第22話 出逢いは必然だったんです(1)

「へくちっ」


 その体躯に似合わない、幼子のようなかわいらしいくしゃみをしたのは、大神さんでした。

 赤い鼻をこすり、「うー」と小さく唸りながら眉をしかめます。


「さっきからどうにもくしゃみが止まらん。誰か俺の噂でもしているのか……?」

「どうでしょうね。まあ、昼間にだったら確かにあなたの話をひなたとたくさんしましたけど。時間差ですかね」

「俺の話を、あいつと? ……さぞ悪口雑言の嵐だったろうな」


 大神さんの悪口を? いやいや、まさか。わたしたちが二人でそんなことを言い合うはずがないですよ。あるわけないじゃないですか。……ないですよね? たぶん。


 はっきりと否定しないわたしをキッチンから目を細めて見てくる大神さんを無視し、わたしは一人テーブルで優雅にレモンティーをいただきます。うん、安定のおいしさですね。今日は寒いのでホットジンジャーハニーレモンティーにしてもらいました。体の中からぽかぽか温まります。この暖炉の中の火の赤色を見つめながら飲むと格別ですね。


「あ、そうです」と、大神さんのほうを向き、声を掛けます。


「ねえ、大神さん。最近本格的に寒くなってきましたし、今度はレモンティーでなくレモネードが飲みたいです」

「ああ、レモネードか。それはいい考えだ」

「柚子を削って少し入れれば、もっとおいしくなるんじゃないでしょうか」

「そうだな。そうしよう。しかしおまえ、料理ができないくせにそういうアイデアだけは浮かぶんだな」

「想像と創造はまったく別物ですからね。考えるだけなら得意なんです」


 よく言えば、夢見る乙女。

 ありていに言えば、妄想族です。


「で、大神さんならレモネードくらい簡単に作れちゃいますよね?」

「当たり前だ。今日はレモンを切らしているから、次回来たときに作ってやる」


 わーい、やったあ。大神さんのことだから、わたしを思って、きっと甘ぁくしてくれるんでしょうね。楽しみです。


 ……それにしても。


 鼻をくんくんさせます。

 先ほどから気になるのは、部屋中に広がるこのかぐわしいバターの香り。

 聞くと、夕飯の献立は大神さんの特製ミートパイとのこと!

 すごいですよね。おうちにお邪魔してすぐに仕込んでいるところをちらっと見ましたが、かなり手の込んだものでした。なんと、フィリングだけでなく生地もいちから作っていたのです。これにはびっくりです。大変素晴らしいです。ていうかパイ生地って手作りできるんですね。パイを作るには市販の冷凍パイシートを使うしか方法がないのだとばかり思っていました。わたしの母はいつもそうでしたから。


「パイ生地なんて粉と水とバターがあればすぐできるぞ」

「そうなんですか。じゃあ、母はいつも手抜きしていたということでしょうか」

「いや……それは、なんていうか、ええと……そう、おまえの母親は忙しい人だから、少しでも手間を省くために冷凍ものを使っていただけだろう」


 大神さんはしどろもどろで答えます。大丈夫ですか、手が止まっていますよ。


「というか、おまえが母親の手伝いをすればいいんだ。仕事と家庭の両立はかなり大変なんだから」

「それは重々承知なのですが、いかんせん手伝おうとするたびに母が断ってくるんです。『大丈夫だから沙雫はおとなしく座っていて。それがいちばんの手伝いよ』と言ってね。わたしにはよくわからないのですけど……どういうことなんでしょうね」

「ああ……うん……俺にはすごくよくわかるな……」


 は? それ、どういう意味ですか?


 深くうなずく大神さん。よくわからないですけど、なんか腹が立ちますね。

 むっと頬を膨らませると、ぐう、と腹の虫が鳴きました。

 立ったり、減ったり、忙しいお腹です。


「大神さぁん、お腹が空きました……」


 テーブルの上に、くたりと上半身を投げ出して言います。

 大神さんはこちらを振り向き、数回まばたきをしました。


「腹が減っただと? ばあさんの家でパンを食べてきたんじゃないのか」

「もちろん食べてきましたよ。マーマレードをつけたものを一枚と、チーズを乗せて焼いたものを一枚と、チョコレートを溶かして塗ったものを二枚、それから四枚だと縁起が悪いのでそのままのものを一枚で、計五枚いただいてきました。ですが、おばあちゃんの家からここまで歩いてきたんです。二時間ですよ。そりゃあお腹だって空きますよ。少食のわたしでもさすがになにか食べたくなります」

「……少食……?」


 大神さんが眉間にしわを寄せています。

 なんですか。なにか文句でも?


「とりあえず、パイは今から焼くから、あと三十分は待ってもらわなきゃならんな」

「ええーっ。そんなに待てませんよ……もうお腹と背中がくっつきそうです……」

「ああ、確かに胸と背中の違いがわからないな。どっちがどっちだ?」


 うるさいですね。どうせわたしは貧乳と言うのもおこがましいまな板胸ですよ。ムカつくのでこの胸の上で切り刻んでやりましょうか。


「冗談は置いといてだな」

「冗談だと思ってないくせに」

「まあまあ。ほら、これ食って機嫌を直せ」


 こちらへやってきた大神さんがテーブルの上に置いたのは、ゆげの立ち上るめちゃくちゃおいしそうなミートソーススパゲティでした。

 わたしは目を輝かせ、ついでによだれを垂らして言います。


「わあ、とってもとってもおいしそうです! これ、食べていいんですか!?」

「どうぞ。ミートパイのフィリングが余ったから作った。おまえのことだから、どうせ腹を空かしてここまで来るんだろうと思っていたんだ」


 さすが大神さん。わたしのことはなんでもお見通しですね。


 ……ここまで話を聞いていれば、大体察しはつくと思いますが、一応説明しておきましょう。


 夕方までひなたと自宅でお茶をし、別れて祖母の家へおつかいへ行ったあと……わたしは大神さんのおうちに寄りました。

 自宅を出てすぐ、夕飯をごちそうしてくれるという内容のメールを大神さんからいただいたので、帰りに喜んでお邪魔することにしたのです。

 祖母の家を出て数分歩いた頃、大神さんが迎えに来てくれました。相変わらず心配性ですよね。ええ、でも嬉しいですよ。お姫さまみたいな扱いで、ちょっとむずがゆいですけれど。苦手な暗い森の道も、大神さんと二人なら全然怖くはありませんでした。むしろ、この綺麗なお月さまを眺めながらずっとどこまでも歩いていきたいな、なんて思ったくらいです。

 話しながらだと、あっという間に彼の家に辿り着きました。例のお姉さまはやっぱり不在のようでした。聞けば、わたしが森でお姉さまに会ったあの日にも、大神さんは彼女を捕まえることができなかったらしく……ここ数日は会っていないのだとか。でも、そりゃそうですよね。狼さんのように鼻の効くお姉さまは、なんだかんだとうるさい大神さんには絶対に遭遇しないよう逃げ回っているのでしょうし。もし今度わたしがお姉さまを森でお見かけしたら、こちらから声を掛けておきましょう。大切な弟さんとお付き合いさせていただいていることを、きちんとお話してご挨拶しなければいけませんからね。


「挨拶なんて堅苦しいな」

「大事なことですよ。交際相手のご家族にはよく思われたいじゃないですか。……ま、そもそもカタブツのあなたに彼女ができたと知っただけで、お姉さまは卒倒してしまうでしょうね」

「しないだろ。姉貴はおまえのことを知ってるし」


 ……え? ……ええ!?

 ちょ、待って、今なんて?

 当然のように、あまりにも堂々と、はっきりと、なんの迷いもない声と言葉で言う大神さん。それに引き替え、わたしはレモンティーの入ったマグカップを落としそうになってしまいました。

 だって、お姉さまがわたしのことを知っているだなんて、そんなの、そんなこと。


「どどどどうして? なんでですかっ?」

「動揺しすぎだろう」

「そりゃ動揺するでしょうよ!」


 わたしなんてまだ自分の両親に大神さんのことを話していないんですよ。おばあちゃんには、まあ、多少は……そういう人がいるんだってことは、話していますけど。

 だって、だって……わたしたち、まだ付き合って間もないのに、そんなすぐにご家族のかたにお話ししちゃっていいんですか?


「いや、付き合う前からおまえのことは姉貴に言っていた」

「え? 付き合う前から?」

「もっと言えば、出逢ってすぐの頃からだな。こういうやつがいるんだって、よく話していたんだよ」

「……わたしのことを? お姉さまに?」

「そうだ」


 ふうん……?

 不思議です。というより、謎です。

 だって、出逢って間もない頃って、普通に会話をしていただけですよね。赤い帽子が飛ばされて、雨が降ってきて、雨宿りをさせてもらって、レモンティーを一緒に飲んで。……それくらいです。

 なにか笑えるネタになるようなことってありましたっけ。


「あるぞ。たくさんある。おまえといると本当におもしろいことだらけだ。まったく飽きない」


 ……そうでしょうか。


「そう言っていただけるのは嬉しいですけど……でも、ちょっとわたしを買い被ってはいないですか。わたしは至って普通の女の子ですし、とくにおもしろいことなんてなにも……」

「なあ、言っていいか。おまえ、ここに来てからずっと頬にパンのかけらをくっつけてるぞ」

「え!」


 急いで頬に触れます。……あ、本当ですね。結構大きいかけらでした。お恥ずかしい限りです。というか気づいていたなら早く言ってくださいよ。なんで今まで黙っていたんですか。


「いや、ほんと笑える。ばあさんの家からずっとそのままだった。五枚もパンを食べるからだ。そんな大きなかけらをつけて、よく鳥に襲われなかったものだ」


 ああ、そうですね、言われてみれば……なんだか今日はずいぶんと小鳥さんたちがわたしの周りを飛び回っているなあと思っていました。やたらわたしを見てくるわ、肩に乗ってチヨチヨ鳴き出すわ、しまいには顔をめがけて突っ込んでくるわで、ずっと不思議だったんです。わたしったら森の動物たちにモテモテだな、なんて少し得意げに思っていたくらいですよ。

 ……それがまさか、わたしの頬についているパンのかけら目当てだったなんて。勘違いもはなはだしいですね。こんなことを話したらバカにされかねないので大神さんには内緒にしておきます。


「頬にパンのかけらをつけて歩くだなんて、子どもじゃあるまいし」

「……言い返せません」

「これだけでも充分ネタになる話だと思わないか」

「……否めません」

「そうだろう。まあ、そういうところもかわいいんだがな」


 ふんだ。そんなことを言われたところでそう簡単に喜ぶかってんですよ。わたしは単細胞な大神さんと違って、そんな取り繕った言葉でいろいろ許せちゃうような単純思考な女じゃないんですからね。なにが「かわいい」ですか。ほんとにそう思ってるんですか。……わたしのこと、ちゃんと、かわいい彼女って思ってくれているんですか。


「ああ、かわいいかわいい」

「うそっぽいです」

「かわいいぞ、本当に」

「なーんか軽いんですよねえ。言葉に重みがないというか。これはゆゆしき問題ですね。どうにかして証明してほしいものです」


 と、腕を組んだ瞬間。

 ちゅ、とほっぺにキスされました。


 ……いきなり。


「これで証明されたか?」


 ニッ、と犬歯を見せていたずらっぽく笑う大神さん。

 ……本当、ずるいですよね。この人は。


「……今度、このあいだ街で見つけたおいしいオレンジジュースをごちそうしてあげます」

「そりゃどうも」


 大神さんは笑いながらテーブルにつきます。

 

「冷めないうちに食べろ」


 そうでした。せっかくの熱々のミートソーススパゲティが冷めてしまいますね。

 

 大神さんは自分のマグカップにホットレモンティーを注ぎます。ついでに、わたしのマグにも足してくれました。

 わたしは手を合わせます。


「それでは、いただきますっ!」

「どうぞ」


 くるくるとパスタをフォークに巻きつけ、ぱくりと一口いただきます。

 それから大神さんの顔を見て、頬を膨らませたまま満面の笑みを浮かべました。


「とってもとってもおいしいです!」

「そうか、それはよかった」


 口角を上げ、大神さんはふわりと微笑みます。

 大神さんは本当に料理がお上手です。いくらわたしが教わっても、きっとこんなふうには作れません。やっぱりわたしはおとなしくティーカップにレモンティーでも注いでいたほうがよっぽどいいですね。不器用すぎるゆえ、それすらもまともにできない可能性は否めませんが。


 もくもくと、ひたすら大神さんの手料理を食べ進めます。そろそろパスタを食べ終える頃にちょうどミートパイの焼き上がるオーブンの音も聞こえ、大神さんはそれもテーブルに運んできてくれました。熱々のパイをさくさくと切り分け、わたしのお皿と自分のお皿によそいます。パスタをぺろりとたいらげたわたしは、早速パイにも手を伸ばしました。ふうふうと息を吹きかけ冷ましてから、ぱくり。


「んー、こっちもとってもおいしいです! まず始めにパイのさくっとした触感、そのあとに続くじゅわっと溢れ出る肉汁! フィリングにはお肉の他にも様々な野菜が細かに入っていて食べ応え抜群! しっかりと塩味がついているにも関わらずひき肉の甘みが最大限に引き出されていますね! 最高の一言に尽きます!」

「完璧な食レポをありがとう。おまえ何者だよ、グルメリポーターか?」

「いえ、わたしはただの高校生ですよ。大神さんの手料理があまりにもおいしいのですらすらと言葉が出てくるんです。冗談抜きで、本当にこれはお店に出せるレベルですよ。そうです、大神さん、ここにレストランを開いたらどうですか。きっと有名になれますよ!」

「こんな森の中でか?」

「こんな森の中だからです。そうですね、お店の名前は『西洋料理店 山猫軒』なんてどうでしょう?」

「俺がいろいろ注文をつけなきゃならなくなるな、面倒だ」


 そうですか? 名案だと思うんですけどね。


 考えながら、リスのように頬いっぱいに食べ物をほおばるわたしを、彼はじっと見つめてきます。どうしたのでしょう。パイを食べないのでしょうか。こんなにおいしいのに。


「大神さん、早く食べないと冷めてしまいますよ」

「え? あ、そうだな、うん」

「どうしたんですか、ぼうっとして。……はっ、まさかまたわたしのほっぺにパイのかけらがついているとか?」

「いや、そういうわけじゃないが、でも、まあ、パイのかけらはたくさんついているぞ、最初からずっと」


 え? 本当ですか?

 やだ、早く言ってくださいよ。食べることに集中しすぎて自分じゃ口の周りを気にしている暇なんてないんですから。


 ティッシュで口を拭きながら、わたしは首をかしげます。


「で、どうしてそんなにわたしを見るのです? ほぼ毎日のように会っているのに、まだわたしがそんな物珍しいですか?」

「違う。おまえがあまりにもたくさん食うから単純に不思議なんだ。どうしてそんなにチビなのかって」


 むぐっ。ごほごほ!

 大神さんからのド直球な意見に、思わずパイを喉に詰まらせます。慌てた大神さんがレモンティーを差し出してくれました。いっきに飲み干し、九死に一生を得ました。

 胸を押さえ、はあはあしながら弱々しく睨みつけます。


「ま、まったく……なんてことを言うんですか、大神さんは……。おかげで死んでしまうところでした」

「すまん、俺も驚いた。俺の手料理を食べて死ぬのだけはやめてくれ。将来店が持てなくなる」


 なんだ、結局お店を出す気満々じゃないですか。

 人気出るといいですね。そのときはわたしも手伝いますよ。

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