第5話 こんなに苦いレモンティーは初めてです
くちびるが触れ合う寸前。
手に持つフォークの柄を、ぎゅっと握りしめたその瞬間。
ピコン。短い電子音が、二人の耳に届きました。
びくりと肩を震わせると同時に、わたしたちは互いにすばやく距離をとりました。
心臓はまだ激しく鼓動しています。……大神さんに聞こえてしまうのではと心配になるほどに。
「な、なんだ、ケータイか」
「あ、は、はい、メールが届いたみたいですね」
間が悪いというかなんというか。なんだかちょっと気まずい空気です。
わたしはポケットからケータイを取り出し、今来たメールを確認しました。
……そこにあったのは、今日会う約束をしていたはずの彼の名前でした。
胸がぎゅうっと締めつけられるような感覚に、一人じっと堪えます。
本文に書いてあった内容は、約束をすっぽかしてごめんということ。急な用だったから連絡もできなかったということ。今週末なら空いているからそのときに会おうということ。その三つでした。
くちびるを噛みしめます。彼はきっとこのメールを淡々と打ったに違いありません。ただ理由を述べただけの文章を、わたしの気持ちなど考えず、悪びれもせずに、涼しい顔で。
わたしはそれに返信せず、そのままケータイをポケットへとしまいました。
「返事を送らなくてもいいのか」
「ええ、まあ……大丈夫です、大した用事ではありませんでしたから」
そう。大した用事ではないのです。
だって、こんなの、いつものことですもん。
平気です。気にしません。大丈夫です。
わたしは微塵も傷ついてなんていませんから。
「だったら、どうしてそんな表情をする?」
え……?
テーブルの上に落としていた視線を上げ、彼の顔を見ます。
そこには、眉根を寄せ、険しい表情をした大神さんがいました。
「そんな表情、と言いますと……」
自分ではちゃんと笑えていたつもりでした。
でもそれは、つもりなだけで。
大神さんはとっくに気づいてしまっていたのですね。
ああ、自分が嫌になります。こんな小さな嘘もつけないなんて。
視界がじわりと白く霞んでいくのを感じました。
いけません。いけません。わたしは、ぎゅっと口を結びます。
「……つらそうだな」
「いいえ、そんなことはないですよ。わたしはいつでも元気です。元気だけが取り柄なんです。さあ、気を取り直して、大神さんももっとケーキを食べてください。ほら、とってもおいしいですよ!」
「誰からだった」
「いいから、いいから。そんなことより、ケーキですよ、大神さん」
「おい」
びくりと肩が震えました。心臓がどくんと音を立てました。
それほどまでに、大神さんから発されたその声音は――あまりにも恐ろしいものだったのです。
「俺の質問に答えろ」
目が怖いです。先ほどまでの大神さんとは、まるで別人のようです。
わたしのことを真っ直ぐに見つめる、心の奥の奥まで見透かしてくるような瞳。
恐怖で体が細かに震えます。
「……お、大神さん、怖いです……」
「おまえがちゃんと話せばいいことだろう」
「なんで……どうしてそんなに……」
「おまえがつらそうだからだ」
わたしのため。
それを聞いて、わたしは視線をそっとテーブルへ落とします。
元気だと言ったのに。気にしてくれなくても平気なのに。
……そんなふうに言われては余計につらくなってしまいます。
もう一度、大神さんの目を見ます。その瞳は本気でした。
本当に、心からわたしを心配してくれているのがわかります。
こうしてなにがあったのかを聞いてくるのも、きっとすべてわたしを思った上でのことなのでしょう。
……そこまで思ってくれるのなら。
わたしは決心しました。
そして静かに口を開きます。
「……じつは、ですね……」
すべてを話しました。
わたしには、彼氏さんがいるということ。その彼氏さんとの交際は現時点で三ヶ月ほど続いているということ。だけど先月から連絡があまりとれなくなってしまったということ。最後に、約束をしてはすべてすっぽかされてしまうということ。
全部、話をしました。
大神さんはずっと黙って話を聞いてくれていましたが、わたしが話し終えると、ゆっくりと口を開きました。
「……おまえ、恋人がいたんだな」
その言葉にはどこか棘があるように感じて、わたしは肩をすぼませます。
「はい……すみません……」
「どうして謝る」
「いえ、その……すみません」
自分でもどうして謝っているのかわかりませんでした。それでも申し訳ないという気持ちが込み上げてきて……謝らずにはいられなかったのです。
大神さんはそんなわたしを見て、また溜め息をつきました。
「おまえはその男のことを好きなのか」
「え……」
「どうなんだ」
強い口調でした。答えなければ、きっとまた大神さんは先ほどのような怖い瞳でわたしを見てくるはずです。わたしはそれがとても嫌でした。どうしてか、彼にそうされるととても悲しくなるのです。あんなに優しく微笑んでいた大神さんはそんな怖い目をする人ではないと、心のどこかで思っているからなのかもしれません。
だからわたしは、小さな声でですが彼の質問に答えました。
「……好き、です」
「好きなのか」
「好き……です……」
好きです。好きなはずなんです。
だから、約束をやぶられても許せたのです。会えなくても、我慢できたのです。
だからきっと、好きなんです。
なにをされても、わたしは、彼を――。
「おまえ、バカか」
「なっ」
突然バカ呼ばわりとは。
これにはわたしも驚きました。いったいどういう了見でしょう。失礼すぎやしませんか。
「それは、好きとは言わない」
あまりにもはっきりと言うものです。
わたしは、むっとして言い返しました。
「いいえ、好きです」
「違うな」
「違わないです」
「どうしてわからない。それは好きとは言わないんだ」
何度も何度も繰り返し言われ、ついにわたしは大声を上げました。
「好きだと言っているでしょう!」
それ以上でも、以下でもなく。誰がなんと言おうと。
わたしは彼を好きなのです。
それは揺るぎない事実なのです。
なのに、大神さんはまた呆れたように溜め息をつきました。
「どこが『好き』なんだ」
「だから……!」
「いいか、よく聞け」
大神さんの真っ直ぐな眼差しは、わたしの瞳をとらえて離しません。
「約束をやぶられて許せるのは、好きとは言わない。会えなくても我慢ができるのは、好きとは言わない。そんな考えだからおまえはまだ子どもだと言われる。おまえの母親もそれをわかっているから心配しているんだろう。大切な娘がそんな男に騙されているなんて」
「彼を悪く言わないでください!」
思わず怒鳴ってしまいました。けれどもう聞いていられません。彼を悪く言うのだけは、わたしが耐えられなかったのです。
大神さんはそんなわたしをじっと見つめたあとに、静かに口を開きました。
「おまえだって、もう気づいているんじゃないのか」
どくんと胸が鳴りました。
その先の言葉は聞きたくなくて、わたしはカップを両手で持ち、そのままレモンティーをぐっといっきに飲み干しました。
それでも大神さんは言うのをやめることはなく、最後まではっきりと言ったのです。
わたしがいちばん聞きたくなかった言葉を。
わたしがいちばん信じたくなかった言葉を。
「――その男は、おまえのことを好きじゃない」
わたしが気に入っていたそのレモンティーはもうすっかり冷めていて、口の中に苦味だけを残していきました。
「目を覚ましたらどうなんだ」
「……わたしはちゃんと起きていますよ。眠くなんかありません」
「そういうことを言っているんじゃない」
わかってますよ。わかってますよ、そんなこと。
わたしはテーブルの下で強くこぶしを握りしめました。
大神さんの言いたいことは、ちゃんと胸に届いています。わたしのことを心配して言ってくれているんだということも、きちんと理解しています。
だから。だからこそ。
……その言葉が鋭い棘となって、わたしの胸に深く深く突き刺さるのです。
「もっと大切にしてくれる人を探せ」
わかってます。
「そんな男は諦めろ」
わかってます。
「おまえも現実をちゃんと受け止めないといけない」
わかってますってば。
大神さんの言っていることはなにもかも正しいと思います。母だってきっと同じように心配しているに違いありません。そんなの最初から全部わかっているんです。
でも、恋というのは、そんな簡単に忘れられるものではないのです。
わたしはずっと下を向いたまま、なにも喋らなくなりました。ケーキの残りも食べていません。部屋の中には、鳩時計の秒針の音だけが響いていました。
……それからどのくらいの時間がたったでしょうか。
大神さんは沈黙に耐えられなくなったのか、ふいにカップを手に取りレモンティーを口に含みます。
「……冷めたな」
「だいぶ時間もたっていますから」
「それに、苦いな」
「こんなに苦いレモンティーは初めてです」
わたしの言葉を聞いた大神さんは、ほんの少し眉をしかめて答えます。
「甘いものを食べたあとに飲むレモンティーは苦味が引き立つ。ケーキのときにはストレートティーを出すべきだった」
そんなことを言ったって、もう遅いです。
ケーキを食べる前のレモンティーはあんなに甘くておいしかったのに。
不思議なものですね。こんなちょっとしたことで、味も、思い出も、苦いものに変わってしまうなんて。
「……帰ります」
椅子から降りて、そう言います。大神さんは座ったままなにも言わずに、ただわたしをじっと見つめていました。
「……引き止めないんですね」
「引き止めてほしいのか」
「べつに……」
べつに、そういうわけじゃありません。
ただ、わたしは……。
大神さんに背を向けながら、わたしは小さな声で言いました。
「……帰りに、狼さんが出るかもしれません」
「それは危険だな」
「食べられてしまうかもしれません」
「それは怖いな」
「そうしたら」
「そうしたら?」
少し間を置いてから、言いました。
「……もう、会えないかもしれません」
会えなくなるかもしれません。
こうして喧嘩をしたまま。互いに「ごめんなさい」を言わないまま。
一生、もう二度と、会えないのかもしれません。
「……それでも大神さんは、いいのですか?」
振り向いて彼を見ます。
そこには、冷たい目でわたしを見据える、一人の男性がいました。
「――それがなにか?」
わたしの言葉を跳ねのけるような、冷たく無情な返事でした。
ぐぐぐ、と喉に悲しさが込み上げてきます。
泣きたい気持ちを我慢して笑いにすり替えることなんて、今までいくらでもしてきたはずなのに。彼氏さんにはどんなに約束をやぶられたって、そうして笑ってごまかしてきたはずなのに。
どうしてでしょう。今はなぜか笑えません。
わたしは家を飛び出しました。
真っ暗闇の森の中、ただひらすらに走って、走って、走ります。
フクロウの鳴く声。コウモリの飛び立つ音。
本当はとても怖かった。
好奇心は人一倍旺盛なくせに、夜の森だけは昔から苦手でした。
それでも、一人で帰るしかありません。
だって、わたしは……ひとりぼっちだから。
上を向けば、誰かがばらまいたような星たちが木々の隙間から零れ落ちそうなほど見えるのに、わたしの頬にはぽたぽたと雨の雫が落ちていました。
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