第4話 それは甘いケーキのような

「はあ……。とってもおいしいです」


 お部屋へ入ってテーブルの上に赤いニットのベレー帽を置くと、大神さんはすぐに紅茶を用意してくれました。もちろんレモンティーです。それがわたしのリクエストでしたから。

 彼はそんなわたしが紅茶を味わい飲む姿を、なぜか嬉しそうに見ています。


「そうか、うまいか。それはよかった」

「はい! ……でも、なんだか変わった風味がします。昼間にいただいたものとは、また少し違っていますね」


 くんくんと匂いを嗅ぐと、大神さんは驚いたような表情をしたあとに、小さくこくりと頷きました。


「すごいな、よくわかったものだ。夜道を歩いて体が冷えただろうと思って、少しジンジャーを入れておいたんだ」


 なるほど、ジンジャーですか。


「ジンジャーレモンティーなんて、初めて飲みました」

「生姜、苦手だったか?」

「いえ、とてもおいしいですよ。わたし、大神さんの淹れる紅茶が大好きです」


 にこりと微笑みながら言うと、大神さんは目を見開いたあとに、ふいとそっぽを向いてしまいました。

 むう、ひどいです。せっかく褒めたのに。こういうときは素直に喜ぶべきですよ。


「……クッキーもある。食べるか?」

「食べます!」


 ちょうど小腹が空いていました。

 よく考えれば、祖母のところでパンをかじったきりなにも食べていませんでした。どうりでわたしのMPはゼロに近いはずです。これじゃあ森の中でモンスターに出逢っても攻撃できません。まあ魔法なんてなんにも使えませんがね。この物語はファンタジーではなくラブコメですから。


 大神さんが出してくれたのは、とてもかわいらしいアイシングクッキーでした。いろんな動物の姿をかたどっています。味もココアやバターやストロベリーなど様々なものがあります。

 早速いただき、わたしは一口食べてものすごく感激しました。

 これはとてもおいしいです!


「お、おいしい……! このクッキー、もしかして大神さんの手作りですか?」

「そうだ」

「すごいですっ! 紅茶を淹れたり、クッキーを焼いたり、ずいぶん手先が器用なんですね」

「こんなの普通だろう。クッキーなんて簡単だから誰でもすぐに作れるぞ」


 そう言いながら、大神さんもクッキーをひとつつまみ、口の中へと放り入れました。さくさくとおいしそうな軽い音。頬を動かす姿は、やはりリスのようですね。体は大きいのに、なんだかかわいらしいです。


 わたしはもう一枚クッキーを手に取り、さくりとかじります。



「わたしの母も、パンやお菓子やケーキといろいろなものを作ってくれます。ですが、わたしはなにひとつとして作れません」

「料理が苦手なのか」

「苦手という意識はないのですが……まあ、センスがないんでしょうね、単純に。ここだけの話ですが、このあいだはゆで卵にも失敗しました」

「は? ゆで卵を失敗するって一体どんなことをしたんだ……」

「生卵のまま電子レンジにかけました」

「……どうしてそんなことをした?」

「どうしてって、ゆで卵を作りたかったからです」


 それ以外になにかありますか?

 だってほら、電子レンジって万能じゃないですか。今じゃレンジひとつでから揚げも焼き魚もなんなら炊飯だってできるそうですし。だからゆで卵だって簡単にできると思ったのです。むしろできないわけがないじゃないですか。ボタンひとつであっという間にできちゃえるはずじゃないですか。電子レンジは文明の利器、いえ、もはや神なんですから。


 ……おや。なんですか、その目は。

 大神さんからカワイソウなものを見る視線がわたしに向けられています。

 やめてください。そんな目で見られても困ります。というか悲しくなってきます。気分が落ち込みます。やっぱりわたし変なのでしょうか……。


「そりゃあ失敗するな」

「電子レンジは神だと思っていたのに、どうやら買い被っていたようです」

「卵は爆発しただろうな」

「母にはきつく叱られました」

「当たり前だ」


 溜め息をつかれてしまいました。

 なんですか。わたしだって爆発させたくてそうしたわけではありません。わたしにだってなにか作れるものがあると思ってそうしたのです。

 だっていつも見ているだけではつまらないのですから。


「それなら今から一緒に作ってみるか」


 それは突然の提案でした。

 わたしはクッキーを食べる手を止め、彼を見ます。

 作るって……なにをでしょう?


「ケーキなんてどうだ」


 け、けーき……?


「ケーキってあのケーキですか?」

「それ以外になにがある」

「スポンジをクリームで包んで色とりどりのフルーツやチョコレートを飾った、あの幸せの甘い塊であるケーキのことですか?」

「そうだと言っている」


 ええっ、なにを言っているんですか!?


「む、無理です無理です! そんなものわたしに作れるわけがありません!」

「やってみなきゃわからないだろう」

「わかります! きっと無理です! できません!」

「わからない奴だな。いいからやってみればいい。キッチンへ来い、材料は山ほどあるから失敗したってかまわない。行くぞ」

「お、大神さん……!」


 すたすたとキッチンへ歩いていってしまいました。

 一人テーブルに取り残され、どうしたらいいかわからなくなったわたしは、どうしようかとあわあわ考え、どうしようもなくなって……慌てて彼のあとを追いかけました。


 キッチンに行ってみると、そこにはピンクのふりふりのエプロンをした大神さんがいました。

 大柄な男の人がそんな新婚の人妻みたいなエプロンをつけるだなんて、もはやギャグです。しかもどういうわけか意外に似合っているんですよね、これが。

 それを見たわたしは、なにも言えませんでした。言葉が見つからなかったのです。いや、だって、こんなのなんて言えばいいんですか……本気か冗談かわからないし……。反応に困ることをしないでいただきたいです。


「なんだ、じっと見たりして。おまえも早くこれをつけろ」


 渡されたのは一枚のエプロンです。

 広げてみると、キリンさんのようなお馬さんのような……なんだか奇妙な動物の絵が刺繍されている、大きさ的にはもう完全にキッズ用のエプロンでした。彼のことだから、きっとこれも手縫いでしょう。料理はできるけど裁縫はあまり得意ではないのでしょうか。

 うん、まあ、それはともかくとして。

 ……このエプロン、どうにかなりませんか。そっちのふりふりエプロンのがまだましです。


「あの、他のはないんですか」

「あるが、俺のだからでかいぞ」

「いいです、そっちを貸してください。これじゃわたしの自尊心がズタボロです」

「エプロンはエプロンだろう。どっちでも同じだと思うが」

「いいんです、早く貸してください」


 わがままを通して貸してもらった大神さん用のエプロンは……言われたとおり大きすぎました。服を汚さないためにつけるものなのに、床に引きずるエプロンじゃ不潔で本来の役割を果たせるわけなんてありません。

 仕方がないので、わたしは頬を膨らませながらキッズ用のエプロンをつけました。

 ああ……悔しいですがぴったりです。めちゃくちゃしっくりきます。


「似合ってるぞ」

「ふん。うるさいですよ。さっさと作りましょう、さっさと!」


 笑いを堪らえる大神さんを無視して、わたしは鼻息を荒げながら腕まくりをします。

 早速ケーキ作りを開始しました。


 そして約二時間後――。

 生クリームが蒸発したり、またもや卵が爆発したり、茶色の床が薄力粉で真っ白になったりと、たくさんのアクシデントはあったものの……なんとか無事にとってもおいしそうな生デコレーションケーキが完成しました!

 苺がたくさん乗っていて、生クリームがたっぷりで、まるでバースデーケーキのようです。


「すごいです! すごいです、大神さん! わたしがこんなケーキを作れるなんて思ってもみませんでした!」


 満面の笑みで振り返ると、そこには頬がこけてぐったりしている大神さんがいました。こんな短時間ですが、気持ち痩せたようにも見えます。いえ、やつれたと言ったほうが正しいでしょうか。一体どうしたのでしょう。


「おや、どうしましたか、大神さん。そんなに疲れた表情をして」

「そりゃ疲れもするさ……。おまえ、本当に料理の『り』の字も知らないんだな」

「なにを今さら。だから言ったではないですか。わたしはなにもできないと」

「できないにも程があるだろう」


 大きな溜め息をつかれます。疲労で満ち溢れた大神さんの表情を見て、わたしは視線を床へ落としました。


 確かに、わたしはなにもできません。

 手伝おうとすれば母に「危険だから」と止められて、こっそり手を出そうとすればこっぴどく叱られて。いつも遠くから見ているだけ。唯一わたしができることと言えば、祖母の家までのおつかいくらいです。

 だからこそ……今回のこのケーキ作りは、本当の本当に、とっても嬉しかったのです。

 絶対に自分一人では成し得なかった。大神さんと一緒だったから、こんな素晴らしいケーキが作れたんです。未熟で不器用なわたしでも、こんなに大きな達成感を得ることができたのですから。

 ……それでも、やっぱり誰かに迷惑をかけなければなんにもできないのなら、わたしは……。


「…………悪い」

「え」


 顔を上げると、大神さんはバツの悪そうな表情をしていました。

 わたしは目をまたたかせます。なぜ謝られたのかわかりません。


「え、と、なにがでしょうか」

「少しきつかったよな」

「なにがですか」

「だから、さっき……」


 言いかけて、あとに続く言葉を飲み込んでしまいます。

 なんでしょう。大神さんはなにを言いたいのでしょう。


 考えて、はっとしました。

 そうか、そういうことですか。言いたいことがわかりました。


 だからわたしは頬を膨らませながら言ってやったのです。


「そうです、きついです。このエプロン、やっぱり小さすぎます! それにめちゃくちゃ子どもっぽいです! なんですか、この刺繍。お馬さんですか、キリンさんですか。かわいいですよ、かわいいですが、でもこれって完全にキッズ用ですよね! わたしは十七歳ですよ! 大人ですよ! 結婚だってできちゃう歳ですよ! レディに対して失礼すぎやしませんか! わたしを子ども扱いなんてしないでくださいっ!」


 鼻息を荒くして喚くと、大神さんは驚いたように目を丸くしながらわたしを見つめました。

 ……え? あれ、違いましたか。

 大神さんの言う『きついこと』というのは、このエプロンのことではなかったのですか。

 思わずわたしも目をぱちくりとさせました。


「……おや、なにか違いますか?」

「あ、ああ、いや……。そうだな、そのエプロンは似合っているが、さすがに少し子どもっぽい。今度はちゃんとおまえに合った別のエプロンをこしらえておくよ。……俺も、おまえとまたなにかうまいものを作りたいからな」


 頭をぽんと撫でられます。

 わたしはふふっと笑い、こくりと頷きました。


「できれば赤がいいです」

「赤が好きなのか」

「はい」


 明るく返事をすると、大神さんはわたしを見て、優しく微笑んでくれました。

 それからわたしの持つケーキに目をやり、言います。


「食べるか」

「食べましょう!」


 わたしがケーキをテーブルへと運び、大神さんはポットにレモンティーを入れて持ってきました。

 ケーキと紅茶だなんて、とても贅沢です。

 大神さんがお皿にとりわけてくれるのを、わたしはじっと見つめていました。なんだか本当にお誕生日みたいです。胸がわくわくしてきます。


「おまえにはこの大きいのをやろう」

「いいんですかっ?」

「ああ。いっぱい食べて大きくなれよ」

「む、それは余計なお世話です!」


 それでもしっかり大きいケーキをいただきます。大きくなるのはきっと縦にではなく横にですが、そのあたりは気にしません。帰りは歩きなのでカロリーも消費するでしょう。え? ウォーキングはほとんどカロリー消費しないって? 気にしたら負けなので気にしません。


「では早速……」

「いただきます」

「いただきます!」


 一口食べると、口の中に甘いクリームと苺の酸味がふわりと広がっていきます。

 んー、幸せです。おいしいです。

 これをわたしが作っただなんて信じられません。


「うまいか」

「はい、とっても!」

「それはよかった」


 大神さんが微笑みます。それを見て、わたしも同じように微笑みました。


 凪のようにゆったりとした時間が流れます。何度も笑った気がします。

 彼とは今日出逢ったばかりなのに、一緒にいるこの空間はなぜかとても心地いいです。優しい気持ちになれて、あたたかい気持ちになれて。

 なぜでしょう。大神さんはそんなふうに思わせる魔法でもわたしに掛けているのでしょうか。もしかしたら大神さんは、狼さんではなく、魔法使いかもしれません。


 テーブルに頬杖をついてわたしを見ていた大神さんは、ふいにわたしの頬へと手を伸ばしました。

 なんでしょう。わたしも大神さんをじっと見つめ返します。


「ここ、クリームついてるぞ」

「え、本当ですか」


 親指で拭ってくれたクリームを、大神さんはぺろりと舐め取りました。

 その表情がなんだかとても魅力的に感じて、わたしをまとう空間の時間がぴたりと止まった気がしました。


 鼓動がうるさいほど響きます。体が熱を帯び始めます。

 なんでしょう、これ。なんなんでしょう、これ。

 なにからなにまで初めての感覚に、わたしは動揺を隠しきれません。


「沙雫」


 大神さんが、わたしの名前を呼びました。

 初めて、呼んでくれました。

 止まりません。心臓の音が速度をあげます。呼吸が乱れを起こします。

 大神さんの瞳に、頬を赤く染めるわたしの姿が映ります。

 徐々に近づく真剣な表情。わたしはその熱視線にとらえられ、声を出すことも逃げることもできません。

 大神さんの熱い手のひらが、わたしの頬に当てられました。自然と閉じてしまうまぶたに、胸の中にじんわりと背徳感を憶えます。だけど、不思議と嫌ではありませんでした。


 空気がとても甘やかです。

 それはまるで、二人で作ったこの真っ白なケーキのような――。

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