Interlude1 岩田総統の、ある一日

 ――穏やかな、朝だった。

 秘密基地であるが故に、全体的に薄暗い組織のアジト。

 けれど太陽は、光線を注ぐ先が悪の組織の近代的な隠れ家だろうが、若い正義の味方の住むしょぼくて古いアパートであろうが、そんなことは気にも留めない。やわらかな初夏の陽射しを、地球上の他の場所と同様に、そして惜しげもなく、アジトへと降り注いでいた。

 半地下構造となっている秘密基地の渡り廊下の小さな窓から、斜め下に向かって、天使の階段のような明かりの柱が伸びている。


 そんな穏やかな昼下がりのアジトの廊下に現れた、一人の男。

 顔の皺の感じからいって、歳は五十歳少し手前といったところか。背はすらりとして高く、彼の目鼻立ちからすれば若い時はそれなりに目を引く男であったのだろう。

 カツン、カツン……

 彼の履く堅い革靴の踵から発する音が、辺りを支配する。


 ――その男の名は、岩田いわた一直ひとなおといった。

 悪の秘密組織「ウルトラ・ショッカー」の、三代目総統である。

 秘密結社の総統と云えども寄る年波には勝てず、最近目立つようになった目尻の皺。けれどもそんなことなど気にする様子は微塵もなく、眩しそうに両眼を目一杯に細めながらアジトの廊下を静かに進んでいく。


(やっぱり、自然な光が一番だな)


 世知辛い昨今、悪の地下組織の運営もなかなかに大変だ。特に、色々と災害が起こってからの電気代の高騰が痛い。

 かつてあった庶務課が廃止になってからは、そんな経費の管理も総統の仕事である。

 経費節減のため、最近思い切って基地の明かりはすべてLEDに変えた。初期投資の経費が一気にかかってしまった訳だが、今後の電気代を考えれば仕方がないことである。

 ただ一つだけ、彼にとっての問題があった。それは――まだ彼が、あの「ツンとした青っぽい明かり」に慣れていないことであった。


(この辺りには温泉も多いし、アジトの地下でも掘って地熱発電でも始めようかな……。そしたら、人の温もりを感じる、あの白熱電球に戻せるかもしれない)


 そんなことを考えながら岩田が廊下を歩いていた矢先だった。組織の制服を着た一人の若い隊員が廊下から施設への抜ける通路のドアをかちゃりと開けて、彼の右前の位置に現れたのである。


「もしや……総統でありますか!? 敬礼!」


 その隊員は、どうやらヒラの戦闘員のようだった。きびきびとした声と動きの中に、若さをみなぎらしている。

 もちろん、その戦闘員が特別に礼儀正しい訳ではない。

 総統とすれ違うたび、ショッカーの隊員たちは誰でも立ち止まって、敬礼をするのが習わしである。総統である彼は、そんな隊員たちに対し、優しく穏やかな笑みを彼ら一人一人に向けるのだ。


「総統、本日は休暇でありますか?」

「ああ、そうなんだ。すまんな……あとのことは博士に頼んでおいたから、よろしく頼む」

「とんでもありません! ぜひ、実りある休日を!」


 そんなことを隊員が云ったのも無理はなかった。

 今日の総統は、珍しく私服の恰好であったからなのだ。細めのブルージーンに、黒い皮ジャン。胸のあたりにちらりと見える、赤いタンクトップ。

 年齢からすると、ちょいワルどころかかなりワルそうな親父に見える。


 実は年に数回、彼は一般人に成り済ましてアジトから外出する。

 行先は――組織の誰一人としてわからない。

 総統の「岩田」という本名とともに、組織のトップ・シークレットの一つなのだ。そうである以上、当然のことながら付き添いの人間はいない。この日ばかりは、総統である彼も部下を連れずたった一人で行動することになる。


「では、行ってくる。今日は、少し遅くなるかもしれない」

「ラジャー!」


 隊員と別れた岩田総統は、迷路のように入り組んだ廊下の奥へと進み、ある場所で辺りを見渡した。誰もいないことを見て取った彼が、壁に紛れた秘密のスイッチを押す。すると、今まで壁に見えていた場所が微かなモーター音とともに横開きのドアとなって彼を外の世界へと誘った。

 そこから進むこと、数十メートル。

 組織の者でも一部しか知らない、秘密のゲートがある。

 近くに潜んでいた門番に声をかけた岩田総統の姿が、ゆっくりと初夏の鬱蒼とした森の景色に溶け込んでいった。



   ☆



 巨大な、都会のスクランブル交差点。

 自然と催して来る軽い吐き気に耐えながら、総統は行き交う人の波を避けるようにして歩いていた。見ようとしなくてもどうしても目に入ってしまう赤や青のシグナルがチカチカうるさく点滅するたびに、彼の神経が逆立った。

 「秘密基地」という静かな環境に長年暮らし続ける彼にとっては、年々、こういった環境に馴染めなくなってきているのだ。


「……。用事を済ませたら、早く帰ろう」


 胸ポケットから茶色がかったサングラスを取り出した岩田総統は、慣れた手付きでそれを装着した。その後、目前の信号が青になったのを確認した彼は覚悟を決めたように一息吐いて、縞模様の白線の上を滑るように道路の向こう側へと足を進めた。

 途中、彼の目に映ったのはまるで山脈のように高いビルの数々だった。

 街は人を待つことなく日々移ろいでいくものだが、中には二十年位前の彼の記憶にあるビルの姿から、少しも変わっていないものもある。


(そういえばこの辺り……昔、アイツとよく来てたっけ)


 刹那、悪の秘密組織の総統としての思考が止まる。

 彼にそうさせたのは、とある青春時代の記憶だった。想い出に耽り、その厳つい顔に似合わない優しい表情を浮かべた総統。

 その時だった。

 岩田総統の目前を歩いていた白髪混じりの小柄なおばあさんが、足をよろつかせるようにして不意に倒れかけたのだ。どうやら勢いよく交差点を通り過ぎようとした若い男が、おばあさんにぶつかってしまったものらしい。


(危ない!)


 岩田の顔に浮かんだ、一瞬の焦り。おばあさんを助けるためにといって、そう簡単には手を出せないからだ。

 なにせ、一般人に身をやつしているとはいえ彼の真の姿は「悪の秘密組織の総統」なのだ。この人混みの中、彼の「真の力」を発揮してしまうことで無暗に目立ってしまう可能性もある。そうなれば、組織の活動に影響を与えかねない事態も考えられる訳である。


 スローモーションのように、地面に近づいていくおばあさんの体――。

 若者は、そんな状態のおばあさんを気に留める様子もない。ちゃらちゃらとした身振りでガムを頻りに噛みながら、交差点のその向こう側へと進んでいく。


(ちっ、仕方がない)


 普通の人間の目では、彼の本気の動きは早過ぎて捕らえることができない。

 周りの通行人が「風が通り過ぎた?」というくらいにしか感じないほどのハイ・スピードで倒れかかったおばあさんに近づくと、その傾いた小さな体をふわりと両腕で抱きかかえるようにして、姿勢を保たせた。


(!?)


 何が起こったのか分からないおばあさん。きょとんとした表情で立ち尽くしながら、総統の姿を見上げている。


(奴には、少し制裁を加えなばなるまい)


 ほんの一瞬、柔らかな笑顔を彼女に向けた総統は、これまた目にも止まらぬ速さで若い男に近づくと、足を引っ掛けて転ばせた。

 「うわっ」と声を上げながら、前のめりに倒れる男。


「テメェ、何しやがんだあ!」


 しかし、男がそう叫んで立ち上がった時には、すでに彼の側に誰もいなかった。首を傾げて不思議がる男を他所に、総統が立ち尽したままのおばあさんに優しく声を掛ける。


「おばあさん、大丈夫ですか?」


 その声を聞いた途端だった。

 おばあさんが、突然覚醒したかのように声を発したのだ。


「ちょっと、アンタ! 気安く私に触るんじゃないわよ! その汚い手をお放し!」

「……」


 おばあさんの代わりに、呆けた感じで立ち尽くしてしまったのは岩田総統だった。

 信号がチカチカして切り替わろうとしている今、おばあさんはこちらを一度も振り返らず、そのおぼつかない足取りで先に行ってしまう。


「……」


 近くでは「テメェか、俺の脚を引っ掛けたのはよ!」という、男の荒れた声が響き渡っていた。しかし、総統の耳にそれが届くことは無かった。交差点のど真ん中、そこで彼は思考モードに入っていたからだ。

 総統は考える――。


(初代、二代目ともロクな死に方をしなかった。というのも結局は、悪の秘密組織でありながら情が厚過ぎたからだ。その流れを引く俺も、やっぱりロクな死に方をしないのかもな……)


 その時鳴った、けたたましい車のクラクション。

 もうだいぶ前に歩行者信号は赤に変わっていたのだ。左右、両方向から放たれるクラクションが、岩田総統をその場から早く追い立てようと勢いを増していく。

 沸々と湧き上がってこようとする、何ともやるせない気持ち。

 それを抑えながら、クラクションに急きたてられるように交差点の向こう側へと走って渡った総統であった。



   ☆



「総統、お帰りなさいませ!」


 門番の男にそう声をかけられた私服姿の総統が、「ご苦労さん」という言葉とともに笑顔を彼に返した。


 アジトの建物内。

 自分を見かけると敬礼して立ち尽くす大勢の隊員たちの間を通り抜け、総統の執務室へとやっとのことでたどり着く。

 広いアジトの最奥部にそれがあるからだ。


「やれやれ、世の中はだいぶ変わってしまったものだ……。もしかしたら、この秘密基地の中こそが、温かい義理人情の生きる『最後の砦』なのかもしれん」


 総統の象徴ともいえる着慣れたカーキ色の軍服に着替えながらそう呟いた彼が、すぐに言葉を続けた。


「だが、ワシらの組織も変わっていかなばならぬ。『立ち止まる』ということは、それすなわち『衰退』を意味するのだから」


 岩田総統が、がっしりとした木目調の執務用机の抽斗ひきだしの中に隠された小さな青い押しボタンを押す。

 グイングイングイン……

 やや古めのモーター音とギヤの回転音とともに、右手壁際にある書棚がスライドしていく。その先にあったのは、十畳ほどの窓のない隠し部屋と何台ものデスクトップパソコン。そして所狭しと並べられた、たくさんの大きな液晶画面だった。


「さあ、今日は街で幾つか有益な情報も得たことだし、気を取り直して株のトレーディングを頑張るとするか――。なにせこれに、わが組織の活動資金がかかっているのだからな」


 先程、街で買ったばかりの珈琲豆で珈琲を沸かした岩田総統は、その淹れたての香りを楽しみながら、せわしなく動く液晶画面をじっと食い入るように見つめるのであった。



〈Interlude1 End〉

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