12月27日(木) - 5 days to the last day-

珈琲飲み納め 1/2

「お客様、ご注文はいかがいたしましょう?」


 楓が悪戯っぽい目をして、いつもより心なしか丁寧な口調で僕に尋ねた。


「ブレンド一つ。ブラックでね」


「かしこまりました。少々お待ちください」


 楓はぺこりとお辞儀をすると、僕に向かって胸の前で小さく手を振った。照れながら左手をひらひらさせて返す。楓はそれを見て満足そうに頷いてから、軽快な足取りでカウンターへ戻っていった。


 今日は『クロワッサン』の最終営業日。明日からは年末の休みに入るので、年が明けて三が日を過ぎるまでマスターの淹れる珈琲ともしばしのお別れだ。もちろん、マスターとも。カウンター席は、同じように珈琲の飲み納めにやって来たのか、年配の常連客がずらりと並んでマスターと談笑している。僕にはそこへ割って入る度胸がないので、少し離れたカウンター席に着いておとなしく小説を読むことにしたのだ。


「お待たせいたしました」


 しばらくして、楓がトレイに珈琲カップを乗せてやってきた。丁寧な所作で珈琲カップをソーサーごとテーブルに置くと、その隣に小さな紙袋をでんと置いた。


「ご注文のブレンド珈琲と小説五冊セットです。ご一緒にお楽しみくださいね」


「五冊? もう読んだの?」


 驚いて紙袋の中を覗くと、楓から借りている小説の六巻から十巻までが入っていた。


「うん。面白くて一気に読んじゃった。読み終わるまでいてもいいのよ?」


 楓は接客スタイルを崩し「ふふふっ」と可愛らしく微笑んで魅力的な提案をしてくる。しかしもう午後の三時を過ぎている。読み終わるまでいたら閉店時間を過ぎてしまう。


「読み切れなかったら借りてもいい?」


「もちろん! 後で感想聞かせてね?」


 楓が跳ねたのか、板張りの床がコツリと小さく鳴った。


「ありがとう。借りている本を持ってくればよかったな」


 目の前の五冊を合わせると、楓から借りた本は全部で九冊になる。さすがに借りっぱなしでは気の引ける量だ。


「読み終わったらまとめて楓の家まで持っていくよ。渡すには重たい量だし」


「ありがと。でも急いで読まなくてもいいのよ。ごゆっくり」


 最後に仕事モードに戻った楓がぺこりとお辞儀をして去っていく。楓の後ろ姿を眺めながら、つい数日前とはえらい違いだと改めて思う。あの日にあの小説を読んでいなかったら、もしかすると続編の存在を一生知ることがなかったかもしれない。そう考えると、こうして六巻に手を伸ばすこの瞬間を、小さな奇跡のひとつと呼んでもいいと思う。楓と出会ってからの毎日のように。小説と違って僕らの物語にまだ終わりはない。序章かもしれないし、あまり考えたくもないけれど最終章かもしれない。ただ、終わってはいない。少なくとも十一巻目があって欲しいと願いながら、楓から貰ったブックカバーを付け替えた。


 六巻を読み終えたところで、珈琲のおかわりをして一息をつこうとベルを鳴らした。カウンターに目をやると、常連客は皆帰ったようで、端っこにおじいさんが一人座って静かに新聞を読んでいるだけだった。


「お呼びになりましたか?」


 楓が足早にやってくる。


「おかわりを頼みたいんだけど……カウンターに移ってもいい?」


「どうぞ。それじゃあ、カップは下げちゃうね?」


 ときたま零れる普段の口調がやけに心地いい。


「ありがとう。それとクロワッサンも一つ。小腹がすいた」


「かしこまりました。ふふっ。ずっと読んでたもんね? 面白かった?」


「うん。修羅場が落ち着いてようやく一安心した」


「あははっそうだね。これからもう一波乱ありそう?」


 楓は試すような目をしている。


「その聞き方じゃ『ある』って言ってるようなものじゃないか」


 苦笑して答える。六巻は誰が読んだって次にもう一波乱あるような引きだった。


「ごめんなさぁい。でもあるかどうかは分からないわよ?」


「そうだね。楽しみにしとくよ」


「うふふ。そうして? それでは、どうぞカウンター席へ」


 カップをトレイに置いた楓に促されてカウンター席へ着く。


「今日は大人しいじゃないか」


 珈琲を淹れる準備をしながら、マスターがこちらを見ないまま言う。


「この店もね」


 店内をぐるりと見渡しながら答える。クリスマスの装飾はすべて撤去されていて、いつもの落ち着いた雰囲気に戻っていた。つい一昨日騒いだ場所とは思えない。


「この前は特別だ。だが、来年のクリスマスはもっと華やかにするつもりだ」


 自分の手元を見つめるマスターの目が、期待に輝いているように見える。


「どうせならバレンタインデーとかハロウィンとか、他にもイベントしたら良いのに」


 思い付きでぼそりと呟くと、マスターの手がぴたりと止まった。


「いまなんて言った?」


「え……。他のイベントもやったら? って……なにさ」


 顔をがばっと勢いよく上げたマスターが、輝く目で僕をじっと見据えていた。


「お前もいいことを言うようになったなあ。バレンタインにはチョコレートケーキを出そう。ハロウィンにはクッキーも焼いてだな」


 マスターはもう僕を見ていない。頭の中はお菓子作りでいっぱいになっているようだ。熊のような図体を一皮剥くと、中には砂糖菓子がいっぱい詰まっているだなんて誰も想像すらしないだろう。


「マスター、手が止まってる」


 僕が指摘すると、マスターは「はっ」とトリップから戻ってきて、


「また相談させてくれ」


 手元に視線を戻してぼそぼそと呟いた。


「次からはバイト代かかるからね」


 毎月イベントがあったら楽しいだろうな、と色んな衣装を着る楓を想像した。

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