第21話 祝福の言葉には無条件で喜びます(1)
「――信じられないっ!」
それは、思わず飲んでいたお茶を吹き出しそうになるほどの大声でした。
最初はわたしの話を楽しそうに聞いていたひなたですが、徐々に眉間にしわを寄せ始め、だんだん絶望的な表情になっていき、最終的には黒髪の頭を腕いっぱいに抱え込むようにして、まるで地球滅亡寸前という勢いで叫んだのでした。
今日は日曜日です。
このあいだ、部活の休憩時間にひなたを呼び出し、「もし今度の日曜日に予定がないようでしたら久しぶりにわたしの家でお茶をしませんか」と誘っていました。部活に勉強にいつも忙しいひなたは、そんなわたしの誘いを心から喜び、受けてくれました。
そして今朝。「楽しみすぎて早く起きちゃった」とかいう小学校低学年の男子みたいな理由で、約束の三時間前にはわたしの家にやってきました。午前十時に約束していたので、ひなたが来たのは朝七時です。さすがに早すぎないかと思ったのですが、まあ、そういうところもひなたらしいなと思い、わたしは寝ぼけ眼をこすりながら部屋へと案内したのです。
それから温かいお茶を出しました。大神さんのようにおいしい自家製レモンティーは出せませんが、お湯を注ぐだけで手軽においしくできるティーバッグのジャスミンティーがあるので、それを振る舞ったのです。ひなたは「沙雫の淹れてくれたお茶は世界一おいしいな」なんて、まるでたんぽぽの綿毛並みにふわふわと軽い言葉をささやきながらごくごくお茶を飲みました。まあ、じつのところ、そのお茶は大神さんからいただいた彼おすすめのものなんですけどね。それを言ったら大変なことになりかねないので黙っておくとしましょう。
……で、本題です。
わたしは、先日あった出来事を一部始終ひなたに話しました。
例の彼の浮気現場に遭遇したこと、泣きながら大神さんの家へ行ったこと、自分の本当の気持ちに気づいたこと、それから……彼に食べられたこと。
そこまで話すと――冒頭のひなたの叫びに戻るというわけです。
本当、困ったものです。わたしがどれだけ声を掛け、肩を叩き、体を揺すっても、「信じられない」の一言だけを残したきり、ひなたはただひたすらにうんうんと唸るだけで顔を上げてはくれません。解せませんね。わたしの話はそんなに信じられないでしょうか。とくに不思議なことは言っていないと思うのですけど。そこまで信じがたいと言うのなら、この物語もラブコメからファンタジーにジャンル変更したほうがいいでしょうか。
それはともかく。なんにせよ、ですね。
今の話は信じてください。全部本当のことなのですから。
「ひなた」
「…………」
「ひなた、聞いてます?」
「…………」
「聞こえていないのですか。さっきまで普通に話していたのに。おかしいですね。突発性難聴でしょうか」
「…………」
「でも、まあ、大神さんはいい人ですよ」
そう言った瞬間、ひなたは弾かれたようにバッと顔を上げました。
そして、まるで鬼のような形相でわたしを見ながら叫びます。
「目を覚ましてくれ、沙雫!」
「あら。なんだ、ちゃんと聞こえてたのですね。心配して損しましたよ」
「あんなやつの言うことを信じちゃだめだ! きっと騙されているんだよ!」
「あはは。まさか。そんなはずはありません」
「どうしてそう言い切れる! あいつの考えていることなんてわからないよ!」
「彼はおもしろいほど単純ですよ。というか単細胞です。とってもね」
「僕はそうは思えない! もしかしたらなにかを企んでいるのかも……!」
「企むなんて。あの人の目を見ました? まるで、なあんにも考えていないような、どこまでも真っ直ぐで純真無垢な瞳でしたよ」
にっこりと微笑みながら言うと、ひなたの目は徐々に潤んでいき……しまいにはテーブルの上に突っ伏し、おいおいと声を上げ泣き始めてしまいました。
「ああ……もうだめだぁ……」
わたしは、やれやれと息を吐きました。
笑ったり、喜んだり、驚いたり、怒ったり、悲しんだり、泣いたり……。今日のひなたは百面相ですね。そんなに表情をころころと変えたりして顔面の神経が疲れないのでしょうか。常に仏頂面の大神さんとは大違いですね。足して二で割ればちょうどよくなりそうです。
「まあまあ、ひなた、とりあえず泣きやんでください。ほら、ジャスミンティーのおかわりはいかがですか。これ、とってもおいしいでしょう、ね?」
「うっうっ……いただきます……」
空のカップにティーバッグを入れ、こぽこぽとお湯を注ぎます。だんだんと透明なそれに金の色が溶けて混じりめました。やがてカップの中は綺麗な黄金色で満たされます。覗き込むと、ゆらゆらと揺れる水面にわたしの顔が映りました。ひなたとは違い、少しばかり表情に乏しいですが……それでも、どこか困ったような顔をしています。そりゃそうですよね。だって、いちばん大事な親友にこんなふうに泣かれては、わたしもどうしていいかわからないのです。
「……ひなた、あのですね」
「沙雫!」
がたり、とテーブルを大きく揺らし、ひなたが再び顔を上げました。今まで泣いていたのがうそみたいに、ちょっと……いいえ、すごく怖い顔をしています。
ぎょっとして、その目を見つめました。
「ああ、沙雫! 正気に戻ってくれ! 頼む、お願いだ!」
「え? いえ、わたしはいつでも正気ですよ。ひなたこそ大丈夫ですか、現実逃避していませんか」
「してるよ! するに決まっているじゃないか! このクソッタレな現実を直視できると思うか! できるわけがないだろう! そんなの逃避するしか他に方法がないよ!」
「そこをなんとか」
「無理だ、無理、絶対に無理だよ、こんなのってあるか、ないよな、あってたまるか、ああ、信じられない、信じられるわけがない、信じたくない、信じたくもない!」
言いながら、ひなたはわたしの肩を前後へがくがくと激しく揺さぶります。
ええと、ですからね、信じたくなくてもこれは本当のことで、信じてもらうしか話は先へ進まないというか……あ、だめ、待って、まずいです、酔ってきました……気持ち悪い……これ以上揺すらないでもらえますか……。
ひなたはオーバーな身ぶり手ぶりで、ほぼ叫びながらわたしに訴えます。
「なぜ、どうしてなんだ! 今までに僕があれほど求愛行動をしていたというのに、なんで沙雫はあんな男を選ぶ!?」
「求愛行動って……狼さんじゃあるまいし」
「だってそうだろう! 僕は何度も好きと言っているし、キスだってした! 小さい頃はよく一緒にお風呂も入ったし、このあいだなんて朝までベッドの上でイチャイチャした!」
それはゲームでバトってただけですけどね。
「ああ……なんで、どうして……ありえないよ……沙雫があんなやつと恋人の契約を結ぶだなんて……」
ひなたは悲痛な声を上げ、そして……つうっと、頬に一筋の涙を流しました。
そう。
わたしはあの夜、大神さんと交際することにいたしました。
大神さんと関係を持ったあの日。
わたしは彼氏さんにお別れのメールを送りました。
ひどいことをされたのは重々承知で、それでも「今までありがとう」ということだけは、どうしても伝えたかったのです。
もちろん、彼を非人情な人だとは思います。わたしという人がありながらも、別の女の子となんて。……いえ、ちゃんとした彼女さんがいながらも、わたしなんかと浮気して、と言ったほうが正しいかもしれません。どちらだったのか知りたくても、もう二度と連絡をとることはないでしょうから真相は藪の中です。
なんにせよ、彼が浮気したのは事実です。最低です、信じられません、なにを考えているのでしょう、あの人は。……それでも、やっぱり。あのときだけでも、うそだとしても、わたしの世界を認めてくれたのは……本当に、本当に、嬉しかったのは、本当だから。そんな感謝の気持ちだけは伝えておくべきだと思ったのです。
……でも残念なことに、メールの返事は今も返ってきていません。待ったとしても、返ってくることはないでしょう。さすがに読むくらいはしてくれただろうとは思いますが……なんだか釈然としない別れ方になってしまいました。残念です。
うん、でも、仕方がないですよね。そういうところも含めて、最後の最後まで彼氏さんは彼氏さんらしかったです、本当に。彼は今頃せいせいしていると思いますよ。わたしみたいな女と、やっと離れられてね。
……だいぶ話がそれてしまいましたね。
大神さんとの交際前夜の話でした。
わたしは、悩んでいたのです。
つまり、彼氏さん……ああ、今となればもう『元』彼氏さんですね。彼と別れてすぐにまた違う人とお付き合いをするというのは、あまりよろしくないのではと思っていました。だって、そんな乗り換えるみたいな……これじゃあまるでわたしも浮気していたようではないですか。……ええ、まあ、それっぽいことは何度かありましたけども。でもあれは未遂に終わったのでセーフと言いますか……いや、よくないことではあるのですけど。
とにかく。すぐに大神さんとお付き合いするのは、いかがなものかと思っていたのです。
……ですが、大神さんは言ってくれました。「好きなようにしていい」と。「おまえが決めろ」と。そうやって、わたしのことをいちばんにしっかりと考えてくれる大神さんの真剣な目を見て、わたしも決めたのです。
この人にたくさんの愛をあげたい。
そして、たくさんの愛をもらいたい。
この人の――大神さんの、心も、体も、すべてを独り占めしたいのだと。
……そんなふうに思ってしまったのです。
「……そう、なんだ」
ぽつりと、ひなたが呟きます。
「沙雫にしては珍しい、ずいぶんな独占欲だね」
「わたしもそう思います」
「心も体も独り占めしたいなんて、沙雫の口から出た言葉とは思えないよ」
「わたしもそう思います」
ひなたは、眉根にしわを寄せ、涙を我慢したような声で言いました。
「……そんなにあいつのことが好きなの?」
指も、くちびるも、震えています。怯えた子犬のように、かたかたと。
たぶん、きっと……ひなたは今、戦っているのだと思います。
わたしへ向ける、自分のどうしようもない感情と……それから、自分へ向ける、わたしへのどうしようもない感情と。
胸の中で必死に葛藤しているひなたを見つめながら、わたしははっきりと伝えます。
「ええ。愛していますよ。誰よりも」
うそはつけません。
わたしは、大神さんが好き。大神さんのことだけが、好き。
ひなたはくちびるを噛みながら、テーブルの上で固くこぶしを握り締めました。耐えるように、堪えるように。わたしからは、もうなにも言いません。ただ、じっと……その様子を見つめます。
しばらくして、目を閉じたひなたは、すうっと大きく息を吸い込みました。そして、ゆるゆると細く吐き出します。
……それから数秒後。ひなたは静かに目を開き、ゆっくりと視線をこちらへ向けました。真剣な眼差し。そらせなくなるほどの目力。
言葉もなく互いを見据え合い、どのくらいの時間がたったときでしょうか。
「………………おめでとう」
長年の友人から掛けられた言葉は、短いけれど、心からの祝福の言葉でした。
驚きで、まばたきさえ忘れてしまいます。
おめでとう。今、おめでとうって言いましたよ。
あのひなたが。わたしに。おめでとうって。はっきりと。
「……冗談でしょう?」
「は? なんだよ、冗談って」
「だって、ひなたがわたしの恋を祝福してくれるなんて」
「悪いか。……僕にだって、そういう気分のときがある」
そうなんですか。いえ、そうですよね。でも、そうなんですか。
本当の本当に驚きました。だって、思ってもみなかったのです。
わたしに恋人ができて、ひなたから「おめでとう」と言ってもらえる日がくるなんて。しかも相手はあの大神さんですよ。ひなたとは犬猿の仲である、あの大神さんなんですよ。それなのに。
「なんだよ。それじゃあ沙雫は、僕に『そんな男はやめろ』と否定してほしいのか?」
「そんな、まさか、違いますよ、そんなんじゃありません」
「でも、そう言っているようなものじゃないか。友達からの祝いの言葉を、そんなふうな態度で受け取らないなんて」
それは……。……確かにそうです。
わたしが間違っていましたね。ごめんなさい。
大好きで大切な友人からの祝福の言葉は、無条件で喜ばなくてはいけません。
わたしはひなたを見ます。ひなたは一瞬、寂しそうな表情になりました。ですが、すぐにその表情は変わり、今度は優しげな微笑みを浮かべます。
……そして、ひなたはもう一度、わたしにこう言いました。
「おめでとう、沙雫。……今度こそ幸せになって」
胸がいっぱいになります。自然と涙が滲んできます。
ありがとうございます、ひなた。きっと彼なら、わたしを幸せにしてくれると思うんです。この世界中で誰よりも、わたしのことを、いちばんに。
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