第20話 言葉じゃ伝えきれない想いを伝える方法(2)

「……おい」


 大神さんの低い声が聞こえます。


「こっちを向いてくれないか」


 わたしは、ぶんぶんとかぶりを振りました。無理です、今は顔を上げられません。わたしだって、これでも一応乙女なのですよ。こんな涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔なんて見せられるわけがないのです。あなたは、わたしの、好きな人だから。


「こんなかお、みせたくありません」

「大丈夫だから」

「だめ、です」

「笑わないから」

「うそ、です」

「絶対に笑わないから」

「いや、です」


 まったく、と小さな溜め息が聞こえました。

 そして、わたしの手首をそっと掴み、彼は言います。


「約束する」


 その声は、あまりにも優しいものでした。今まで聞いたことのない、やわらかくて……あたたかい声。

 そんなふうに言われたら、なんだか信じたくなってしまいます。泣き顔を見せるのは、弱みを見せるようであまり好きではないのですが、でも、まあ……あなたになら、見せてもいい、かもしれません。なんとなく、そう思ったのです。


 わたしは服の袖で顔をごしごしと拭いたあと、そっと顔を上げ大神さんと目を合わせました。

 見つめ合って、すぐのことです。


「……ふはっ、ひどい顔だな」


 最低。約束と違います。

 わたしはしゃくりあげながら言いました。


「わ、わらわないって、いったのに」

「ごめん、無理だった」

「やっぱり、ひっく、うそつきです、お、おおかみさんは、ひっく、うそばっかりで、ひどい、ひっく、ひどいです」

「はいはい、よしよし、いいこだから泣き止め、な?」


 なんてことでしょう。うそをついたうえに子ども扱いですか。やっぱり大神さんはわたしを子どもとして見ているのですね。最初からそうだったんですね。わたしがこんなに懸命に告白しているのに、よくそんな態度をとれたものです。もう大神さんの言うことなんてなにひとつとして聞いてあげませんから。


 わたしの下でけらけらと笑う大神さんを、弱い目つきで睨みます。涙と鼻水で汚れた顔では、どんなに睨んだところで逆効果だろうとはわかっていましたが、それでもなにかをしなければわたしの気が済まなかったのです。


 案の定、ずっと笑いっぱなしの大神さん。いい加減、愛想を尽かします。

 わたしは頬を膨らまし、ぷいっとそっぽを向きました。


 ……そのときでした。

 大神さんはよいしょと体を起こすと、わたしを膝に乗せたまま――ぎゅっ、と腕いっぱいにわたしの体を抱き締めてきたのです。


 はわっ、と変な声が出ます。

 ……でもそれからは、頭も体もフリーズしたみたいに動きません。涙と鼻水もぴたりと止まります。

 わたしは大神さんの腕に抱かれながら、思考停止した脳を必死に動かそうとします。


 だって、こんな、本当に、これは――いったいどういうことですか?


「おまえ、やっぱり小さいな」

「そ、そりゃあ、大神さんに比べれば……」

「本当に小さい。すごく小さい。……こうするだけで潰してしまうんじゃないかと不安になる」


 やっぱり大神さんは心配性ですね。これくらいじゃ、さすがに潰れませんよ。


 大神さんは、それから何回も何回も「小さい、小さい」と呟きました。いつもなら「バカにしているのか」と喧嘩になっていてもおかしくないのに……今は、不思議と嫌な気はしません。いえ、それとは逆に、なんだか嬉しい気さえします。本当、わたし、どうしちゃったんでしょうね。

 ……こんなふうに彼に抱き締められて、幸せだと感じるなんて。


 ……ああ、大神さんの匂いがします。甘くて、優しくて、あたたかくて。このまま、心も体も、すべてを彼に委ねたくなる。一緒に溶けて交わって、ひとつになってしまいたくなる。そう思うのは……わたしのわがまま、なんでしょうか。


「なんだかなあ。『好きになってしまったみたい』って、ずいぶんと遠まわしな言い方をするよな」

「し、仕方ないじゃないですか、自分でもたった今気づいたんですから……」

「気づくのが遅すぎるだろう」

「それも仕方がないことなんです。……だって、わたしには、ずっとちゃんと恋人がいたんですから」

「……それもそうだな。だから俺だって遠慮していたんだ」


 え? 遠慮?

 ……遠慮ってなんのことですか。


 大神さんの胸の中で、じっと次の言葉を待ちます。大きく息を吸う音がして、それから静かに彼の声が耳に届きました。


「おまえがその“彼氏さん”とやらを好きだと言い続けるならば、俺はずっと自分の気持ちは胸の中にしまって、このまま伝えずにいようと思っていた」


 ……え、なんですか。それって、どういうことですか。

 大神さんだって、ずいぶんと遠まわしな言い方をしているじゃないですか。人のことをとやかく言えませんよ。


 ……だから、訊いてもいいですよね。

 だって、わたし、気になるんです。

 大神さんの、想い。大神さんの、本当の気持ち。


 わたしは大神さんの胸に抱かれながら、静かに訊き返しました。


「あの、つまりは、それって……」

「ああ」


 そっと体を離されて、互いの視線が交わります。

 大神さんは、わたしが今まで見たことのないような――とても優しい表情をしていました。


 大きな手がわたしの肩をそっと包みます。そして大神さんはゆっくりと口を開き、わたしにこう言ったのです。


「俺も、おまえのことが好きだ」


 ――好き。

 そう言って、大神さんはわたしの涙を親指でそっと拭ってくれました。


 わたしはただ呆然と大神さんの顔を見つめます。じっと……穴があくほどに。

 言葉がうまく出てきません。どう返したらいいのでしょう。なにか言いたい、なにか言わなくちゃいけない、それなのに……ああ、もどかしいです。


 二人の間に沈黙が落ちて、数十秒ほどたったとき。

 しびれを切らしたような表情をした大神さんは、溜め息交じりに言います。


「なんか言ったらどうなんだ」

「なんか……とは」

「告白の返事とか」

「へ、返事、ああ、はい、そう、ですよね、返事ですね……」


 告白の返事。

 好き、への返事。


「俺は、おまえのことが好きだ」

「……はい」

「おまえはどう思っている? この先、どうしたい?」


 この先? ……そんなの、考えてもみませんでした。

 元彼氏さんから告白されたときは、彼のほうから「付き合おう」と言ってくれました。それに対して、わたしはただ「はい」とだけ言った記憶があります。だからお付き合いが成立したのです。あのとき、彼からなにも言われなければ……わたしは自ら行動を起こして彼の恋人になるなんてことは、しなかったと思うのです。

 だけど……大神さんはそれをわたしに委ねるのですね。好奇心だけは人一倍あるくせに、優柔不断で、臆病で、自分一人じゃなんにもできないわたしに……わたしたちの未来を託すのですね。


「……難しい、ですね」

「そうでもないだろう」

「……本当に、わたしはどうしたらいいのでしょうね」

「おまえのしたいようにすればいい」


 そう。そうなのですよね。わかっています。だけど……。


「ええと……。……すみません、やっぱりうまく言葉が出てきません。言いたいことは山ほどあるはずなのに、どうしてか、こう、胸がいっぱいになってしまって……」


 ぎゅっと、胸を押さえます。


 答えは、もうとっくに出ているのです。

 わたしは大神さんのことが好きです。大好きです。人をこんなに想ったことなんて、今までに一度もないというほどに。

 言葉にしてしまうのは簡単です。たった一言、「好き」と言ってしまえばそれでいいのですから。


 でも、違うのです。わたしが思っているのは、そんな単純なことじゃないのです。


 好きだけじゃ足りません。大好きでもまだ足りません。言葉にならない想いは、どうやったら伝えることができるのでしょう。その方法を、わたしはまだ知らないのです。


「……ああ、大神さん、どうしましょう」

「なんだ」


 大神さんの瞳が、わたしを射貫きます。

 わたしはしっかりとその目を見つめ、言いました。


「大変です。『大好き』以上の言葉が見つかりません。これじゃあ、大神さんにわたしの本当の気持ちを伝えることができないです」


 大神さんの目が、くりっと丸くなりました。そして、二、三度ぱちぱちとしばたたかせます。

 じいっと見つめたまま、数秒の時間がたちました。そのときです。


「なんだ、そんなことか」


 ……へ?


「そ、そんなことってなんですか」

「『そんなこと』は『そんなこと』だ。真剣な目でなにを言い出すかと思えば、全然たいした問題じゃないな」

「大した……いやいやいや! 大してますよ。大問題ですよ。大神さん、本当にわかってます? ちゃんと理解してますか? だってわたしはこんなにも真面目に一生懸命悩んでそれで――きゃあっ!」


 ふいに、体がふわりと宙へ浮きます。思わず目をぎゅっと閉じ、大神さんにしがみつきました。なにが起こったのか、そのときのわたしには理解できませんでした。あまりに突然の出来事だったので超常現象が起こったのかと思ったくらいです。

 ……しかし、大神さんの声を聞き、わたしはすぐに事態を把握しました。


「相変わらず軽いな。ちゃんと食事をとっているのか?」


 それは、いつぞやにもされたことのある、お姫様抱っこでした。

 まるでバスケットを持ちあげるように、彼はわたしを軽々と抱えます。そして大神さんはわたしを抱いたまま、ゆっくりと歩き始めました。

 ……なんですか、どこに行くのですか。


「ついこのあいだ、おまえが風邪をひいたときに寝ていた場所だ」


 ああ、寝室ですね。あのベッド、とっても寝心地がよかったのですよね。ふわふわ、もふもふ、まるで動物さんたちと寄り添っているみたいでした。よく憶えていますよ、ええ。


 ……でも、どうして寝室なんかに?


「おまえの質問に答えてやるんだ」


 わたしの質問……とは?


「わからないんだろう? が」


 大神さんは、静かに寝室への扉を開けました。大きなベッドがひとつ、部屋の中央に置いてあります。ゆっくりとそこまで足を運ぶと、わたしの体をそっとベッドの上に降ろしました。……それから口もとにはっきりとした笑みを浮かべると、わたしの手を優しく握ります。


「言葉じゃ伝えきれない想いを、余すところなく相手へ届けるための、とっておきの方法を、俺が身をもって教えてやる」


 そう言って、彼はわたしの体の上に覆いかぶさるようなかたちで、空気さえ入り込むのも許さないといったように……ぴったりと密着してきたのです。


 オレンジ色の電球が、ちりちりと音を立てる薄暗い部屋の中。

 わたしと大神さんは、互いをじっと見つめ合い、そして瞳の距離をゆっくりゆっくり縮めていき――。


 ……ええと、それからどうなったのかというとですね。

 ごめんなさい、わたしの記憶が曖昧で、あまり憶えていないのです。だって大神さんたら、戸惑うわたしになんだかよくわからないあんなことやこんなことをいろいろと……。……そう、いろいろとあって、意識朦朧としていたのです。終始まるで夢の中にいるような心地でした。感じるぬくもりが幸せで、このまま甘い時間に溶けて溺れて消えてしまってもいいと思うくらいに。……よくは、憶えていないのですけど。


 でも、そうですね。ひとつだけ、はっきりと言えることは……。


 ――小さな赤ずきんはオオカミさんに食べられてしまいましたとさ。


 それだけ、です。

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