第11話 友人の心の陰ひなた

「とまあそんな感じで、赤井沙雫、なんとか復活いたしましたー!」


 わーっ、と一人で拍手をします。一人で、です。いちおう目の前には人がいるのですが、あまり祝ってくれる様子はありません。むしろ、じっとりした目つきでこちらを見てきます。なんですか、ノリが悪いですね。


「ノリがいいとか悪いとか、今この話には無関係だ」


 まあ、それはそうですが。でも、ほら、「熱が下がってよかったね」だとか「沙雫はやっぱり元気がないと」だとか、そういう一言はほしいところです。


「言ってやれる気分じゃないな」


 あらあら、まあまあ。見事にあっさりと切り捨てられてしまいました。


 なんでしょう。最初はわたしだけがそう見えるのかとも思ったのですが……今のではっきりしました。どうやらそう見えるだけではなく、なんていうか本当に。

 ……今日のひなたは、なんだかとってもご機嫌ななめです。


「あの、ひとつ聞いてもいいですか」

「うん、まあ、そうだな。ひとつくらいなら答えてあげなくもないよ」

「じゃあ聞きます。ひなたは今、どうしてそんなにむすっとしているのですか?」


 はっきり問うと、ひなたはただでさえ不機嫌そうな顔を、さらにぶすりと歪めます。


「そういうつもりはない」

「つもりはなくても、してますよ。口角が下がって、眉根にしわが寄っています。おまけに口調も冷たいですね。いつもとは全然違いますもん。わたし、ひなたは笑っていたほうが素敵だと思うんです。あの笑顔、好きだなあ。だから、ね。ほら、笑って笑って」


 ニイッ、と無理やり口の端を引っ張って笑わせようとします。が、失敗しました。手を振り払われてしまいました。ああ、余計にご機嫌を損ねてしまったようです。どうしましょう、困ったものです。


 放課後。体育館の裏。わたしは、ふうっと息を吐き出しました。

 いつもならホームルームが終わればすぐさま学校を出て家路を急ぐのですが、わたしにしては珍しく、今日はまだ校内に残っていました。というのも、部活をしているひなたの応援に来ているのです。

 ……だけど、ひなたはとっても不機嫌でした。いえ、最初はそうでもなかったのですよ。しかし、休憩時間に入って話しかけてきたひなたからの「なんだか鼻声だね、風邪でも引いた?」の一言から始まり、昨晩の出来事を一部始終話してみたら――これです。

 まったく、なんなんでしょうね。せっかく夕暮れ迫る校舎のあいまを抜けてひなたの勇姿を見に来たというのに、なにをぷんすかしているのでしょう。わたしが元気になったのがそんなにも気に入りませんか? もしや熱があるくらいのほうがおとなしくてちょうどいいとか? やめてください、悲しすぎます。


「僕が言いたいのは、そんなことじゃない」

「じゃあ、どんなことですか」


 はっきり言ってくれなければわかりませんよ。

 すると、ひなたはイライラした気分を隠すことなく、大きな溜め息をひとつ吐き出しました。それから、わたしをじっと見据えます。切れ長のクールな瞳に射貫かれ、不覚にも胸がどきりと脈打ちます。

 ひなたは言いました。


「つまり――沙雫は昨晩、その『オオカミサン』とやらの家に泊まったわけだね?」


 思わず目をぱちくりとさせました。

 そんなこと、言われるなんて思ってもみませんでしたから。

 わたしは頬を掻きました。


「ええと……それがなにか?」

「『なにか?』じゃないっ!」


 ひいい。急に怒鳴られました。怖いです、恐怖です。思わず頭を両手で覆います。


「な、なんですか、いきなり」

「いいかい、沙雫。これだけははっきり言っておく。僕は今、とても怒っているよ。猛烈に、だ。『仏のひなた』とまで言われた僕がこんなにも怒っているんだ、これは相当なことだよ」


 仏のひなた? なんでしょう、それ。初耳です。誰がそんなことを言っているのですかね。少なくともわたしは言っていませんよ。一言だってね。


 そっとひなたを見上げます。

 ひなたは怒っていると言いました。しかも、猛烈に。確かに、なにかに憤っているのは見ればわかります。普段のひなたなら、こんな怖い顔はしませんから。

 ……だけど。わたしはひなたの怒っている理由がまったくもってわかりません。わたしに対して怒りを憶えているというのは誰の目にも明らかなのですが、理由がわからなければ謝りようもありません。知らないあいだに足でも踏んでいたのでしょうか。それならそうと声を掛けてくれればよかったのに。


「なんで……どうしてそんなに怒るのですか」

「当たり前だろう!」


 ぐっとこぶしを握り、ひなたはめいっぱいに感情を込めた声で言いました。


「だって……だって、僕の沙雫が見知らぬ男の家に泊まったんだぞ! 怒り狂うのも無理ないよ!」


 え。僕の沙雫? 僕の沙雫、ですか?

 ……わたしはいつ、ひなたのものになりましたか。それも初耳です。


「確かに大神さんは男性ですが、ひなたが思うような悪い人ではありませんよ」

「ああ、沙雫は無知だ、無知すぎる」

「なにがですか」

「いいかい。男というのはね、そんなに生優しい生き物じゃないんだよ。隙あらば女の子を食べようとしている、とても恐ろしい生き物なんだ!」


 なんと! それは知りませんでした。恐ろしいです。それこそ狼さんのようです。


「でもでも、大神さんはわたしを食べるどころか、逆に食べさせてくれましたよ?」


 ケーキとか、おかゆとか。


「ぎ、逆に食べさせただって……?」

「ええ、飲ませてもくれました」


 レモンティーとか。


「飲ませてもくれただって!」


 発狂寸前……いえ、すでに発狂していますね。なにをそんなに騒ぐことがあるのでしょうか。普通じゃないですか、それくらい。


 ひなたの目が、驚愕と興奮のあまり白黒し始めました。それから頭を抱えて、一点をじいっと見つめながら、なにやらぶつぶつとひとりごとを言っています。これはいけません。ひなた、カムバックです。


「あの、ひなた、大丈夫ですか」

「大丈夫なもんか……。だって僕の沙雫が汚されたんだぞ……。あの純粋で清純で純潔の沙雫が……」


 なにを言っているんでしょう。わたしは今でも純粋無垢な少女のままですよ。


「とにかく、大神さんはそんな悪い人ではありません。安心してください」

「……沙雫は誰に対してもそう言うよ」

「言いませんよ。信用に値する人だけです」

「違う。だって沙雫は、に対しても『悪い人じゃない』と言った。その時点で僕は信じられない」


 ……あの男。つまりは、わたしの彼氏さんのことです。

 またその話か……と、小さく溜め息を吐きます。


「ひなた、そのことはもう」

「いい加減にしてくれないか!」


 びくりと肩を震わせました。

 予想もしなかったひなたの大声に、わたしは息をのみます。


 ……怒っている、のでしょうか。そんなにも。そうやってイライラして怒鳴りつけるほど、わたしのことを。

 ひなたの手もとに目をやると、ふるふると細かく震えているのがわかります。原因はきっと、わたしです。ひなたを怒らせてしまったのは、わたしなのです。それはちゃんとわかるのに……ひなたの言いたいことが、本当の心がわかりません。だから謝ることもできずに……もどかしくて、たまりません。


 ひなたの鋭く突くような視線は、確実にわたしをとらえていました。


「……沙雫は、なにもわかっていない」


 低く響くような声で、ひなたは言います。


「男の怖さも、あの男の真実も、――僕の気持ちも、わかっていない」


 ひなたの、気持ち。


「僕は何度も言った。沙雫に振り向いてほしくて、何度も言ったんだ。だけど沙雫は、僕のことなんか全然見ていない。一瞬だって見てくれない。見ているのは、僕を通り越した先にあるものだけだった。いつも……いつでも」


 じゃり、と。地面に敷き詰められた小石を踏みしめる音に、はっとします。ひなたが少しずつわたしとの距離を縮めてくるのです。一歩ずつ、一歩ずつ。

 ――怖い。初めて、幼なじみに対して、そう思いました。だって、こんなひなたは見たことがありません。こんなふうに、こんな目で……わたしを見るなんて。

 じゃり、じゃり、と近づく音。こういうのを条件反射というのでしょうか。わたしは後ろへ下がります。


「逃げるな」


 まるで、わたしの知っているひなたではないような声でした。こんなひなたは初めてです。こんなの、ひなたじゃありません。怖くて、恐ろしくて……人を食らうような獣のような目をしていて。

 わたしはふるふると首を横に振ります。


「あの、あの、ひなた。どうしたんですか、なんだかちょっと変です」

「僕は普通だ、なにも変じゃない」

「いいえ、変です、おかしいです。いつものひなたとは違います。だって、いつものひなたはもっと、優しくて、明るくて、にこやかで……そんな、こんなふうに怖い顔なんて――きゃあっ」


 鈍い痛みを背中に感じました。

 背後には、体育館の壁。正面には、真剣な眼差しのひなた。そして肩には、爪が食い入るほどに強く掴む両手があります。

 背中に押し当てられたステンレスの板はあまりにも冷たくて……心までも冷えさせるようで。


「ねえ。もっと僕を見て、沙雫。現実を見てよ。僕には他の誰よりも沙雫を大切にできる絶対的な自信がある」

「そんなの……無理、ですよ……」

「無理じゃない」


 いいえ。無理です。無理なんです。そんなこと、できるわけがないのです。

 ねえ、ひなた。現実を見なければいけないのは、わたしだけではないはずです。ひなただって、現実から逃げている人間の一人じゃないですか。だって、あなたも本当は気づいているんでしょう?


 ――わたしたちは、“友人以上の関係には一生なれっこない”ということを。


「なにをしたって無理なんです。いくら告白されたって、好きだと言われたって、わたしはあなたに振り向いてあげることはできません」

「なぜ」

「なぜって……」

「なぜ、そう言い切れる?」


 ひなたは、くちびるを噛み締めました。

 ああ――変わらない、と。昔からあなたはそうだったと、こんな状況でもわたしは、その表情に胸が締め付けられるほどのなつかしさを感じていました。小さい頃から、ずっとそう。なにかうまくいかないことがあるたびに、誰にも見えない場所でそうやってくちびるを噛んで、静かに悔しさをこらえていましたよね。悔しくて、苦しくて、だけど言葉にすることはなくて。そのたびにわたしはあなたを支えてきたつもりです。支える、なんて大げさかもしれないけれど。でも、いつだってわたしがその背中を撫でてきたのです。わたしがいますよと、だからきっと大丈夫ですよと、そっとうしろから声をかけて。

 ――だけど、今は、それができません。……自分に嘘は、つけないから。


「ごめんなさい、ひなた」

「……やめろ」

「なにを言われても、わたしの気持ちは変わりません」

「やめてくれ」

「あなたはわたしの『友人』です。それ以上でも、以下でもなく」

「嫌だ、認めない」

「ひなた」


「――僕は!」


 校舎と校舎のはざまで叫んだ声が共鳴します。

 体育館裏に差す強い夕陽は、ひなたを真っ赤に染めあげました。


「沙雫を、愛してる」


 ……そのときに、こんなにも長く一緒にいたのに初めて触れた友人のくちびるは、あのときに飲んだレモンティーよりも、苦く、冷たいものでした。

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