第10話 すべてなにかのせいにするならば

 ちょっと聞いてください。

 幼い頃からそうなんですけれどね。わたし、熱を出すと毎回必ず同じ夢を見るんです。

 そこは一面、ピンクや黄色やオレンジのきれいなお花畑。そしてわたしはそこに一人ぽつんとたたずんでいて。目の前には一本の木製のレールがあって、一定の時刻になるとボーッと音を立てながら汽車が通り過ぎていくんです。わたしはそれを、何時間も何時間もただ見つめているだけなのですが――。


「……そりゃあ、おまえ、三途の川みたいなものだろう。その汽車、乗ったら死ぬぞ」

「この話をすると皆さん決まってそうおっしゃいます」


 でも、どこを探しても駅らしきものは見当たらないので、きっと乗ることはできないと思います。回送列車なのでしょうかね。それもそれで怖い気がしますが。

 まあ、もしその汽車に乗れるようなことがあっても、乗らないようにはしましょう。確かにわたしも少し恐ろしいと感じますし。


「とりあえず、タオルを絞っておいたから、これを額に乗せておけ。少しは違うだろう。いちおう氷枕も作っておくか」

「……かたじけない」


 ええ、そうです。わたし、熱を出してしまいました。


 驚きましたよ。わたしの頬に大神さんの手をあてがったとき、彼が突然言うのですから。「おまえ、熱があるぞ」って。

 慌てて体温をはかれば三十九度の高熱でした。正直、自覚なんて微塵もありませんでしたよ。ただちょっと体が熱いなと思うだけで。それすらも気温のせいだと思ってましたし。鈍感ですね、わたし。

 今思えば、今日学校にいるときにはめまいを起こしていました。たぶん、それも熱から来るものだったのでしょう。自分では気づかなかっただけで、きっと朝から体調は芳しくなかったのです。

 いろいろと、少し無理をしてしまったのかもしれません。めまいがしている時点でおかしいのですから、本当なら自宅でゆっくり休むべきなのです。……けれど、わたしはそれどころじゃなかった。一刻も早く大神さんのところへ行って、会いた……じゃなくて帽子を受け取りたかったのですから。


 森の中を走っているときは、自分の体調のことなんてすっかり忘れていました。こうして熱がいっきに上がってしまったのは、きっと大神さんの顔を見て安心し、気が緩んだのでしょう。……そういうことにしておいてください。


 そして今はというと――大変恐縮ながら大神さんのベッドをお借りして横になっているところです。なんというか本当にタイミングが悪いです。自分で自分が心底情けないです。なにをやっているんでしょうね、ほんと。


「まだ熱が高いな……。今日はおとなしく寝ていたほうがいい。時間も時間だし、なによりここから二時間も掛けて歩いて帰れるとは思えない」


 狼さんに食べられる前に力尽きるでしょうね。狼さんだって、そんな状態の悪いモノを食べたくはないでしょう。きっとおいしくないですし。


「親には連絡したのか?」

「先ほど母にメールを送りました。今日は友人の家に泊まると」


 友人――という言葉にもいささか疑問を感じますが。まあ、この場合は致し方ないでしょう。嘘も方便です。だって大神さんのことを説明するときに、それ以外になんと言ったらいいのでしょうか。まさか「知り合いの男性」だなんてバカ正直に言えるわけもないですし。もしそのまま伝えたら、母が発狂してしまいそうです。「嫁入り前の娘なのに」なんてヒステリックに大声で喚きながらえんえんと。父だってきっとおんなじです。どうせ「そんなふうに育てた憶えはない」だのなんだの言いながらおいおい泣くのでしょう。考えただけでも面倒くさ……いえ、恐ろしいです。なにがなんでも絶対に間違いなく避けたい事態です。


 大神さんが、ふうん、と鼻を鳴らします。


「泊まるとは言っても、熱があるとは言っていないんだな」

「はい、言っていません」

「言わないのか」

「それを言ったら、きっと帰ってこいと言われます」

「言われたら帰ればいいだろう」


 なにを言っているんだか、とでも言うように大神さんは首をかたむけます。

 わたしは目を細め、相手をじっと見つめました。


「……なんだ、その目は」

「いえ、べつに」

「べつにって目じゃないだろう。言いたいことがあるんならはっきり言え」

「ふんだ。べつになんでもないですよーだ」

「……なんだ。変な奴だな」


 む。大神さんに言われたくありません。

 あーあ。呆れます。なんていうか、大神さんって本当に鈍感なんですね。わたしも相当鈍いと思いますが、わたしの五倍、いえ十倍、いや百倍は鈍いです。

 だって「帰ってこいと言われるのが嫌だ」と言ったら、多くのかたは察してくれると思いますよ。普通ならね。大抵の人は「ああ、まだ一緒にいたいんだな」と考えてくれるところ、大神さんは「ただ家に帰りたくない駄々っ子、わがまま娘」くらいにしか思わないのです。駆け引きなんて到底できっこありません。乙女心をちっとも理解できていない、おたんちんです。


 ぷうっと頬をふくらませていると、大神さんはわたしの頭をぽんと撫でてきました。彼を見上げます。いつものように無表情ではありますが――その手は、とてもあたたかいです。


「今日はそこで寝ろ。おまえは病人だからな。特別に貸してやる」

「……大神さんはどこで寝るのですか?」

「リビングのソファだ」


 言われてみれば、確かにリビングにはブラウンのソファがありました。初めて見たときに、ずいぶんふかふかしているな、とか、座り心地がよさそうだ、とか、そのようなことを思ったのを憶えています。でも、あれは確か三人掛けほどの大きさだったような。成人女性くらいの身長であれば十分横になれると思いますが、なにしろ大神さんは大柄ですから、あのソファでは安眠できない気がします。上半身は横になれても、下半身は床に投げ出す形になるのでは。


「……わたしだけがここで寝るのは、なんだか申し訳ないです……」


 顔の半分に毛布をかけて、ぼそりと小さな小さな声で呟きます。大きな声で言うのは、あまりにも恥ずかしいせりふでした。だって、これって、なんだか「ここで一緒に寝ませんか」とお誘いしているようなものじゃないですか。そんなはれんちな。違いますよ、違うんですよ。わたしはただ、客人であるわたしが、この家の持ち主である彼を差し置いて、この場所で寝るのは申し訳ないと……そういう意味で言ったのです。本当です。他に意味なんてなんにもないんですから。


 ……と、心の中で一人無意味な言い訳をしていると、大神さんはわたしの頭から手を降ろし、妙に冷静な声で言いました。


「病人は黙って言うことを聞いていればいい」


 あ。スルーですね。スルーしやがりましたね。

 なんて人でしょう。確かに言い訳をして濁しましたが、でもあまりに鈍感すぎやしませんか。それとも、わざと? 知らんぷりをしているのでしょうか? 本当の本当に、なーんにも気づいていないんでしょうか。

 ……あ、いえ、べつに一緒に寝たかったわけではありませんよ。断じて。こんな大きな体をしている人と寝台を共にしたら、きっとわたしは踏み潰されてしまうに違いないです。そんな身の危険を冒してまで寝たいとは、さすがのわたしも思いません。


 ……でも。

 なんだか少し。ほんの少しばかり、ですが。


「……寂しいです」

「は?」

「自分でもよくわからないのですが……今、一人になるのは寂しいです。だから、その、……わたしが眠るまで、ここにいてくれませんか……?」


 おや? なんでしょう。急に頬が熱くなってきました。いえ、これは、体全体が、といったほうが正しいかもしれません。胸もドキドキと音を立てて、なんだかちょっと苦しいです。

 もしかして、また熱が上がってきたのでしょうか。それは困ります。来週は、学校で重要な試験があるのです。それを受けなければまともに成績に響いてしまうので、さすがに休むことはできません。もちろん、明日だっていつもどおり授業を受けるつもりです。一時間でも欠席すれば、その分置いていかれますから。


 ……それにしても。

 大神さんはなぜか瞠目したまま、ぴくりとも動きません。

 なぜでしょう。わたし、そんなに変なことを言いました?


「大神さん?」


 とりあえず、顔の目の前で手をひらひらと振ってみます。大神さんの焦げ茶色の瞳の中のわたしが、こちらへ向かって手を振り返してくれました。おーい。ふふ、手を振るのがなんだか楽しくなってきました。素早く手を振れば、向こう側のわたしも必死に振り返してくれます。いえ、当たり前のことなのですがね。昔からこういう一人遊びは得意だったのです。向こう側のわたしにもちゃんと人格はあって、でもそれはわたしとは正反対のもので、なんて設定を考えたりして。ああ、懐かしいですね。もっと手を振れば、向こう側のわたしも喜んでくれるのではないでしょうか。


 ……なんて考えていると、ようやく大神さんの目がぱちぱちと瞬かれました。

 あれ、わたし、なにをしていたんでしたっけ。……ああ、そうそう。大神さんの精神が遠くへ行ってしまったようだったので、引き戻すために手を振っていたんでした。目的をすっかり忘れてしまっていましたが、無事思い出せました。わたしも熱があるので、少しおかしくなっているのかもしれませんね。


 なにはともあれ、大神さんはやっと気づいてくれたようです。


「大神さん、大神さん。わたしの声、聞こえていますか」

「あ、ああ、聞こえている」

「よかったです。では、さっきのわたしの話は聞いていましたか」

「ああ、ええと……なんだったかな。もう一度言ってくれないか」


 なんですか。聞いていなかったのですか。あんな恥ずかしいせりふをもう一度言えだなんて、鬼ですね。悪魔です。大神さんは狼さんより、よっぽど意地悪だと思います。


 でも、そうですね。

 ……べつに、嫌ではありません。


「し、仕方ありません。一度だけですよ? 特別に、もう一度だけ言いますと……。一人は寂しいので、わたしが寝るまでここを離れないでください……と言ったのです……」


 もじもじしながら言いました。大神さんの喉がごくりと鳴ります。顔を見てみると、頬のあたりが若干赤くなっているのがわかりました。もしかして、わたしの熱がうつってしまいましたか。


「……おまえ」

「はい」

「よくそんな恥ずかしいせりふを二度も言えたな」


 はあ!? 一度目、聞こえてるじゃないですか!


「にっ、二度も言えと言ったのは大神さんですよ! わたしだってこんなこと何度も言いたくないですよ! 恥ずかしいとわかっているなら言わせないでください!」

「一回目は聞き間違いかと思ったんだ。まさか……本当にそう言っているとは思わなかった」


 大きな手を口もとへあてて、大神さんはわたしから目をそらせます。

 ……あれ? もしかして大神さん、照れてます?

 そう思うと、なんだかわたしもなおさら恥ずかしくなってきました。ああ、後悔です。ストレートすぎました。もう少し言葉を濁せばよかったです。部屋全体が変な空気に包まれます。

 耐えきれず、小さく咳払いをしてごまかしました。


「と、とにかく。わたしの言っていることを理解してくれたならば、ここにいてくださいね」

「嫌だ」


 ええっ! なんですかそれ、即答ですか。しかも真顔ですね。怖いです。豹変です。さっきまで顔を赤くしていたくせにいったいどうしちゃったんですか。意味がわからないのですけど。


「嫌だってどういうことですか」

「どうもこうもない。嫌と言ったら嫌なんだ」

「なぜですか! そこは微笑んでわたしの手を握るところでしょう! ほんとのほんとに意味不明です!」

「ふん、少女漫画の読みすぎだな。現実はそうもいかないってことを教えてやる」


 ちょいちょいちょい。なんで急にそんな上から目線なんですか。なんだか腹が立ちますね。枕を顔面にぶん投げてやりたい気分です。さっきのわたしの乙女の恥じらいを返しやがれです。一人でもじもじしちゃって、バカみたいじゃないですか。


「大神さんの意地悪……」

「意地が悪くて結構。とにかく、おまえはそこで寝ていろ。今、粥でも作ってやる」


 言いながら、大神さんは部屋を出ていこうと立ち上がりました。そのまま扉へ一歩一歩近づいて、ドアノブへと手をかけます。


「ま、待ってください!」


 思わず上半身を起き上がらせ、呼び止めました。

 大神さんがこちらへ振り向きます。


「どうした。粥は苦手か」

「いえ、おかゆは大好物です。できれば白粥でお願いしたいです」

「じゃあなんだ」


 なんだ、って。

 ああ、もう、本当に……大神さんは鈍いです。鈍すぎます。これだけ言ってもわからないなんて、わざとやっているようにしか思えません。ていうか、わざとやっていますよね? そうなんですよね? そうじゃなければ神経を疑いますよ。


 ……だってわたしは、本当に寂しいと思っているのですから。


「……寝るまででなくてもかまいません。もう少し、あともう少しだけ……ここにいてくれませんか」

「甘えるな」

「甘えたいです」


 はっきりと伝えます。

 わたし、甘えたいです。話したいです。そばにいたいです。理由は自分でもわかりませんが、今はあなたに触れていたいのです。

 だから、ここにいてください。


「……やけに素直だな」

「そうですね。でも、いい加減わたしも自分に正直にならないと、人生損をする気がしてきました」


 そう言うと、大神さんはふっと小さく笑いました。


「今ごろ気づいたのか」


 開きかけたドアはまたぱたりと閉められ、大神さんが再びこちらへ近づいてきます。部屋の隅っこに置いてあった小さな木製の椅子をベッドの近くへ持ってきて、そこへゆっくりと腰をおろしました。わたしの肩を押し、そっとベッドへ寝かせると、大きな手で優しくタオルケットをかけてくれます。

 やっぱり優しいです。いろいろ思うところはあるけれど――大神さんは、とても素敵な人です。


「大神さん」

「なんだ」

「熱いです」

「熱があるんだから、当たり前だろう」


 そうですね。熱があるのですから当たり前ですね。

 だから……。


 この脈の速さも。

 呼吸の乱れも。

 体温の急上昇も。


 ……これってきっと、すべて熱のせいなのですよね?

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