなに大きいのですか」

「それは、おまえのすべてをしっかりこの目に焼きつけられるようにだ」

「大神さんの口は、どうしてそんなに大きいのですか」

「そんなの、決まっているだろう」


 大神さんの腕が、わたしの腰に回されます。だんだんと近づいてくる獣のような瞳に、思わず視線をそらしたくなりました。

 ……だけど、それは彼が許しません。

 わたしの頭の後ろを大きな手で押さえると、「もう逃がさない」とでも言うような顔つきでニヤリと笑んで――彼は、今にもくちびるが触れてしまいそうな距離で言い放ちます。


「おまえを食べるためさ」


 次の瞬間。

 わたしを待っていたのは、まるで噛みつくような激しく甘いキスでした。


 一体どういうことでしょう。わたしは信じられない気持ちでいっぱいです。

 だってこの前は、こんなキスはしなかったのに。大事に、大事に、ガラス細工に触れるように扱ってくれたのに。

 こんな、狼みたいな荒々しいキスをする人なんて……知りませんでした。


 呼吸もままならないほどの長い長い口づけ。

 わたしは今にも意識を失ってしまいそうです。

 苦しさのあまり、彼の胸を必死にぐいぐい押し返しても……彼の力には到底敵いません。

 もう、あっという間に、とろとろと、燃えるような熱で体が溶け出してしまいそうで。

 ああ……もう。ああ、もう。だめです、いけません、大神さん。

 わたし、やっぱりおかしいです。

 こんなの初めてで、どうしたらいいのかわからなくて、それなのに、……それでも、やめてほしくなくて。

 そんな矛盾が、頭の中で何度も行ったり来たりを繰り返します。


 どうしましょう。このままじゃわたし、わたし――。


「おい、大丈夫か」


 突然くちびるを離されました。

 わたしはぜいぜいはあはあと荒い呼吸をします。


 冗談抜きで死ぬかと思ったんですけど……。

 え? ていうか大神さん、今わたしのこと殺そうとしてませんでした?

 気のせい? 気のせいですか?


「おまえ、本当にこういうことに慣れていないんだな」


 当たり前じゃないですか。このあいだまで付き合っていた元彼氏さんが、わたしの人生で初めての恋人だったのですよ。彼とだって、ここまでのことはしていませんよ。……せいぜい、外国のかたが挨拶でするみたいな、ライトなものくらいで。


 目を白黒させながら酸素をめいっぱい吸い込み懸命に肺に送っているわたしに対して、大神さんは余裕しゃくしゃくに堂々と構えて、なんなら若干呆れ顔でこちらを見てきます。なんですか、この差は。


「いいか、キスをするときは鼻で息をしろ」

「は、鼻で? キスってそんな高度な技術が必要なんですか。いきなりなんてできませんよ。無理難題を押しつけないでください」

「どこが難しいんだ」

「どこもかしこも難しいですよ。意味不明です。なんで『できて当たり前』みたいな顔をするんですか。みんながみんなできると思わないでください」


 わたしは、むきーっと怒りながら続けます。


「ていうか、なんですか、さっきのキスは。あんなの官能小説にしか出てきませんよ。実際にやる人がいますか。いいですか、わたしが好きなのは童話なんです、素敵な王子様が出てくるかわいらしいお話なんです。あんな……はれんちでえろえろで野蛮なキス、王子様はしないんですからね!」


 すると、大神さんはふんと鼻を鳴らしました。


「王子様は、な。残念ながら俺はオオカミだ。立派なケモノだ。ケモノは、はれんちでえろえろで野蛮なキスしかしない」


 はっ。そうでした。盲点でした。

 そうですよね、大神さんはオオカミさんで、だから王子様じゃなくって……。

 あれ、でも、わたしにとっては彼が運命の人で、ということは王子様で、オオカミさんだけど王子様で……。


「おい、聞いてるのか」

「え、あ、はい、聞いてますよ」


 ちょっと混乱していました。

 大神さんは大神さんですよね。


 わたしは小さく溜め息を吐きます。


「大体キスの仕方なんてみんなどこで学ぶんですか。……とくに、さっきみたいなやつ。学校じゃ習わないし、教えてくれるところがどこかにあるんですか。ていうか、そもそもですね、あんなふうにしなくても、こう、軽くちゅっとするだけでもわたしは十分……」

「それじゃあ俺が物足りん」


 即答でした。

 はあ、物足りない……ですか。


「こればかりはな、もう、練習あるのみだ」

「そ、そうですか」

「そうだ。練習ならいくらでも付き合うぞ、任せておけ」

「そ、そうですか」


 あまりに真っ直ぐな瞳で、固く拳を握りながらそう言うので……うなずくしかありません。

 なんだかうまく丸め込まれたような気がしないでもないのですが……まあ、いいです。大神さんがわたしのためを思って言ってくれているのであれば、わたしはそれに従うまでです。


「大神さんはわたしの知らない世界をたくさん知っているのですね」

「大人だからな」

「そうですよね。大人な大神さんと交際するのですから、大人なお付き合いにしなきゃいけませんよね。でも、大人なお付き合いって、なんだかとっても大変なのですね。わたしも頑張らなくちゃです……」


 大人というのは奥が深いです。わたしには知らないことが星の数ほどあります。これからたくさん勉強をしていかなければなりません。大神さんに満足してもらうためにも。だってわたしは、大神さんの恋人なのですから。


「ふはっ」


 突然、大神さんが笑います。

 はっとして彼を見ると、口もとに手を当て、肩を揺らしていました。

 ……わたし、なにかしましたでしょうか?


「いや、なんでもない。ただ、一生懸命な姿がかわいいなと思っただけだ」

「そ、そりゃあ一生懸命にもなりますよ。見た目がこんなですから、内面だけでも早く大人に近づけるように頑張らなきゃって思って……」

「無理に背伸びしなくてもいいさ。練習なんて冗談だ。キスの仕方なんて、そのうち自然と憶えるだろう。これから数えきれないほど回数を重ねていくんだから」

「かぞ……。ま、まあ、それはそうですが、でも、だって」

「俺がいいと言ったらいいんだ。……おまえはそのままでいい」


 そう言って、わたしの頬を優しく撫でる彼。 

 ……ずるい、ですよね。わたしはわたしのままでいいなんて……今わたしがいちばん欲しい言葉を、さらりと言えちゃうなんて。


 じっと瞳を見つめていると、彼はこつんと額を合わせてきました。

 そして、お互いのまつげが触れ合いそうな至近距離で、優しい声音で言うのです。


「愛してる、沙雫」


 それは、どんな物語に出てくるプリンセスでも言われることのない、わたしだけに向けられた世界でたったひとつの言葉でした。


 ふいに彼への愛しさが込み上げます。

 体中が彼への、彼からの愛で満たされます。


 わたしはそっと微笑んで、彼の頬に手を当てました。


 ――わたしも、大好きです。心から、あなただけを、これからも、ずっと。


「ねえ、大神さん。幸せってレモンティーみたいですね」


 とろりと甘くて、たまにちょこっと酸っぱくて。

 全部ごくりと飲み干しても、また彼がカップにいっぱい注いでくれるから。

 もういっそのこと、このまま二人で、この幸せに溺れてしまいたい、なんて――。


 大神さんは、そんなわたしの言葉に小さく微笑んで……それから、優しくわたしを抱き寄せました。


「愛していますよ、大神さん」


 ああ、神様。


 どうか、このあまやかな恋が。

 やさしくて、あたたかくて、たおやかなこの恋が。

 童話のように、絶えることなく、永遠に、永久とわに続きますように――。


 彼の胸の中で一人そっと願いながら、わたしは眠るように静かにまぶたを閉じたのでした。






(終)

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赤ずきんはオオカミさんの夢を見る 彩芭つづり @irohanet67

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