第9話 溢れ出した涙のわけは(1)

 そういえば、昔こんなことがありました。


 あれは確か、わたしが小学一年生の頃。父と母とわたしの三人で、町のレストランへ入ったときのことです。

 わたしはそこへ行くと必ずお子さまランチを頼んでいました。子どもなら誰でもテンションが上がるであろうハンバーグやエビフライが乗っていて、その横には彩り豊かなブロッコリーやにんじんが添えてあって、子どもの手のひらほどのチキンライスにはかわいらしい国旗の飾りが立てられて、そしてさくらんぼの乗ったプリンまであって――そんな子どもの夢が詰まったようなプレートは、見ているだけでわくわくしたものです。

 とはいえ、それを選ぶいちばんの理由は、やっぱりおもちゃがもらえることでした。バスケットには溢れんばかりに色とりどりの小さなおもちゃが入っていて、その中でたったひとつだけを選ぶのに何分も何十分もかけていた記憶があります。


 その日もわたしは、いつものようにお子さまランチを注文する予定でした。レジの前に置かれたおもちゃの入ったバスケットを見て、今日はどれをもらおうかと楽しみにしていたのです。

 ホールスタッフがわたしたち家族をテーブルへ案内してくれました。そのテーブルの隣には、わたしより少し年下の少女……いえ、幼女を連れたご家族がすでに座っていました。ちょうどメニューを注文していたときで、自然とその会話が聞こえてきます。


 そのご家族のお父さまは言いました。


「わたしには国産牛頬肉の赤ワイン煮込みと黒豆のポタージュを」


 ホールスタッフが微笑み、すかさずメモをとります。

 次に、隣のお母さまが言いました。


「タスマニア牛フィレのグリル、それと林檎のキャラメリゼをいただけるかしら」


 同じようにホールスタッフはメモをとります。

 そして、最後に幼女が言いました。舌足らずな、子どもらしい無邪気な声で、


「あたしは、ながなすとぎゅうひきにくのボロネーゼをおねがいするわ」


 衝撃の一言です。幼いわたしは、それはそれはもう大きすぎる衝撃を受けました。

 子どもはみなお子さまランチを頼むのは当たり前だと思っていたのです。いいえ、むしろ義務だと思っていました。子どもは子どもらしくお子さまランチを注文し、ついてくるおもちゃに興奮するのが義務なのだと。それが子どもとしての真の在りかたであると。それなのに、ボロネーゼ。ボロネーゼってなんですか。なんなんですかいったいそれは。わたしの頭の中はもうぐちゃぐちゃに混乱していました。

 そう。その幼女はわたしの中の常識を簡単に覆したのです。


 さらに、衝撃を受けたのはそれだけではありませんでした。

 ホールスタッフが親切に「お子さまメニューを頼みますと無料でドリンクをおつけいたしますがいかがいたしましょう」と問うと、その幼女はこんなことも言いました。


「ドリンクなんていらないわ。おこさまメニューはこどもっぽくてきらいなの」


 ああ……ああ。もう聞いていられません。今にも卒倒してしまいそうでした。子どもっぽくて嫌いとは、いったい何事かと。じゃああなたはいったいなんだと、子どもでないのならなんなのだと喉まで出掛かりました。しかもその幼女、長い髪をさらりと揺らしながら「あんなそまつなおもちゃであたしがよろこぶとでもおもっているのかしら」だなんて言うものだから、わたしはもう発狂寸前でした。


 しかし、わたしにも意地があります。プライドがあります。いてもたってもいられなくなったわたしは、母が見ているメニュー表を横取りして食い入るように大人の料理に目をやりました。そのときの父と母は、目を丸くしていたと思います。「そんなに腹が空いているのか」なんてお門違いなことを呟きながら。


 いざ注文するときに、父が声をかけてきました。


「沙雫はいつものでいいんだったな。では、お子さまランチを……」

「――そんな幼稚なもの食べられますかっ!」


 テーブルを叩く勢いで、いえ、実際叩きながら、わたしは父の言葉を遮りました。

 そして呆然とする父と母の目の前で、わたしはホールスタッフに向かって、まるで生まれて初めて魔法の呪文を唱えるみたいに、声を震わせながら注文したのです。


「ふぉ、ふぉあぐらの、ぽわれをひとつ」


 フォアグラがなんなのかも、ポワレの意味さえも知らないくせに。

 それから聞かなければいいものの、わたしは父にフォアグラとはなにかと質問をしてしまいました。真面目な性格の父は、それはそれは丁寧に事細やかにそれの説明をしてくださって。幼いわたしの耳にはそのすべてがひどく残酷に響いて。……実際、料理が運ばれてくると、事前に仕入れてしまった情報とその期待を裏切らないグロテスクな見た目に、わたしは結局一口たりとも食べることなく、皿の上にやたらと洒落っ気たっぷりに趣味悪く盛られた鳥の肝臓をひたすら凝視していたのです。

 ……ええと、まあ、そうですね。あのときからわたしは、生意気にもフォアグラを食わず嫌いになったのでした。



「――ほう? なるほどな」

「ええ、そうなのです」


 玄関先でドアに寄りかかった大神さんが、わたしを見下ろしています。いえ、どちらかと言えば見下しています。視線が氷のように冷たいです。そんなふうに見られてはこちらの目が泳いでしまいます。


「でも、でもですよ。本当は、あのとき食べなかったことを少しだけ後悔しているのです。頼んだ本人が一口たりとも食べずに帰っただなんて、あのポワレのために天国へ旅立ったガチョウさんは浮かばれません。おれはなんのために死んだんだって、きっと怒っていると思うのです。ガァガァ、グワグワと鳴きながら。とはいえ、きっとフォアグラなんて贅沢品は子どもの口には合いません。そりゃあ今食べれば多少は違うと思うのですが、なにせあれがトラウマとなってしまって、いまだに二回目のフォアグラは頼んだことがないのです」

「そうか。いらん心配をするな。おまえがフォアグラを嫌いだと公言したところで、うちにはそんな高級食材はない」


 いえ、まあ、夕飯をごちそうになりに来たわけではないのですがね。出されてもきっと吐き気をもよおしてしまって、食べられないでしょうし。


 大神さんはすっと目を細めました。


「それにしても、おまえがいいところのお嬢様だったとはな」

「え、どうしてそう思うのです?」


 目を瞬かせ問うと、溜め息が聞こえます。


「当たり前だろう。この森の近隣に住みながらガチョウの肝臓があるような町の高級レストランに何度も行く家もなかなか珍しい。少なくとも、俺は行ったことが一度もない。だからフォアグラなんてのは食べたことがない。目にしたこともない。ガチョウ自体ならこの先にある池でいつも見ているがな」


 ははあ、なるほど。大神さんは、てもとふにょいな生活でしたか。

 ううん……あまり意識したことはありませんでしたが、言われてみれば、もしかしたらわたしの家は他の家庭に比べ、裕福なほうなのかもしれません。まあ両親が共働きで、なおかつ父は毎日残業をしていて、それだけ労働していればお金も貯まって当然です。レストランで食事をするのは今までに何百回とありますが、その他無駄遣いをしている様子はありませんし。なにより母は貯金が趣味のような人なので、わたしの家がたくさんお金を持っていてもなんの不思議もありません。かと言ってわたしのお小遣いが増えるわけではないですし、とくにいいことはないのですけど。


「……で?」

「へ?」


 大神さんが顔をぐっと近くに寄せてきます。

 思わず体を後ろにそらしました。


「結局おまえはなにを言いにここまで来た? もう二度と会わないと言ったのは、つい昨日の話だったな?」

「べ、べつに二度と会わないと言ったわけではありません、二度と会えないかもしれないと、そう言ったのです、それだけです」

「あの状況であの言いかたじゃどっちでも同じだ。まさか思い出話をするために来たわけでもないだろうに」

「だ、だから、その」

「俺にはどうしておまえが今ここにいるのかが理解できないのだが?」

「だから!」


 だから。つまり。わたしはなにが言いたいかって――。


 結局わたしは、自尊心が高いのです。あまのじゃくなのです。ひねくれ者なのです。素直になれないのは、わたしの昔からの悪癖でした。


 あの幼き日。わたしは本当にほしいものを我慢して、無理をして、強がって、そして最後には後悔して泣いたのです。何度も胸の中で叫びました。素直になっていればよかったと。たかがおまけのおもちゃくらいで、と思うでしょう。でもそのときのわたしには、とても、とても大きなことでした。


 だから、今回のこの大神さんとの一件も、きっとあとになってからひどく後悔するのではないかと思ったのです。いえ、すでに後悔の嵐でした。なぜこんなことになったのかと、暇さえあれば自問自答して。いくら考えたって答えなんて出ないのですけど。でも、そこまでわたしは、ずっと、ずうっと、そのことだけを考えてしまっていたのです。どうしようもないことだけど、どうしようもないままでいられなくて、どうにかしたくて、どうにもならなくて。


 まあ、その、とにかくですね……。

 つまるところ、大神さんとの最後があんな悲しい別れだなんてあまりにも寂しすぎるので、「ごめんなさい」の一言を言いにきたってわけ、なのです。


 ……ですが……。


「…………」

「…………」


 い、言えるわけありませんっ!

 なんですかこの間は。この空気は。こんなの、どうしたって無理です。そりゃ謝りたいですよ、謝りたいですけど、この素直じゃない性格はそんなにすぐには直りません。父親ゆずりの頑固さと、母親ゆずりの意地っ張りは、遺伝子レベルでしっかりとこの上なくがっちりとわたしの体に刻みこまれているのです。


「おい、聞いているのか」

「えっ? あ、はい、もちろん聞いてはいます、けど……」


 ああ。じっとりとした視線が突き刺さります。やめてください。そんな目でわたしを見ないでください。余計に話しづらいです。

 でも、このままではいられません。勇気を出してここまで来たのですから、あと少しの勇気を出して、言うのです。


「……ぼ、帽子を」


 そうです。帽子です。


「忘れた赤い帽子を、受け取りにきました!」

「ほう? 帽子をねえ?」


 大神さんが目を眇めてこちらを見ます。


「む、なんですか! 本当ですよ! わたしは帽子を取りにきたのです!」

「なにを怒っている。べつに俺は疑ってなどいないが?」


 うぐっ。い、いけません。このままじゃ自縄自縛です。墓穴を掘ってしまいます。むやみに喋らないほうがいいですね。少し落ち着いたほうがいいようです。どうどうどう、わたし。


 ……と言いますか、どうしてそんなに見つめてくるのです、さっきから。じろじろと、まじまじと。めちゃくちゃ気になります。やめてもらっていいですか、それ。ただでさえ緊張しているというのに、そんな視線を向けられたらなおさらです。


「まあ、なんだ。……とりあえず、入れ」


 お?


「こんなところで話をしていてもしょうがないだろう。……入れ」


 お、おお?

 なんと中に招き入れていただけましたよ。ありがたいです。もしかしたら「帰れ」と追い返されるかもしれないとすら思っていましたから。


 大神さんが腕を伸ばしてドアを開けてくれています。わたしはその腕の下を、小さな声で「おじゃまします」と言いながらくぐりました。腰をかがめなくても通れてしまいましたから、それだけ大神さんは大柄だということが改めて思い知らされます。ああ、いえ、わたしが小さいわけではないのですよ、決して。


「そこに座っていろ。なにか飲み物を持ってくる」

「あ、お構いなく、です」


 大神さんはわたしを一瞥すると、そのままキッチンへと消えていきました。

 ううん……。なんだか調子が出ません。まだ緊張が取れないのです。まったく、らしくないですね。まわりのことなど知ったものかといった感じで今まで生きてきたというのに。今さらしおらしくなったところで、どうしようもないのは自分でもよくわかっているのですけど。

 いっそのこと、謝ってしまったほうが楽になれる気がします。さっさと、とっとと。わたしはここに言い訳しに来たわけじゃありません。謝りにきたのですから、早いところそうするべきなのです。ええ、そうです、そうしましょう。大神さんがこっちに戻ってきたらチャンスをうかがって謝りましょう。そのほうがいいのです。絶対に。


 ……でも。


「……ちゃんと素直に謝れるでしょうか……」


 不安は、やっぱり拭えません。

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