第19話 大神さんなんてもう知らない(2)

 真実がわかると、わたしはゆるゆると息を吐き出しました。

 なんだか、ほっとしてしまったのです。……あの写真の女の人が、大神さんの実のお姉さまで。あの森で出逢った女の人が、大神さんの恋人なんかではなくて。本当によかった。そう思うと、胸の奥でずっとつっかえていたなにかが、すっと取れたような気がして……。


 ……あれ? ちょっと待ってください。

 どうしてわたしは今、「あの女の人が大神さんの恋人ではなくてよかった」なんて思ったのでしょうか?


 べつに大神さんに恋人がいたっていいじゃないですか。大神さんくらいの年になれば、彼女さんの一人や二人いたっておかしくはありません。むしろいるほうが自然です。なんなら結婚していたって変ではありません。お子さんがいてもいいくらいです。

 ……なのに、どうしてわたしはそれを「嫌だ」と思うのでしょう。

 やっぱり変です。おかしいです。


 それに。

 さっきから、ずっと気になっていました。……この鼓動の速さ。

 いったいなんなのでしょう。うるさいくらいにドキドキと鳴る鼓動は抑えることができません。胸が張り裂けそうなほどに、強く、早く、脈打ちます。とくに大神さんと目が合うと、それがよりいっそうひどくなるのです。まるで、なにかの病気にかかってしまったかのように。


 ……謎です。考えれば考えるほど、答えが出ることなく、ただ深みにはまっていきます。


 ああ、なんだかこれって、せっかく絵の見え始めたパズルのピースが最後のひとつだけ欠けてしまっているような気分です。とってももどかしい。どうしたら謎が解けるのか、今のわたしではわかりません。


 ……大神さんなら、わかるでしょうか。


「……大神さん」

「なんだ」

「あの、あのですね。……ちょっと、お聞きしたいことがあるのですが」

「だからなんだ。改まって、変なやつだな。もったいぶっていないで早く言え」


 ええ、まあ、そうなんですけれど。ああ、でも、なんと言えばいいのかわかりません。自分の心の中にある思いを言葉にして伝えるのは、とても難しいです。


「ええと、ですね。わたし、なんだか変なんです」

「変?」

「ええ」

「俺はおまえのことを前々から風変わりなやつだとは思っていたぞ」

「そういう意味じゃありません、失礼ですね」


 目を細めて睨んでやります。大神さんは小さく両手を上げました。降参のポーズです。

 ひとつ息をつき、睨むのをやめると……それを見ていた大神さんは眉根を寄せて言います。


「具体的には、どこがどう変なんだ」


 具体的に。わかってはいるのですけれど……それを言葉にするのがなかなか大変なのです。

 ……だけど、伝えなきゃ、ですよね。彼に少しでも伝わるように。どうにか伝わってほしいから。

 まだうまい言葉が見つかりませんが、それでもわたしは大神さんの瞳を正面にとらえ、じっと見つめながら言いました。


「じつはですね、わたし、大神さんを見ていると、なんだか胸がドキドキして苦しくなるんです。こうして一緒にいると、どういうわけか脈がどんどんと速くなって、胸の奥の奥のほうがじんわりと熱を帯びてくるんです。なにをするにも大神さんのことが頭に浮かんできて、たまにそれが原因でぼーっとしてしまうことだってあるんです。大神さんの淹れてくれたレモンティーが飲みたいなあとか、大神さんの声が聞きたいなあとか、大神さんは今なにをしているんだろうなあとか、あとは……大神さんに会いたいな、とか。そう思うことがたくさんあります。そう思うことしかないかもしれません。彼氏さんのことを……いえ、今はもう『元』彼氏さんですが、彼を考えているときだって、なぜかどこかから大神さんの顔が浮かんできて、いつの間にかあなたのことだけで頭の中がいっぱいになるんです。不思議ですよね。本当に、なにかの魔法にかけられたみたいに、わたしの思考すべてを大神さんだけが満たすのです。こんなことは生まれて初めてで、自分でもなにをどうしたらいいのか全然わからなくて……。

 ――ねえ、大神さん。これっていったいなんなのでしょう?」


 胸の中にあるものを、一生懸命どうにか言葉にして伝えました。

 ああ、でも、ちょっと早口すぎたでしょうか。思ったことだけをどんどん言ってしまったので、大神さんも混乱しているかもしれません。わたしより長く生きている大神さんなら、なにかわけを知っているのではと思ったのですが……。

 なかなか返事がありませんね。考えごとでもしているんでしょうか。


 わたしは、少しでも彼に近づけるように、ぐっと背伸びをして大神さんの顔を見据えました。

 ……そして、首をかしげます。


 おやおや、どうしたことでしょう。大神さん、お顔が真っ赤ですよ?


「いや、これはなんでもない」

「なんでもないのにお顔が真っ赤になるんですか」

「そういう日も、ままある」

「それってどんな日ですか」

「日曜、祝日、土曜隔週、あとはGWとお盆と年末年始だ」

「へえ、どこかの会社の年間休日みたいですね」


 言ってから、目を細めます。


「……うそつきは泥棒の始まりですよ?」


 そんな適当なうそくらい、わたしにだって見抜けるんですからね。

 じいっと見据え続けていると、大神さんは観念したように「わかったわかった」と両手を振りました。


「おまえ、あまりにもストレートすぎるだろう。少しは濁せよ」

「え? ……すとれーと、とは?」


 小首をかしげて訊き返します。大神さんは、今度は唖然とした表情をしました。それから眉根を揉みます。そして、少し呆れを含んだ声で言いました。


「だって、おまえ、それって完全にアレだろう……」


 アレ? アレとはいったいなんでしょう。

 ……あ、もしかして大神さん、わたしのこの悶々ドキドキな気持ちの意味がわかるのですか? おお、すごいです、さすがです。亀の甲より年の劫とはよく言ったものです。わたしとはたった八つしか離れていないのに、大神さんはわたしの知らないことをたくさん知っています。こう見えて意外と博識なんですよね。尊敬しますよ、本当に。


 ……で、結局、アレというのは?


「それを俺に言わせるのか」

「ええ、お願いします」

「どうして俺がそこまでしなくちゃならないんだ」

「だって大神さんにはわかるのでしょう? このドキドキの理由が。わたしにはどうしたってわからないのです。ここ最近は毎日毎晩悩んでいたんですよ。大神さんにわかるのなら、教えてほしいんです。そうすればこの問題は万事解決するんですから」


 ねっ、と言えば、大神さんはひどく嫌そうな表情をしました。なにもそこまで露骨に顔に出さなくても。なにをそんなに嫌がることがあるんでしょう。ただ原因を教えてくれればいいだけの話なのに。


「……教えてくれないんですか?」


 眉を下げて訊くと、彼は頬を掻きながら言いました。


「俺の口から言うのは自意識過剰のようで嫌だ」

「どうしてですか。ひどいです、ずるいです、大神さんだけ知っていてわたしは知らないなんて、そんなの不公平です。教えてくれたっていいじゃないですか。教えてくださいよ。自意識過剰だなんて思いませんから。ね?」


 一歩詰め寄り、ぐっと顔を近づけます。大神さんは「うっ」とくぐもった声をあげて一歩後ろに下がりました。しかし、わたしはさらに一歩前へ出ます。お互いの距離は変わりません。


 大神さんはひとつ大きな溜め息をつき、髪の毛をくしゃりと掻き上げました。


「……おまえ、本当にわかっていないのか」

「だから、なにをですか」

「正気か? あほだろう。ここまで鈍感なやつは初めて見たぞ」

「あの、さっきからなんなんですか。あほだの鈍感だの、わたしをけなしてばかりいて」

「けなしたくもなるだろうよ、こんなにバカじゃあ」


 あっ。今またバカって言いましたか! またわたしをけなしましたね!


 あーもう、本当に腹が立つ男ですね。ふんだ、いいです、いいですよ、もう帰ってやります。こんな男のことばかりでわたしの頭の中はいっぱいいっぱいだなんて、ひどくばかばかしいです。ばかばかしいにもほどがあります。それこそ本物のバカです。この心臓の高鳴りも、どうせそこまでの意味なんてないのです。きっとこの短い期間の中で少しばかり濃い時間を共にしたせいで起こっているだけの症状です。そうでなければ、ただの動悸です。息切れです。それだけのことなのです。

 そうですよ、そもそもこの人とはまだ出逢って間もないのですよ。それなのに、わたしが心を開きすぎたのがいけなかったのです。反省しなければいけません。二度とこんなことが起こらないようにね。

 まったく、本当にとんでもない人と出逢ってしまったものです。最初はいい人だと思っていましたが、全然、ちっとも、これっぽっちもそんなことはありませんでしたね。だって失礼じゃないですか。ただでさえ失恋して傷ついている女の子に向かってバカだの鈍感だの、なんなんですかねいったい。よく言えたなと思いますよ。きっと相手の気持ちを考えることのできないかわいそうな人なんでしょうね、大神さんは。ええと、あれ、なんでしたっけ、ジェラシー? リテラシー? よく知りませんが、大神さんはそれがきっと大きく欠けているに違いありません。


「それを言うならデリカシーだ」

「人の心を勝手に読まないでください!」


 最低ですね。本当の本当にデリカシーの欠片もありません。

 もう呆れました。絶縁してやります。


「ええ、ええ、わたしがバカでした、一瞬でも大神さんなんかに助けを求めてしまうだなんて愚かでした、大バカ者でした!」

「おい、なんだいきなり、その言い方は」

「べーっだ。なんだっていいですよ。気になるなら自分の胸に手を当てて聞いてごらんなさい。わたし、怒ったんですから。本当に怒ったんです。大激怒です。だから、もうここには来ません。大神さんには二度と会ってあげませんから!」

「はあ?」


 わたしの怒っている理由がわからないのか、大神さんは眉間にしわを寄せ、しきりに首をかしげていました。

 でも、もう、どうだっていいです。本当に、二度と会う気はありませんから。距離を置けば、きっとこの原因不明な胸のドキドキも消えるはずです。


 わたしはくるりと大神さんに背を向け、ドアと向かい合いました。


「どこに行くんだ」

「帰るんですよ」

「だから、どこへ」

「家に決まってるじゃないですか」

「ほう、そうか」


 目を細めた大神さんは、すたすたとテーブルまで歩いていき、そして……。


「……じゃあ、このパンと葡萄酒は俺がもらっていいんだな。なんだ、結構いい酒みたいじゃないか。さすが金持ちのお嬢様が選ぶモノは違うな。俺もちょうど酒をきらして買い物に行かなければと思っていたところだ。ありがたくいただこう」


 はっ!


「そ、祖母の家へ寄ってから帰ると言ったんです! やめてください、返してくださいっ!」


 慌てて駆け寄り、奪い返そうと手を伸ばします。

 しかし大神さんは、バスケットを持つ手を上に伸ばし、わたしから遠ざけました。


「おまえ、これのこと、すっかり忘れていただろう」

「忘れてません! 忘れるわけないじゃないですか! わたしはおばあちゃんのおうちへ行こうとしていたんです! 大神さんじゃなくておばあちゃんに会いに行きたかったんです! 最初からずっとずうっとそうだったんです! ……もうっ、返してくださいってば!」

「いいや、絶対に忘れていたな。俺が言わなければ、このパンと葡萄酒は確実に俺の腹の中に入っていた。それこそ童話の中で赤ずきんが狼に食べられたみたいにな」


 ああもう……ああもう! なんっっって性格の悪い男なのでしょう! 童話の中の狼さんの倍、十倍、いえ百倍はタチが悪いです。

 だってほら、見てください。わたしよりちょっと背が大きいからって、そうやってバスケットをわたしに届かないようにさせるなんて、本当に憎たらしい男です。悪魔や鬼畜の所業です。か弱い乙女を相手によくもそんなむごいことができたものですね。まったく信じられません。


 本当に、本当に、最低です!

 大神さんなんてもう知りません!

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