第8話 あくまであの赤い帽子のために

「だから……だから、彼だけは、わたしの世界をバカにせず、否定せず、真っ直ぐに受け止め認めてくれた唯一の人なんです」


 ひなたの視線が痛いほど突き刺さります。無言の時間が、重く苦しく感じます。くちびるをぎゅうっと噛みました。

 ……そんなわたしの姿を見て、ひなたは大きな溜め息をつきます。


「……沙雫」


 そう名前を呼んで、ゆっくりと近づいてきました。わたしは視線を地面に落としたまま、ひなたを見ようとはしません。

 足音が目の前までやってきました。頭の上に、ぽんとあたたかな手が乗ります。


「僕だって、沙雫の世界を認めているよ」


 よしよしと、ひなたの大きな手のひらが円を描くようにつむじのあたりを撫でてきます。優しい手。まるで年上のきょうだいのようです。

 どうやらひなたまでわたしを子ども扱いする気ですね。本来なら怒っているはずなのですが、今はそういう気分じゃありません。……なにより、こうされても嫌ではないのです。ひなたなら、ひなただから。


「ねえ。知っているだろう。僕も沙雫の世界を認めて受け止めている。沙雫はそのままでいいんだ。なにも変わることなんてない。そう思って生きてきたんだ。沙雫があの男と出逢う、ずっとずっと昔から」

「……そりゃあ、ひなたは」


 幼い頃からずっと一緒に同じ本のページをめくってきましたから。

 わたしだって、ひなたにならいくらでも夢を語れます。妖精のお話や未来の王子様のお話だってできちゃいます。でも、それって違うじゃないですか。なんでも話せる友人の一人。ただ甘えているだけ。……それだけ、なんです。


「僕じゃダメかな」

「…………」

「沙雫の王子様になるのは、僕じゃダメなのかな」


 ひなたの声はあまりにも優しくて、すべてを委ねてしまいたくなります。……それは、まるで、本物の王子様のようで。将来ひなたと結ばれる人は幸せ者だな、なんて思ったりして。きっとその相手には、わたし、嫉妬しちゃうと思います。ひなたをひとりじめできるなんて、うらやましくてしょうがない。


 でも、そう思うのは、わたしはひなたの親友だから。


 幼なじみというのは、なんだか物悲しいものです。長いあいだ近くにいすぎると、ただの友人だったのが、なぜか自分は、自分だけは、相手にとっての“特別”なんじゃないかと勘違いをし始めてしまいます。

 ……だけど、それは違うんですよね。わたしだってわかっています。わたしとひなたは、ただの友人。それ以上でも以下でもなく。

 ひなたは優しすぎるから、それに甘えてはいけないのです。


 だから。

 ひなたがわたしの王子様、だなんて。


 少しばかり考えて、ふっと笑って答えます。


「……ひなた」

「なんだい」

「それ、ちょっと聞き飽きました」


 親しい友人からの告白は、本日めでたく一万回目を迎えました。


 ひなたは、わたしを好きだと言ってくれます。幼い頃からずっと。

 嬉しいことです。ありがたいと思います。こんなわたしに、そんな感情を抱いてくれるだなんて。わたしは幸せです。本当に。

 わたしも、もちろんひなたを好きです。大好きです。でも、何度も言うようですが、それはあくまで友人として。だから恋人にはなれません。わたしの王子様にも、なりえないのです。申し訳ないけれど。


「何度も言っているでしょう。わたしもひなたのことは好きですよ。そう、誰よりも親しい友人だと思っています」

「友人じゃダメじゃないか。僕は沙雫に愛してほしいんだ」

「ええ、愛していますよ、友人として」

「……沙雫、僕の話をちゃんと聞いていた?」


 ひなたをからかうのはおもしろいですね。

 こんな話を笑いながらできるのも、きっと幼なじみの特権でしょう。わたしの幼なじみがひなたで本当によかったです。もし、ただの同級生だったなら……わたしはたぶん、ひなたに話しかけることさえできていないと思います。近づくことすらおこがましいと思っていたかもしれません。

 お互い、不躾なことを言ったり言われたりしているけれど――わたしにとってひなたは、太陽で、宝石で、高嶺の花なのですから。


 話しているうちに、いつのまにか学校へと到着していました。教室の前まで来て、わたしはひなたに手を振ります。いくら一緒にいたいと思っても、クラスばかりは仕方がありません。わたしはAクラス、ひなたはFクラスと離れ離れなのです。

 ひなたは名残惜しそうに手を振り返し、自分のクラスまで続く廊下をぱたぱたと駆けていきました。


 ……さて、お勉強をしましょうか。



 ◇  ◆  ◇



 最悪です。

 今日は一日、まったくと言っていいほど授業に集中できませんでした。なにをするにも上の空で、どういうわけか先生の声が全部右から左に流れていってしまうのです。そのせいで、体育の時間におこなったバレーボールの試合時に、顔面でボールをトスしてしまうという大胆かつ不格好なハプニングもありました。いやあ、あれはかなり痛かったです。まだ鼻がつんとします。大神さんにこんな醜態を晒したら「どんくさい奴だ」と罵ってきそうですね。


「…………」


 ……うわあ、今、結構リアルな想像ができました。

 まったく脳内でも腹が立つ男です。だいたいあれは夢だったと今朝決めたはずではないですか。わたしの脳もわからず屋ですね、本当に。


 さて、授業も終わったことですし、そろそろ帰りましょうか。

 ノートをしまい、鞄を持って、椅子から腰を上げたその瞬間でした。


 ――くらり。視界がゆっくりと回りました。


 おや。なんでしょう、これ。

 机に手を置き、ひと呼吸します。

 これは……めまいでしょうか? もしくは貧血? そういえば最近お肉を食べていませんでした。甘いものばかりを食べていた気がします。クッキーだのケーキだの。近頃は食欲もなく、母が作ってくれる夕飯もあまり食べられていないのです。体調も芳しくないですし……なんだか調子が悪いですね。生活の改善が必要です。


「あれ? 赤井さん、大丈夫?」


 目の前に、くりくりおめめの少女が現われました。

 一瞬、誰だっけ、と思いましたが、すぐに思い出しました。声をかけてきてくれたのはクラスメイトの女の子です。いつもニコニコと笑っている、かわいらしい印象の彼女。世の中の男子はきっとこういう子を好きになるのでしょう。わたしと違って胸も大きいですし。

 わたしの顔を覗き込み、心配そうに見つめてきます。


「なんだか顔色がおかしいみたいだけれど」

「顔がおかしいですって!」

「あ、ううん、そうじゃなくて、顔色」


 ああ、なんですか。驚きました。ほっと胸をなでおろします。今朝、ひなたが変なことを言うので少し敏感になっていたようです。


 わたしはその子に笑顔を見せました。


「ありがとうございます。ただめまいがしただけですので、ご心配なく」

「そう? それならいいんだけれど。赤井さん、頑張り屋さんだから心配で。あまり無理しちゃダメよ。お大事にね!」


 そう言って、その子は手を振り帰っていきました。

 優しい子です。あまりお話ししたことのない子でしたが、こうして気にかけてくれるのはとてもありがたいことです。ぜひ仲のよい友人になりたいです。あの子は胸が大きいことで有名なので、今度巨乳になる秘訣を教えてもらいましょう。以前、誰かから牛乳を飲むといいということを聞きましたが、実践したところ胸どころか身長さえ大きくなりませんでした。あれは嘘です。ガセネタです。身をもって体験したわたしが言うのですから間違いはないです。


 わたしは鞄を抱え、教室をあとにしました。今朝と同じように、汽車に乗って家路へつきます。

 そういえば、帰りはひなたに会いませんでした。予定がなければ、いつも部活に向かう前には必ずわたしのことを待ち伏……いえ、待っていてくれるのに。きっと今日は早めに部活に行ったのでしょうね。ご苦労様です。今度飲み物の差し入れでも持って応援に行きましょうか。スポーツをしているときのひなたは、普段の百倍かっこいいのです。


 長い道のりをへて、やっと家へ到着したとき。父と母はまだ帰っていませんでした。きっと母は買い出しで、父は残業でしょう。「おかえり」という声が聞こえないのは少し寂しいですが、仕方ありません。お二人ともお忙しいかたですから。


 自室へ入り、ベッドに腰掛け、ふうっと息を吐きます。ふと部屋の端にあるコートスタンドへ目をやりました。

 お気に入りの赤いポンチョがかかっています。胸元についているキラキラした大きいリボンのビジューが素敵です。うん、やっぱりとってもかわいいです。ちょっと金額の張る品物でしたが、買ってよかったと思います。


 わたしは赤が大好きです。わたしの大好きな物語のあの子も、赤をいつも身につけていましたから。わたしにとって元気が出る色です。赤はわたしのパーソナルカラーなのです。祖母もよく「沙雫は赤が似合うね」と言って髪を撫でてくれますし、彼氏さんだって前にそう言ってくれ……ましたっけ。言われてなかったかな。どっちだったでしょう、忘れてしまいました。


 ……そうそう、この赤いポンチョには、赤いニットのベレー帽がとてもよく合います。母に頼まれたおつかいの最中に街で見つけて、ひとめぼれをして買ったものです。食材の買い出しに行ったはずなのに、洋服店のショッピング袋をさげて帰ってきたわたしに母はひどく呆れた顔をしていましたが。まあ、でも、母も父に内緒でアクセサリーを買ったりしているし、お互い様ですよね。女というのはそういう生き物なのですから。


 で、その赤い帽子。

 わたしのお気に入りのひとつなのですが……。


 ……ええと、どこに置いたのでしたっけ。部屋をぐるりと見回しました。

 ……む? おかしいですね。もう一度、部屋をぐるりと見回しました。

 むむ……? お、おかしいです。思わずベッドから立ち上がり、部屋の中を一周歩きます。


「……な、ない」


 ないです。ないのです。わたしのお気に入りの赤いニットのベレー帽がどこにも見当たりません!


 なぜでしょう? どうしてでしょう? わたし、どこへ置いてきてしまったのでしょうか?

 頭を抱えたり、おろおろしたり、一人落ち着きなく部屋を歩き回ります。


 いけません、こんなことをしている場合ではないのです。思い出しましょう。しっかり思い出すのです。

 こめかみに人差し指を置き、記憶をぐぐっとさかのぼります。

 最後にあれを身につけて出掛けたのは、確か昨日でした。母に頼まれ、祖母の家まで行ったのです。その途中で大神さんに出逢い、別れを告げ、祖母の家に到着しました。そのときはまだ身につけていたのを憶えています。それから日が暮れて、夜の森を走っていたら再び大神さんに出逢い、また家の中でお話しをしたのでしたっけ。紅茶を飲んで、ケーキを作って、ささいなことから喧嘩になり、そしてわたしはそのまま彼の家を飛び出したのです。


 ……そのまま、彼の家を、飛び出したのです……?


「…………!」


 そうです、そうです。あのときです。わたしは大神さんの家で帽子を脱いで、そのまま忘れてきてしまったのです!

 ああっ、なんてこと。赤井沙雫、一生の不覚です!

 あんな別れかたをしておいて、いまさらどうして彼の前に姿を現せられるでしょう。嫌です! 無理です! 不可能です!


 ……でも、でもですよ。

 わたしは大神さんの家を知っていても、大神さんはわたしの家を知りません。帽子を返してもらうには、どうしたってわたしが彼のもとへ出向くしか他に方法がないのです。

 そうです。仕方のないことなのです。本当は行きたくなんてありません。嘘ではないですよ。誰があんなオオカミ男なんかに会いたいですか。無愛想で、ぶっきらぼうで、そのくせ人の心をズバズバ読んできて、料理や裁縫が得意だったりして、優しいのか無神経なのかわからないような男です。べつに会いたくなんてないですよ、微塵も。単にわたしはあの帽子が大事で、大切で、お気に入りで、だからこそ返してもらいにいくのです。決して、もう二度と会えないことが寂しいからなんかではないんですからね!


「……と、とりあえず向かいましょう」


 少しばかり、緊張します。

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