森の熊さんの恋愛相談室

 『クロワッサン』に着くと、扉には『CLOSED』のプレートが下がっていた。


 僕はそのまま取っ手に手をかけて扉を開いた。


 中に入ると、薄暗い店内でマスターが一人、珈琲を淹れていた。


「おう、戻ったか坊主。そろそろ戻って来るかと思ってな。すぐ出来るから座っとれ」


 マスターは視線を外さずに言う。僕はカウンター席に座り、いつものようにサーバーへ滴る珈琲を眺めた。しばらくして、


「お疲れさん。おごりだ。飲め」


 マスターはカップに注いだ珈琲を僕の前にカチャリと置いた。嗅ぎ慣れたアロマが鼻孔をくすぐる。「ありがとう」と言ってそのまま口をつけた。口の中で珈琲を転がしてみたが、どうしても甘みは見つからない。


「そういや、タクシー代はどうした?」


「楓のお母さんが一万円くれたんだ。二千円くらい余ったけど、取っといてくれって言うからさ。明日、フルーツでも買ってお見舞いに行こうと思ってる」


 カップがソーサーに触れ、カチャリと鳴る。


「そうか。水無月の嬢ちゃんはうちの従業員でもあるから気にせんでも良かったんだがな。まあしかし、好意に甘えるとするか。坊主、見舞いに行く前にここ寄れるか? 病み上がりに食えるか分からんが、うちのクロワッサンを持っていってほしい」


 髭をしきりに撫でるマスターに、僕はコクリとうなずいた。


「楓のお母さんが、今度挨拶に来るってさ。いつとは言ってなかったけど。お母さんがここの衣装を見たら、なんて言うんだろうね」


 僕がにやりと笑うと、マスターは、


「あれはちゃんとした女中服だ。やましいことはない」


「だといいけど」


 僕はふっと笑って珈琲をすする。マスターへの仕返しはこれくらいにしておこう。


「ところで、マスター。酷いじゃないか、部長から聞いてたんだって?」


 僕は抗議の視線をマスターへ向ける。


「あっはっは。白水の嬢ちゃんの進言でな。きっと面白い顔を見れるから黙っておけと。確かに、坊主の顔は面白かったぞ」


 豪快に笑うマスターに、僕は顔をしかめた。


「やけに部長があおって来るなと思ったんだ。それで?打ち合わせって具体的に何をするのさ」


「ああそうだったな」


 マスターは今しがた思い出したかのようにつぶやくと、


「打ち合わせってほどではないんだがな。白水の嬢ちゃんから連絡を受けてから、当日出そうと考えているメニューと、お前さんらにしてもらいたいことを紙に書いてまとめてみたんだ。それを渡そうと思ってな」


 傍らに置いてあったA4用紙を一枚差し出す。僕は受け取って一通り目を通した。


「へぇ。ケーキはショートケーキとチーズケーキとモンブラン。どれも好きなケーキだ。軽食も増えてる。手伝いは、呼び込み三人とホール一人と厨房一人ね。状況に応じて呼び込みとホールは入れ替わる、と。割り振りは部長に相談してみるよ」


 僕は視線を上げて答えた。連絡を受けてそう時間は経ってないというのに、マスターは必要な材料や料金設定など綿密に計画を立てている。図らずも千見寺の案はマスターにクリティカルヒットしたようだ。


「明日は店を閉めて一通り試作してみるつもりだ。まったく、突然とんでもない話を持ってきてくれたもんだ。しかし、俺にとっては渡りに船だ。もともと人を雇って色々と始めようとは考えていたからな。水無月の嬢ちゃんといいお前さんらといい、よくもまあちょうど良く話を持ってきてくれたもんだよ」


 マスターはうんうんと頷いている。お試しというやつか、と僕は思った。イヴの集客に成功したら、人を雇って徐々に拡大していくのだろう。満席の『クロワッサン』を想像してみる。おちおち本も読んでいられないな。


「試食する人も必要?」


 試作と聞いて思わず反応した。


「おう。食べに来て良いぞ。なんだったら、他の部員も連れてきて良い。感想も聞けるしな」


「じゃあ、明日みんなを連れて来るよ。そのあと楓の見舞いに行く」


 残りの珈琲を飲み干す。


「そうか。それじゃあ、張り切って作るとしよう」


 マスターはにかっと笑った。


「それでだ。衣装はどうするんだ。うちには水無月の嬢ちゃんに着せる女中服が一着あるだけだ。とてもじゃないが、お前らの分まで用意できん」


 そう言うと、マスターは表情を曇らせた。僕は、待ってましたとばかりに部長のおかげで使えなかったカードのひとつを切る。


「それは大丈夫。僕の母親が家で誰にも着せない服を量産しているから、こっちで用意するよ。クリスマス衣装でも良い?」


「そうか――まあ、派手すぎなければな。ただ、うちは雰囲気を大切にしているからな。仕立ての良い服でないと困るぞ?」


 マスターは怪訝けげんそうに眉を寄せる。『派手すぎず仕立ての良い服ならOK』という言質を取った僕はにやりとして、


「大丈夫。僕の母さんの腕はプロ並みだから。可愛い服に命を懸けてるようなもんだし、安い生地も使ってないよ。なんだったら、『クロワッサン』用の衣装の注文してみる? 喜んで受けると思うよ」


「そこまで言うなら任せるが。注文は考えておく」


 どうやらマスターは納得してくれたようだ。心の中でガッツポーズをする。これで千見寺との友情は果たされた。そしてここからが僕にとっての本番だ。


「――で、楓のぶんはどうする?」


 僕はさりげなく問いかけたが、無駄だった。


「――ほう。坊主の目的はそれか」


「ぐっ――」


 狙いを隠し通せるとは思ってもいなかったが、初っ端に先制パンチを食らうとは思ってもいなかった。どうせこれから自分の情けないところをさらけ出すつもりなので、変に隠すのは無駄だろう。


「楓にもクリスマス衣装を着てほしいんだけど、雇用主としてはどう?」


 欲望丸出しで尋ねた。


「あっはっは。開き直るのがやけに早いな坊主。ええおい?」


 マスターが今日一番の笑顔を見せる。


「隠しても仕方ないでしょ。それで? どう?」


 僕はむすっとして答える。駆け引きはとっくに終わっていた。


「まあ構わんぞ。店としては安っぽいものじゃなければ良い。その辺はわきまえてくれるんだろ? 水無月の嬢ちゃんが良いって言うのなら、止める理由なんぞない」


 僕はほっと胸を撫で下ろしたが、もう一つだけ確認しなければならないことがあった。


「そもそも楓はイヴとクリスマス、どっちも出るの? 今まで土日は見かけたことなかったし、休みの日だとかは予定があるんじゃ?」


 どちらかと言えばこっちの方が重大な問題だ。もし、もしもだ。楓に仲の良い男子、か、彼氏なんかが居るとすると、クリスマス衣装を着るかどうかの話ではなくなる。僕の初恋は見事に砕け散り、もそもそとクロワッサンを食べるだけのクリスマスになるだろう。クリスマス衣装を着てくれるか打診した答えが『クリスマスは彼氏と過ごすから、ごめんね?』だったりした日には、立ち直る自信が無い。あらかじめマスターに確認しなければならない最重要事項である。僕はごくりと唾を飲み込んだ。


「そうだよなあ。気になるよなあ?」


 マスターは今日一番を更に上回るにやけ面を披露している。僕は黙ってマスターをじっと見つめた。


「おいおい何か反応してくれよ。……はぁ、わかったわかった」


 言葉で勝てないなら黙れば良い。功を奏したのか、マスターは観念したように続ける。


「白水の嬢ちゃんにうちのバイトも参加させていいか訊いたら、嬉しそうに『是非!』と言うもんでな。水無月の嬢ちゃんが来た時に、俺はどちらも出るかどうか既に確認してるんだよ」


 僕は無言で続きを促す。口の中にはもう飲み込むものが何もない。マスターは「はぁ」とため息をついて、


「ここまで言えば分かるだろう? 皆まで言えってか? 全く。嬢ちゃんはどっちも出るんだよ。よかったな、坊主!」


「よしっ!」


 僕は思わず大きくガッツポーズをしていた。確証があるわけではないが、楓にそういった人は今のところいない。いないったらいない。


「坊主……もう隠す気も無くなっちまったか。こいつは重症だな」


 マスターはやれやれと肩をすくめる。


「そうなんだよ、マスター。僕はいま重症なんだ。ねえ、どうしたらいいと思う?」


 僕はすがる様にマスターを見る。マスターは呑んだくれて潰れた酔っ払いを見るような目で僕を見て、


「んなもん自分で考えろ」


 そう突き放した。


「ちょっとくらい、客の相談に乗ってくれてもいいじゃないか」


 僕は拗ねて駄々をこねた。マスター以外に頼る人などいないのだ。


「あのなあ、坊主。いくら相談しても状況は何も変わらないし、お前さんの気持ちもやるべき事も変わらんだろう?『どうしたらいい?』なんて情けないことは言うもんじゃない」


「……そうかも。ごめん」


「まあ坊主のそういった謙虚なところは認めるがな。じゃあ一つだけ人生の先輩がアドバイスしてやろう」


「よしきた。さすがマスター」


 僕は精一杯の期待を込めた視線を送った。


「くれぐれも暴走はするなよ? 自分の想いだけをぶつけるのは、絶対に駄目だ。相手あってのものだからな。ちゃんと相手の想いを汲み取って、然るべきときに自分の想いを伝えるんだ。頭の良いお前さんならきっと大丈夫だ」


 やっぱりマスターは頼りになる。


 僕はマスターの言葉を何度も何度も胸に刻み込んだ。

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