第20話 言葉じゃ伝えきれない想いを伝える方法(1)

 わたしは、ぎゅうとこぶしを握り締め、彼に向かって言いました。


「バスケットを返してください! わたしは早くこの家を出て行きたいんです!」

「どうして」

「そんなの決まってます! 大神さんの顔なんてもう見たくないんです!」

「ひどいやつだな。さっきはあんなに泣いて俺を求めてきたくせに」

「は、はああ!? 泣いてませんしっ! 求めてませんしっ! なにを言っているのかわたしにはさっぱりわかりませんね! うぬぼれるのも大概にしてください!」


 ぐぎぎ、と睨みつけると、大神さんは目を眇めます。

 それから、ぼそりと。


「……そんな言い方をされると、もっと返したくなくなるなあ」

「ああっ、ごめんなさいごめんなさいもう二度とさっきみたいなことは言いません反省しますから許してください!」


 土下座をする勢いで必死に頭を下げます。

 焦げ茶色の瞳が、じっとわたしを見据えます。わたしも、乞うような眼で見つめ返しました。


「……本当か?」

「本当です」

「ちゃんと反省するか?」

「もちろんです」


 しっかりうなずき、大神さんを見上げます。

 すると大神さんは「いいだろう」と首を縦に振りました。


「仕方ない、今回は特別に許してやる」

「ははあ、ありがたき幸せ。……では、バスケットを返していただけますか?」

「は? それとこれとは話が別だが?」


 こんの男はああああああああああ!


 あまりの怒りにこめかみの血管が浮き出てしまいそうです。いえ、もうそうなっているかもしれません。これ以上のストレスを感じたら本当に血管でもなんでも切れてしまいそうです。


 わたしは駄々をこねる子どものように激しく地団駄を踏みました。


「もう、もう、もうっ! 信じられません、最低です、鬼です、悪魔です、人でなしです!」

「人でなし? ああ、そうだ。俺は『オオカミ』だからな」


 むきーっ!


「そういう! ところが! 死ぬほどムカつくんですってば!」

「そんなこと言ったってなあ。俺が『オオカミ』なのは本当のことだし」

「わたしは本気で怒っているのですよ! こんなときにくだらないことを言わないでください! ちっとも笑えませんよ!」

「笑えなくても笑っときゃいい。そんなにカリカリするな。カルシウムが足りてないんじゃないか」


 どの口が言うんでしょう。

 わたしをここまで怒らせているのは、他の誰でもなくあなたですよ、大神さん。


 わたしは怒りのあまり涙目になりながら叫ぶように言います。


「どうして大神さんはわたしに意地悪ばかりするのですか!?」

「意地悪じゃないぞ、これはスキンシップだ」

「どう考えたっていじめの域ですよこれは!」

「いじめてなんかないぞ、これはスキンシップだ」


 こんなスキンシップがあってたまるかってんですよ。

 なんですか、大神さんはドのつくサディストなんですか。人に苦痛を与えて快感を得るタイプの人ですか。うわあ、ドン引きです。そういうことがしたいのならそういうお店にでも行ったらいいんですよ。あの栄えた街にならいくらでもあるでしょう。自分の欲求を満たすためにわたしをおもちゃにしないでください。不愉快です。


「どうしてもそのバスケットを返さないつもりですか」

「おまえが自分のあほさ加減に気づいて鈍感だと認めたら返してやる」

「オーケー、わかりました、つまり返すつもりはないということですね」


 完全に堪忍袋の緒がぷっつりと切れました。大神さんがそういう態度をとるなら、いいです。こっちだって強硬手段に出るまでです。いいですか、覚悟しなさい。今さら後悔したって遅いんですからね。


 わたしは後ろに数歩下がり、彼から距離をとります。そして二回深呼吸。それから、わたしの行動にきょとんとする大神さんを睨みつけるような視線で真っ直ぐに見据え、助走をつけると――渾身の力を脚に込め、うさぎさんのように思いきり飛び跳ねました。


「それを返してくださいっ!」

「うわっ!?」


 大ジャンプで彼に飛びかかりました。

 ……瞬間、大神さんはバランスを崩し、後方へぐらりとよろけたのです。

 わたしが飛びつくなんて思ってもいなかったのでしょう。油断していたところに会心の一撃。RPGだったら一発K.O.。でも、ここは現実世界で、相手は大神さん。彼を倒したところでコインを落とすわけではないし、先のステージに進めるわけでもありません。いいことなんて、なんにもないのです。

 ……なにより、それはわたしにとって、本当に想定外の出来事でした。その大きな体がふらつくことなんて、これっぽっちも考えていなかったのです。ええ、むしろなにをしたって動かないのだと思っていました。ありんこがどんなに一生懸命押したとしても、象はびくともしないみたいに。だって、こんな巨大で屈強な体を持っているのですから、そう簡単には動くはずがないと思うのもおかしくないでしょう。


 ……しかし、大神さんは見事によろめいたのですよねえ。ほんと、びっくりです。

 で、そんな彼に向かって飛びついたわたしの着地点は、慌ててバランスをとろうと片足を前に出した大神さんの、つま先の上。

 さすがのわたしも、それを回避することはできません。猫のように空中で体をひねって方向転換するような技は、残念ながら持ち合わせていないのです。


 ええと、だから、つまりですね。


「――きゃあっ!」

「――ってえ!」


 ……大神さんのつま先に着地後、二人同時に床へ倒れ込んだと、そういうわけです。


 どすーん、とすごい音がしました。森中に響き渡るような大きな音です。

 ああ、やってしまいましたね。この家はすべて森の木で作られているようですから、あまり強い衝撃を与えたら壊れてしまいそうです。大丈夫でしょうか。床は抜けていませんでしょうか。一拍置いて家が崩れたりしませんでしょうか。心配です。


 ……あれ? でも、不思議です。

 あんなにすごい音がしたのにも関わらず、わたし、体のどこにもまったく痛みを感じません。おかしいですね。そんな強靭な体の持ち主でしたっけ、わたしって。


「……おま、ちょっと……」

「え?」

「……そこ、早くどけ……」


 苦しげに呻く声が聞こえます。

 はっとし、顔を上げ、……そこでわたしはようやく状況を把握することができました。


 そろそろと視線を下に向けると、そこには大きな大神さんの体があったのです。


 目をしばたたきます。ぐう、と大神さんがくぐもった声をあげます。

 ええと……もしかして大神さんは、倒れる際にわたしをかばって自身の体を緩衝材にしてくれたので、わたしは怪我をせずに済んだ……ということでしょうか。

 つまりは……わたしを、守ってくれたと。


「大神さん、大神さん」

「……なんだ」

「大丈夫ですか、大神さん」

「……それを確認するために、そこをどけと言っているんだが」

「そうでしたか、すみません。でも、大神さんならきっと平気だと思います。もしわたしが下敷きになっていたら、今頃は回復魔法を使っても元に戻ることが不可能なレベルで骨も内臓も原型をとどめていないでしょうからねえ。だけど今、大神さんには意識があります。見た感じでは骨や内臓にも異常はなさそうです。頭だって。それなら大丈夫でしょう。だって、ほら、こんなに筋肉ムキムキで強そうな体なんですから。ねえ。ほんとにおっきい体ですよね。まるでクマさんのようですよ」

「……それはけなしてるのか?」

「まさか。褒めてるんです」


 決まってるじゃないですか。べた褒めですよ。褒めまくりですよ。『クマさんみたい』って最高の褒め言葉だと思いませんか。わたしは思いますよ。だってクマさんって強いじゃないですか。大神さんみたいに大きいし。そっくりですよ、顔もね。ほら、男の人って「強いね」って言われるの、好きなんでしょう? 強いほうがモテるんでしょう? 物語の中でも強い男性は人気がありますもんね。王子様や英雄ヒーローはみんな強く描かれますし。だから、それとおんなじですよ。大神さんは強いです。


「……まあ、そうだな。強いほうがなにかと便利だ。強くなきゃ好きな女も守れない」


 そう。そうですよ。女の子はみんな守ってほしいのです。白馬に乗った、強くてかっこいい王子様に守られる日を、いつも夢見て待ち望んでいるのです。わたしだってそうなんですから。


 それで、ええと、なにか忘れているような……?


「……あっ!」


 そうです、パンと葡萄酒です!

 すっかり忘れていました。こんなことをしていて、うっかりパンを落としてしまったり葡萄酒の瓶を割ってしまったりしたら大変です。なんせこのパンは、母が祖母のためにせっせと焼き上げた手作りのものですし、この葡萄酒は、わたしが体力と精神力を削ってまで遠い遠い街から買ってきたものなんですから。


 で、肝心のバスケットですが……。

 さっきの一件で、どこかに吹っ飛んでいったりしていないですよね?


「おまえが探しているのは、これか?」


 そう言いながら、大神さんは大きな手でバスケットの底部分を持ち、掲げます。

 そうそう、それです。

 中を覗き込むと、パンも葡萄酒も無事なようでした。

 事なきを得て、ほっと胸を撫で下ろします。


「ああ、よかった……。大神さんがバスケットも守ってくださったんですね」

「まあな。悪ふざけをしていて使い物にならなくなったら、冗談じゃ済まされないだろう。あと、おまえからの仕返しが怖い」


 なにを言いますか。仕返しだなんてそんな恐ろしいこと、わたしはしませんよ。まあ、強いて言えば、割れた葡萄酒の瓶を振り回すくらいで気が済むと思うんです。それで殴りかかったりはしないですよ、たぶん。


 バスケットから、視線を大神さんへと移します。


「……あの、大神さん」

「なんだ」

「その……ごめんなさいでした」


 大神さんの目がまんまるになり、ぱちぱちとまたたきます。


「どうした、急に」

「だって……大神さん、痛かったでしょう?」

「ああ……まあ、そうだな、それなりに」

「ですよね……。それって言うのも、わたしが突然飛びかかったからなわけですし……。でも、それなのに、大神さんはそのバスケットと……わたしのことを、守ってくださって」


 大神さんは、まだ驚いた顔でわたしを見ています。

 なんですか。そりゃあ、わたしだって、悪いことをしたなと思えば謝りますよ。まあ元はと言えば大神さんがわたしをバカバカと罵ってきたのがいけなかったのですけど。

 ……でも、わたしも、悪い子でしたから。


「……俺のことは気にするな。うん、でも、本当によかったよ」


 大神さんの大きな手が、わたしの頭をわしわしと撫でます。


「バスケットもおまえも無事で一安心だ」


 わたしに馬乗りにされたままの大神さんは、そう言って――歯を見せてニカッと笑いました。


 ああ、もう……ああ、もう。

 まったく、なんですか。不意打ちでそういう顔をするのはやめてください。そんな笑顔を見せたら、わたし。

 ……ほら、また心臓がドキドキ言い始めてしまったじゃないですか。


「ふざけて悪かったな。バスケットは返すよ。最初からそのつもりだった」

「…………」

「ばあさんの家まで行くんだろう。途中まで送る。今度こそ本物の狼が出るかもしれん」

「…………」

「……おい、どうした? やっぱりどこか痛むか? 怪我したのか?」


 心配そうな瞳が、わたしの顔を覗き込みます。


 大神さん。大神さん。

 やっぱりわたし、だめみたいです。

 この鼓動の答えが、今、どうしても知りたいです。

 じゃないと、わたし……。


「……教えてください」

「は?」

「教えてください、大神さん」

「だからなにを、」


「――わたし、どうしてこんなにあなたのことを想ってしまうのですか」


 恋しいと思ってしまうのですか。

 愛しいと思ってしまうのですか。

 強く強く想いすぎて、胸が張り裂けそうになってしまっているのですか。


 こんなの、おかしいです。だって、彼と出逢ってまだ数日です。

 わたしが好きなのは、わたしをフッただけで。彼に抱く感情こそが恋だと確信を持っていて。

 だから大神さんを想うこの心は、きっと恋なんかじゃないと思っていました。

 ……まだ彼を好きだったから。好きなはず、だったから。

 いくら考えてしまうと言っても、大神さんへのこの感情は、絶対にそういう類のものではないのだと……心のどこかで、無意識に自分に言い聞かせていたのです。


 だけど、もう言い逃れはできません。

 だって、わたし、気づいてしまいました。


「……どうしましょう、大神さん」

「……おい、おまえ」

「……どうしたらいいか、わかりません」


 涙が溢れて、溢れて、止まらなくて。

 ……それでもわたしは、彼の瞳をまっすぐに見つめ、言ったのです。


「わたし、あなたのことを好きになってしまったみたいです……っ」


 出逢ったとき、まだ付き合っていた彼への罪悪感と。

 それでも好きだと認め、想いを言葉にしてしまった背徳感と。

 それから……やっと自分の本当の気持ちに気づけたという幸福感が。


 この小さな胸を満たして、涙として流れ出て、もうどうすることもできません。


 両手で顔を覆い、子どものようにわんわんと声を上げて泣きます。自分でも、なぜこんなふうに泣けてくるのかわかりません。ただ気持ちを伝えた――それだけなのに。

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