第2話 森の細道にはご注意を



「ええと……あなたは?」


 わたしが首をかしげると、そのかたはじいっとわたしを見てきました。

 いえ、“見おろす”といった表現のほうが正しいでしょうか。それとも“見くだす”でしょうか。ただ、“見つめる“という言葉を使うには違和感を憶えてしまうくらい、彼はあまりにも大きすぎたのです。

 ……あと、目つきが悪すぎます。それ、睨んでいますよね? 完全にわたしを睨みつけていますよね?


「このあたりは俺の縄張りだ」


 俺の縄張り。

 なにを言い出すかと思えば、そんなことを言ってきました。

 動物ではあるまいし。そう思いましたが口には出しません。

 代わりに周囲をきょろきょろと見回してみます。

 すると少し離れたところに素敵なログハウスがありました。あれが彼の住む家なのでしょうか。

 ふむ、なるほど。


「ここはあなたの家の敷地内だったのですね。勝手に入ってしまってごめんなさい。先ほどの突風で帽子が飛ばされて、追いかけていたらここまで来てしまったのです。すぐに出て行きます。本当にごめんなさいでした」


 ぺこりと頭を下げ、彼に背中を向けたときでした。

 ぽつり。頬に、冷たいなにかが当たりました。

 なんでしょう。


「……雨だ」

「雨?」


 彼の言葉に、そう言って振り返った瞬間です。

 ザアッと大きな音を立て、バケツをひっくり返したような雨が降ってきました。

 なんとまあ、天気雨です。空にはこんなに綺麗な青が広がっているというのに、驚きました。

 こんなふうに日が照っているのに雨が降るということは、きっと狐さんが嫁入りをしたのですね。いいことです、素晴らしいです。狐さんお幸せに。


「おい、濡れるぞ」


 はっ。そうです、そうです。いけません。このままではパンが濡れてしまいます。

 せっかく母が愛情を込めて祖母のためにと作ったのに、湿気らせるわけにはいきません。


 わたしはバスケットを胸に抱え、男のかたに向かって言いました。


「ほんの少しだけ雨宿りをさせてください!」


 それを聞いた瞬間、驚いたように目を丸くした彼でしたが、事情を察してくださったのか小さくこくりと頷くと、すぐにわたしを家の中へと案内してくれました。

 見た目はちょっとばかり怖いですが、このかたは案外いい人なのかもしれません。


「おじゃまします」


 お部屋へ上がらせてもらうと、中はなかなか素敵なものでした。

 オレンジ色の光が優しく室内を照らしてくれています。ロッキングチェアがこの雰囲気にとてもよく似合っています。木の匂いが心地よくて、わたしは今にも眠ってしまいそうでした。


「寝るなよ」

「あ、はい。すみません」


 危ない危ない、知らないあいだにまぶたを閉じていたようです。


 彼は、わたしをリビングにあるテーブルへと案内してくれました。

 少し小さめなテーブルでしたが、わたしはとても気に入りました。それはまるで白雪姫に出てくる小人の家のようでした。


 ことんとマグカップが置かれます。ふわりとレモンティーの甘酸っぱい香りがしてきました。

 お部屋に入ったときにとてもいい匂いがしていましたが、レモンティーの香りだったのですね。

 なるほど、ありがたくいただきます。


「こんな森の奥で人間と会うなんて、長いことここに住んでいるが初めてだ」


 物珍しそうにわたしの顔を見てきます。

 なんですか。そんなにじっと見つめないでください。照れてしまいます。


「あの小道をまっすぐ行けば、わたしの祖母の家に着くんです。いつもなら道を外れたりはしないのですが、今回は先ほども言ったように帽子が風で飛ばされてしまって……」

「おまえの家は近いのか」

「そうですね、ここからだと徒歩で一時間くらいでしょうか」

「一時間……?」

「自宅から祖母の家までは二時間ですが」

「二時間……?」


 ぽかんと口を開けています。

 どうしたのでしょうか。そんなに驚くことですか。


 わたしはこうして小さい頃から祖母の家に通っているので、この距離や時間は当たり前という感覚でした。でも他のかたからしてみたら、そうでもないのでしょうか。そりゃあまあトロッコがあれば至極便利だとは思います。思いますが、ないのだから仕方ありません。

 ゆえに片道徒歩二時間。ううん、やっぱりこれくらい普通じゃないでしょうか。


「そんな道のりを、おまえ一人だけで?」

「平気ですよ。幼い頃からこの道は通い慣れています」


 にこりと微笑み、レモンティーを一口飲みます。

 ほのかな甘い香りが口いっぱいに拡がって、わたしは幸せを感じました。

 やっぱりおいしいですね。フレーバーティーは大好きなのです。


「今までよく危険な目に合わなかったものだ。幸運なやつだな」


 その言葉は半ば呆れているように聞こえました。

 危険とはどういう意味なのでしょう。わたしは首をかしげます。


「と、言いますと?」

「なんだ。おまえ、知らないのか?」


 テーブルに肘枕をついた彼は、面倒そうにわたしに説明を始めました。


「この森、この道は、あの恐ろしい動物が出ると最近では有名だぞ」

「恐ろしい動物とは……?」


 彼は言葉を溜めて、溜めて、溜めてから、低く響くような真剣さをたっぷり含んだ声で、ゆっくりとこう言いました。


「――“狼”だよ」


 とがった牙、するどい爪、茶色の毛に覆われて、人を簡単に襲ってしまうようなあの生き物。

 わたしの頭の中には、昔よく読んだあの物語が浮かんできました。


「狼さん……」

「そうだ。おまえの親もよくおまえみたいな子どもを一人で行かせようとしたな。このあたりじゃ狼が出るなんて常識だと思っていたが」


 そうなんですか。

 十七年間この森と一緒に生きてきましたが、そんな話は今初めて耳にしました。わたしが聞いたことがあるのは、この森の動物たちはおとなしく臆病だから決して脅かしてはいけないよ、というものなのですが。

 たった数キロしか離れていないのに、地域の噂とは大きな違いがあるものです。


「とても恐ろしい話です」

「そうだろう」

「ちなみに、あなたはその怖い狼さんに出逢ったことは?」

「まだ一度もない」


 即答でした。ずいぶんとはっきり言うものです。

 わたしは目を細めながら言いました。


「なら、いないのでは」

「いや、いる。この森を抜ければ、そんな噂は山ほど聞くぞ。不思議なことになぜか若い男ばかりが狙われるそうだが……。でもそれはたまたまかもしれん。おまえも気をつけたほうがいい」


 そう言いながらポットを差し出すので、わたしはカップを持つ手を伸ばしました。こぽこぽと音を立てながらレモンティーが注がれていきます。ありがとうございます、いただきます。


「名前は」

「え?」

「名前はと聞いている」


 突然「名前は」と言われても、いきなり答えられるはずがないです。

 なんだかこのかた、ぶっきらぼうですね。あまり人と関わることがないのでしょうか。この家のまわりを見たときに、近くに人が住むような家もありませんでしたし。

 わたしはレモンティーの入ったカップに口をつけながら答えました。


「わたしの名ですか」

「それ以外になにがある。今ここには俺とおまえしかいないだろう」


 少しむっとしましたが仕方ありません。

 こういう性格のかたなのでしょう。

 わたしはそれに、はっきりとした声調で答えます。


赤井あかいです。赤井沙雫といいます。今年で十七になりました。改めてよろしくお願いします」


 座ったままで小さく頭を下げました。

 再び顔を上げ、彼を見ます。

 すると、なぜか彼は驚いたように目をしばたたかせました。

 はて、いったいどうしたのでしょう。わたし、なにか変な自己紹介の仕方でもしたでしょうか?


「……おまえ、十七なのか?」

「え? はい、そうですが……。なにか?」


 頷いた瞬間でした。


「ぷっ、くく……! そ、そうか、十七か……なるほどな」


 突然笑い始めたではありませんか。口もとを押さえて、くすくすと。

 笑うのを堪えているみたいですが全然堪えきれていません。肩まで揺れています。

 まったく、いきなりなんなんですか。失礼な人ですね。

 今度ははっきりむっとしながら訊きます。


「わたしはなにも笑えるようなことなど言っていませんが」

「す、すまん。いや、しかしおかしくてな」

「なにがそんなにおかしいのです」

「だっておまえ、ずいぶんと幼く見えたから……。まだ中学生にもなっていないんだと思っていた」


 なっ!


 なんですか、めちゃくちゃ失礼ですねこの人!

 わたし、小学生に間違われていたのですか。確かに高校生には見えないとはよく言われますが、でもさすがに小学生はないでしょう。しかもそれに対して笑うなんて失礼です。失礼の極みです。


 わたしは頬を膨らませながら、ぷいっとそっぽを向いてやりました。


「ふんだ。見た目のことは言わないでください。これでもコンプレックスなんですよ」

「ああ、そうなのか。それは悪かったな」

「謝罪に心がこもっていません。もう一度」

「申し訳ございませんでした」

「いいでしょう、許します」


 彼のおでこがテーブルにくっついたのを見て、わたしは大きく頷きました。

 再び顔を上げた彼の目尻に薄く涙が見えましたが、もういいです。これ以上ツッコむのも面倒なので放っておきます。


「というか、なんだかわたしのことばかり聞かれていますよね。あなたのことも教えてもらわないと、割に合わないと思いませんか」


 名前や年齢だって、そもそも訊くなら自分から先に言うのが礼儀ってもんでしょう。答えてしまったわたしもわたしですが。


 彼は「俺のことか?」とでも言うように自分自身を指差しました。

 わたしはこくりと頷きます。


「あなたのお名前は?」


 訊くと、彼はほんの少し微笑んで、わたしの目をじっと見つめて言いました。


「俺は――この森に住む“オオカミ”だ」


 ――まさか。


 それはまるで、時間が止まったかのような感覚でした。

 童話では、動物が人間に化けるなんてことはよくある話です。

 でも……。


 こくりと喉を鳴らします。

 わたしはあまりそういうことには詳しくはないのですが……。


 ……こういうのも、『中二病』というのでしょうか?

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