12月29日(土) - 3 days to the last day-

水無月家の温泉旅行 1/2

「楓、今日は連れてきてくれてありがとうね」


 ついさっきまで楽しそうにお話をしていたお母さんが、お箸を置いて少し寂しそうな顔をしている。


「ううん。いつものお礼をしたかっただけ。ほら、このお刺身もおいしそうだよ?」


 わたしはなんだか照れくさくって、大皿に綺麗に盛り付けられた赤身魚に箸を伸ばす。たしか、近海で捕れたブリだって言ってた。たっぷりと脂が乗っていて、箸の先でまるで生きているみたいにプルプル震えている。


「お礼だなんて――」


 お父さんが、途中まで言いかけてお猪口をぐいと呷った。とっても美味しいらしい地酒が効いているのか、少し赤ら顔で、広くなったおでこが八畳間を照らす照明をピカリと反射している。なんだか可愛いなと思う。


「旅費を出してくれなくても良かったんだぞ」


 お猪口を座卓に置いたお父さんが、お家で何度も繰り返した話を蒸し返す。


「その話はもういいってば。それに、結局足りなくて半分は出してくれたじゃない」


 この二泊三日の温泉旅行の為に、『クロワッサン』で働いた賃金をマスターに無理を言って前払いしてもらった。お髭の生えた熊さんみたいなマスターは、嫌な顔ひとつせずにわたしの我儘をきいてくれた。マスターはちょっぴり強面だけど、とっても優しい人なんだって一緒にいていつも感じる。想定以上にお金がかかると知って、行き先を黙ってびっくりさせようとしていた計画が駄目になってしまったのは残念だったな。


「お父さん、楓がせっかく連れてきてくれたんだから、心ゆくまで楽しみましょう」


「むぅ。しかしだな……」


「ささ、どうぞどうぞ」


 お母さんが徳利を傾けると、お父さんが「おっとっと」なんて言いながら慌ててお猪口でお酒を受け止めた。お父さんがお返しにお母さんのお猪口になみなみとお酒を注ぐ。相変わらず仲がいいなぁとにまにましながら、心のシャッターを押して目の前の幸せな光景を胸にしまい込む。


「ねえ。わたしも呑んじゃだめ?」


 悪戯を思いついて、美味しそうにお酒を呑む二人に問いかけてみる。二人は目をぱちくりとさせて一瞬目を合わせてから、


「なあにを言っとるんだあ」


「だめよ? 楓はまだ高校生でしょう?」


「はぁい。それじゃあ、わたしの分もいっぱい呑んでね?」


 わたしはそう言いながら、慣れない手つきで空のお猪口にお酒を注ぐ。娘に注がれて上機嫌なお父さんが、次々とお猪口を空にしていく。お父さんはだんだんと呂律が回らなくなってきて、焚き付けすぎたかな、と少し心配になってお母さんの顔色を覗き込む。お母さんは少し頬を赤くしながら、「今日はいいのよ」と仕方なさそうに首を振った。


「ちっちゃな楓がなあ、俺に抱き着いてこう言うんだ。『お父さん、怖いから楓が寝るまで起きててね』ってなあ。思わずこうな、ギュっとしちゃってなあ」


「えー。わたし、そんなこといってた?」


「そうよ? 布団に入って電気を消したら、ぐすぐす泣き出したのよ。なだめるのが大変だったんだから。今日は泣かないわよね?」


「泣くわけないでしょう! もう。お母さんったら」


「うふふ。でも、昔泊まった部屋に偶然また泊まれるなんて驚いたわあ」


「まったくだ。とんだ幸運を運んでくれた神様に感謝しなきゃなあ」


 お父さんがしみじみと呟く。


「わたしの日頃の行いが良かったからよ」


 そう言って二人に笑いかける。


 部屋に案内されて中に入ると、二人して子供みたいに大声ではしゃいでいるから何事かと思った。わたしは覚えていなかったけれど、わたしが子供の頃に泊まった部屋と偶然同じ部屋に案内されたみたい。電話で予約をしたら、たまたま一部屋だけ空いていたというのもそうだけど、世界ってとっても優しく出来ているなって心の底から思う。


 昔話に花を咲かせていると、仲居さんが様子を伺いにやって来た。


「そろそろ寝るかあ」


 お父さんがそう言うと、仲居さんがてきぱきと食事を片づけて、短い畳の廊下を挟んだ向かいの八畳間に、あっという間に布団を敷いて去っていった。


「うーん。寝るぞー」


 お父さんがだらしなく布団の上で大の字に寝ころんで、すぐにいびきをかきはじめた。


「さすがに飲み過ぎたのかしら」


 お母さんが困ったような顔をして言う。二日酔いにならないといいけど。ちょっぴり罪悪感。


「私ももう寝るわ。楓はどうする?」


「んー。まだ眠くないし、露天風呂にいってこようかな」


「あらいいわね。私はお酒呑んじゃったから、明日の朝に入るわ。気をつけて行ってらっしゃい」


「うん。おやすみ、お母さん」


「おやすみ、楓」


 お母さんはわたしににっこりと笑いかけると、しゃがみこんでお父さんにお布団をかけた。お父さんはむにゃむにゃと何か言っている。まるで親子みたいだと吹き出しそうになるのを堪えて、ゆっくりと襖を閉めた。

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