水無月家の温泉旅行 2/2

 お風呂道具を持って、しんと静まり返った部屋を出る。年季の入った板張りの廊下をあまり音を立てないようにしてゆっくりと踏みしめて進む。


 手摺に掴まりながら、階段を慎重に降りる。昔ながらの急こう配な階段なので、気をつけないと下まで一気に滑り落ちてしまいそう。子供の頃はお父さんにしがみつきながらぎゅっと目をつむっていたな、と思い出して笑う。実のところ、わんわん泣きながらお父さんにしがみついて寝たこともはっきりと覚えているのは、こっそり胸の内にしまっておこう。


 一階に降りると、館内が一気に洋風になった。明治モダンの空気に満ちているホールを抜けて、露天風呂へと向かう。


 いくつかの脱衣籠に浴衣が収まっていた。帯をほどいてはらりと浴衣を脱ぐ。下着も脱いで、丁寧に折りたたんだ浴衣の間に挟んでから籠に置いた。


 あまりの寒さに身震いをしながら引き戸を開けると、夕闇の中で淡い光に照らされた露天風呂が目の前に広がっていた。風がぴゅうと吹き、冬の寒さと一緒に暖かい湯気を運んでいる。飛び込みたいという欲求をぐっと抑えて、体を綺麗に洗ってからゆっくりと肩まで浸かる。白く濁った温泉の熱が、じわりじわりと体じゅうの毛穴から染み込んでいる気がする。


 良く晴れて星が瞬く夜空を見上げながら、ほぅと一息ついた。同じように湯船に浸かって夜空を見上げている人は何人かいるけれど、なんだか独り占めしているような気分だ。


 両親に少しは恩返しが出来たかな、と思う。


 両親を旅行に連れていくだなんて、ありきたりで簡単なことだろうけれど、いまのわたしには二人にこれくらいのことしかしてあげることが出来ない。精一杯のお礼に予想だにしないサプライズがおまけで付いてきて本当に良かった。お父さんの言う通り、神様に感謝しなくっちゃ。一生の思い出になるように、明日も三人でのんびりと過ごそう。


 両腕を温泉から出してぐっと伸びをする。あまりの気持ち良さに、意外と疲れが溜まっていたのかなと気づく。


 『クロワッサン』でのお仕事は、初めてのことだらけで正直たいへんだったけれど、とっても楽しかった。マスターの淹れたとびきり美味しい珈琲を運んでいると、まるで古い映画のワンシーンのなかにいるみたいな気分になる。たまにかかるアップテンポな音楽に合わせて、ついステップを踏んでしまうのはないしょ。もしかしたらみんな気づいているかもしれないけれど。


 ふいに一人の少年を思い出して、吹きっ晒しで冷えているはずの頬っぺたに熱がともる。


 ずいぶんと思い切ったことをしてきたな、と自分でも思う。昔のわたしだったら、絶対に出来ないことをずいぶんと仕掛けた気がする。急に恥ずかしくなってきて、思わず足をばたばたしてしまう。白く濁った湯船に大きな波紋が広がる。少し離れたところでくつろいでいるおばあさんが、驚いた顔をしてこちらを向いた。


「ご、ごめんなさい……」


 申し訳なくてしゅんと縮こまっていると、おばあさんはにこりと笑って湯船に浸かりながらこちらに近づいてきた。


「ひとりかい?」


 おばあさんがわたしに優し気な声をかける。


「い、いえ。両親を連れて来ました。いまはお酒を呑んでぐっすり眠ってると…思います」


「そうかい。若いのに親孝行だなんて偉いねえ。あたしの孫に見習ってもらいたいもんだよ」


「偉く……ないです。いっぱい迷惑をかけて……」


「そうなのかい? でも、子どもに温泉に連れて行ってもらうっていうのは、あんたが考える以上に嬉しいもんさ」


 おばあさんがしみじみと言う。


「お子さんと一緒にいらっしゃっているのですか?」


「ああそうだよ。優しい娘でねえ。たまにこうして連れてきてくれるのさ。あんたくらいの孫は、彼氏とデートだって言って来てくれなかったよ」


 おばあさんはそう言ってからからと笑った。


「彼氏、ですか」


 ぼーっと頬が熱くなる。


「そうさね。あんたにはいないのかい?」


「ま、まだいないです!」


「まだってことは、好きな人くらいいるんじゃないかい?」


「それくらいは……」


 体がどんどん沈んでいく。


「若いっていいねぇ」


 わたしは何て答えたら良いのか分からなくて、黙って水面を見つめた。


 お孫さんがちょっぴり羨ましかった。

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シナモンメイプルはどんな味? 椎名 中小 @chusyo

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