第3話 オオカミさんは心配性

「……ええと、そういうのはいらないです」


 右手を小さく上げて言いました。

 そんなこと、真面目な顔で言うものでもないですよ。そういうのはもっと一緒になって乗ってくれるような人に言うべきです。もう少し仲良くなってからならそのノリにまだ付き合えたかもしれませんが……いかんせん、わたしたちはたったさっき出逢ったばかりですからね。残念ながら童話以外でのそういうイタイ系はごめんです。わたしはそういうところに意外とシビアなのです。


「ち、違う! 本当にオオカミだ!」

「だから、いいんですよ。そういうの。中二病は中学生のときに卒業しておくべきです」

「ちゅうにびょう……?」


 なんですか。今時、中二病という言葉も知らないのですか。


「今ちまたで流行りのビョーキらしいですよ。中学二年生時に発症するのが大半だそうですが、大人になれば自然と治るとか。ですが、あなたはまだ治っていないみたいですし、早急に病院で検査を受けることをおすすめします」


 そんなガタイのいい外見で自分はオオカミだなんだって、ある意味恐怖を感じますよ。レモンティーはおいしいですが、その設定はいただけません。ごちそうさまです。


「……おまえ、なにか勘違いしているな」

「と、言うと?」

「いいか。俺の名前は大神おおかみだ。大神おおかみ佳穂よしほ。れっきとした二十五歳の人間だ」


 唖然、ってこういうときに使うのでしょうか。

 開いた口がふさがりませんでした。

 思わずレモンティーをこぼしてしまいそうでした。


 わたしは数回目をしばたたかせてから、マグカップをテーブルの上に置きます。


「……ああ! だからオオカミさんなんですね! 狼さんではなく、大神さんだったと。なあんだ、なるほどです。わたしはてっきり中二びょ、」

「『なあんだ、なるほどです』、じゃないだろ」

「あうっ」


 頭のてっぺんにとんでもない鈍痛がやってきました。大神さんのごつごつした手で脳天をこづかれたようです。めちゃくちゃ痛いです。涙が出てきます。


「い、痛いです……」

「人のことをイタイ奴呼ばわりしておいて、よく言えたものだな」


 ……心の声が聞こえていたとは、この男、なかなかあなどれません。


 とにもかくにも、この男のかたの苗字は大神さんだということがわかりました。名前は佳穂さん。うん、とても素敵なお名前です。本当ですよ、ご機嫌取りなんかではありません。それに、彼の年齢もきちんと知れましたし、これで情報は対等です。


 わたしはさらにもう一杯のレモンティーをいただきました。大神さんは大柄で見た目のちょっと怖い男性ですが、紅茶を淹れる腕前はかなりのもののようです。大神さん自身も、わたしが紅茶を飲む姿を嬉しそうに見ていました。人をもてなすのが好きなのでしょう。そのあたりは、なんだか可愛らしいかたです。


「そろそろ雨も止んだ頃でしょうか」


 小さな窓から外を見てみると、雨はすでに上がっているようでした。雨宿りをしていた小さな動物たちが次々と外へ出てくる姿がうかがえます。

 わたしも祖母の家へ急がなくてはいけません。夜になれば、森は真っ暗になってしまいますから。それこそ狼さんに襲われてしまいかねません。

 もしいるとすれば……ですが。


「では、わたしはそろそろ」

「もう行くのか」

「はい。突然おじゃましてしまい、すみませんでした。助かりました。ありがとうございます」


 お礼を言うと、大神さんは照れくさそうに頬をぽりぽりと掻きました。その姿を見て、わたしはくすりと微笑みます。


「そうだ。これ、少しですがもらってください」


 バスケットの中のパンを半分だけ渡しました。冷めてしまいましたが味には問題ありません。大神さんのおかげで雨にも濡れずに済みましたし、きっと喜んでいただけると思います。


「え? ……でもいいのか、これ。おばあさんにあげるものなんだろう」

「いいんです。雨宿りとレモンティーのお礼です。ぜひ食べてください。うちの母の作るパンは世界一おいしいんですよ」


 にこりと微笑みかけると、大神さんははにかんで視線をそらしました。

 それでも最後にはちゃんと笑みを返し、「ありがとう」と言ってくれました。喜んでくださったみたいでよかったです。


 それからわたしは、見送る大神さんに手を振って、祖母の家まで足を急がせました。

 大神さんの家から祖母の家までは、普通に歩けば一時間はかかりますが、急ぎ足だと四十分ほどで到着しました。


「おばあちゃん、沙雫です。パンを届けにきましたよ」


 ドアをノックしてそう言うと、そっと扉が開きます。中から優しい笑みを見せた祖母が出てきてくれました。


 わたしは部屋へ上がると、祖母と二人で母の作ったパンを食べながら、道中で出逢った大神さんの話をしました。話をしている最中に祖母がなにやらにこにことしきりに微笑むので、わたしは首をかしげて訊きます。


「どうしたんですか、おばあちゃん。どうしてそんなにニコニコしているのですか」


 すると、祖母はそっとわたしの髪を撫でながら優しい声で答えたのです。


「沙雫はその素敵なオオカミさんに出逢えて、幸せだったんだね」


 素敵? 幸せ?

 どうしてそんなふうに思ったのか、わたしにはまったくわかりませんでした。だってわたしはそんなこと、一言だって言っていないのに。

 ……だけど祖母がそんなふうに嬉しそうに何度もうんうんと頷くので、わたしは微笑み、その言葉を受け入れました。

 確かに大神さんは素敵な人でしたし、レモンティーもおいしくて幸せだったのは嘘ではなかったからです。


 それからわたしはたくさんのお話を祖母にしました。

 学校のこと。友達のこと。彼氏さんのことも、ほんの少しだけ。

 すると知らないあいだに多くの時間が過ぎていました。気がついたときには、外はもうすっかり日が落ち真っ暗になっていたのです。


「いけません、もうこんな時間ですか。お母さんに怒られてしまいます。おばあちゃん、わたしはこれで。また会いに来ますね」

「待っているよ。いつでもおいで」


 わたしは、優しい祖母が大好きでした。

 最後にまた頭を撫でてもらい、手を振って祖母の家をあとにしました。


 昼間通った森の小道を、一人てくてくと進みます。

 太陽が照らす昼の森と、月が照らす夜の森。その顔はまったく違うものでした。

 風が吹き狂う音や木々が大きく揺れる音、フクロウの寂しげな鳴き声がわたしの心を不安にさせます。普段は夜にこの道を通ることなどまったくないので、わたしは胸いっぱいの恐怖心にかられました。


 ふと、大神さんから聞いた狼さんの話を思い出します。


 この森にも本当にそんな恐ろしい動物が住んでいるのでしょうか。もし出逢ってしまったら、わたしはどうすればいいのでしょう。

 走って逃げるべきでしょうか。元の道を引き返すべきでしょうか。

 家族で博物館へ行ったときに見た狼さんの剥製はとても大きな牙を持っていました。本物の狼さんに出逢えば、きっとわたしは一思いに飲み込まれてしまいます。

 そんなの嫌です。怖いです。


 ああ、どうしましょう。

 なんだかとっても不安になってきてしまいました。

 大神さんからあんな話なんて聞くのではなかったです。

 失敗です。後悔です。どうしてくれるのでしょう。

 あと二時間もこの恐怖に一人耐えなければならないなんて。

 ……今にも涙が溢れ出そうです。


 そんなときでした。

 がさり。突然、道端の草陰が動いたのです。

 驚いてそちらに目をやると、なにやら黒い影がゆらゆらと動いているではありませんか。


「ひ、ひいっ!」


 出ました。ついに出ました。

 狼さんです。

 狼さんが出たのです!


 わたしは涙を流し、頭を抱え、その場にしゃがみこみました。腰が抜けてしまったようです。

 逃げも隠れもできません。わたしはここで食べられてしまうのです。

 人生まだ十七年しか生きていません。

 やりたいことはまだまだたくさんあったのに。

 もっと友達を作りたかったです。もっとおいしいものを食べたかったです。もっとたくさん遊びたかったです。

 こんなところで死ぬなんて、残念でなりません。

 お父さん、お母さん、ごめんなさい。今までわがままばかり言って、ごめんなさい。

 次に生まれ変わるときは、きっと沙雫はまたあなたたちの子に――。


「おい」

「ひゃあああ!」


 嫌です! やっぱりまだ死にたくありません!


 痛いのは嫌です。

 博物館で見たあの巨大で鋭利な牙がこの体に突き刺さるなんて考えられません。考えたくもありません。

 どうしたらいいのでしょう。どうしたら。どうしたら――。


「おい、聞いてるのか」

「あああごめんなさいごめんなさいわたしは食べてもおいしくありません許してくださいごめんなさい怖いです怖いですごめんなさい助けてください」

「……がおー」

「いやあああああああ」


 自分でも、ずいぶんと情けない声だと思いました。だけど仕方がありません。こんな状況なら誰だってこうなってしまいます。人間、本当の恐怖を目の前にしたらどんなに強い人でも泣きながら許しを請うでしょう。


 ……ええと。

 ところで、狼さんって人語を話せるのですね?


「……おまえ、いつまでそうしているつもりだ?」

「へ?」


 涙目のまま頭を抱え、顔を上げて見てみます。

 そこには、昼間の大きな男のかた……そう、大神さんがいらっしゃいました。

 呆れた表情でわたしの姿を真上から見下ろしています。


 なんでしょう。

 もしかして助けにきてくれたのでしょうか。


「おや、大神さんではないですか。もしやわたしのピンチを救いに来てくれたのですか」

「ピンチ? そんな場面あったか」

「ありましたよ。だって大神さん、わたしの悲鳴を聞いて駆けつけてくれたのでしょう?」


 大神さんは首をかしげます。それを見て、わたしも同じように首をかしげました。


「なんですか。だって狼さんが出たのですよ。あなたが言ったのではないですか、このあたりには狼が出ると」

「今、獣の匂いはしない」

「鼻がいいのですね。まるで狼さんみたいです。でも確かにその草木が揺れて何者かの影が」


 そう言うと、はっとした大神さんが照れくさそうに頬をぽりぽりと掻きました。

 きょろきょろとあたりを見回してから申し訳なさそうに口を開きます。


「たぶんそれ、俺だな」

「は」


 間抜けな声が漏れました。

 俺? 俺って、俺ですか?


 大神さんがなにを言っているのか、わたしにはさっぱりわかりませんでした。

 大神さんはやはり狼さんだということでしょうか? 鼻もいいし? オオカミつながりで?

 ……はは、有り得ません。


「わけがわかりませんね」

「わけがわからないのはおまえのほうだ」

「どういうことですか?」

「だから、そこに隠れていたのは俺だと」

「大神さんが草木の陰に?」

「ああ、そうだ」

「なぜそんなことを?」

「……べつに」


 なんと!


「意味もなくそんなことをしているのですか! こんな夜中に! ううん、ますます怪しいです。やはり病院へ行ってください。脳のCTを撮るべきです」


 そこまで言うと、大神さんはむっとした表情をしました。頬を膨らませる姿は、まるで子どもかリスのようです。体は大きくても、まったく怖くはありません。


「心配だったからだ」


 心配。彼はそう言いました。

 なにが心配なのでしょう。言葉が足りません。


「……だから、おまえが心配だったからだよ」


 わたしが?

 なぜでしょう。やはり言葉が足りません。

 ですが大神さんの頬が月明かりに照らされて、薄い赤に染まっているのが見えました。どうやら彼は照れているようです。


「つまりは、狼さんが出たら大変だとわたしを心配してくださって、そこで待っていたと」

「そうだ」

「いつからですか」

「おまえがいつここを通るかわからなかったから、昼間からずっとだ」

「バカですか」

「そうかもな」


 呆れました。本当にバカです。

 だってこの森の中は、夜はきんと冷えるのです。

 なのに昼間からずっとここにいただなんて。

 いくら屈強な体を持つ大神さんだって風邪を引いてしまうではないですか。

 なにをやっているんでしょうね、この人は。


 ……だけど、胸がじんわりとあたたかくなりました。嬉しい気持ちが込み上げます。

 わたしはくすりと微笑みました。


「大神さんは心配性ですか」

「出かける際には火の元を三回はチェックする」

「それはかなりのものですね」


 ふん、とそっぽを向いてしまう大神さんに、わたしは手を差し伸べました。

 気づいた大神さんは、眉をしかめてこちらを見ます。


「なんだ、その手は」

「引いてください」

「は?」


 なにを言っているんだ、という目がわたしをとらえます。


「誰かさんのせいで腰が抜けてしまったのです。それに今夜はとても冷えます。なにかあたたかいものが飲みたいです。……そう、例えば、おいしいレモンティーとか」


 大神さんは目をぱちぱちとしばたたかせました。

 そして、ふっと笑うとわたしの手を静かにとります。

 その瞬間、ふわりと体が宙に浮きました。


 思わず目を閉じてしまいましたが、再びゆっくりと開いていきます。

 そこには月のように柔らかく優しい笑みを浮かべた彼の顔が、とても近くにありました。


 彼の首に手をまわし、静かに微笑み返します。


「……わたし、お姫さま抱っこをされたのは、父以外では大神さんが初めてです」

「感想は?」

「そうですね……」


 空を見上げ、少し悩んだあとに、わたしはゆっくりと口を開いて答えました。


「父にされたときよりも、月が近くに感じます」


 大神さんは一言「そうか」と呟くと、わたしを昼間のログハウスの中へと連れていってくれました。

 触れた肌がとても熱く感じたのは、きっとわたしだけではないはずです。

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