ふうのへや

 楓をかまちにゆっくりと座らせて、自分の革靴を脱いで先に上がる。振り向くと、楓のお母さんが甲斐甲斐かいがいしく楓の靴を脱がせていた。


 僕は楓に背中を向けてしゃがみ込み、肩越しに「部屋までおぶってくから」と声を掛ける。楓はおずおずと僕の首に細い両腕を回し、背中に抱き着いて体を預けた。つつましくも柔らかいふたつの膨らみが、僕の薄い背中で押しつぶされる。無理矢理に邪念を吹き飛ばし、勢いよく立ち上がった。タクシーでは重かったが、背負ってみると楓は雲のように軽かった。


「部屋、どこ?」


「あっち」


 楓が肩越しに階段を指さす。僕は足に力を込めて、階段をぐんぐん昇って行った。


「おかゆ作ったから薬と一緒にすぐ持って行くわね!」


 バタバタと廊下を走る音が背中に聞こえた。


 階段を昇りきると、突き当りに部屋があった。扉には親切にも『ふうのへや』と書かれた花柄の可愛らしいプレートが掛けられていた。


「楓、ここでいいんだよな? 開けるよ」


「うん」


 僕は宝石箱を扱うようにうやうやしくドアを開いた。楓を背負ったまま手探りで電気を点けると、蛍光灯が瞬いて、目の前に楓の部屋が現れた。楓のお母さんが事前にエアコンのスイッチを入れていたようで、部屋の中はじんわりと暖かい。


 女の子の部屋に入るのは初めてだ。思ったより殺風景さっぷうけいなんだな、と思った。


 八畳ほどの部屋には、勉強机とベッドと本棚とローテーブルと箪笥たんすくらいしかない。物はほとんど出て無くて、綺麗に片付いている。パッと見は殺風景さっぷうけいだったが、よく見ると勉強机に小さなトナカイのぬいぐるみが置いてあったり、枕が花柄だったり、ほとんど小説が並ぶ棚に少しだけ古い少女漫画があったり、ローテーブルに熊の目覚まし時計が置いてあったり、箪笥たんすに世界的に有名な猫のキャラクターシールが控え目に一枚貼られていたりと、女の子らしい一面を所々で見つけることが出来た。


「いてっ」


 頭に軽い衝撃があった。


「恥ずかしいから、じろじろ見ないでぇ」


 楓が消え入るような声を上げながら、力なくぽかりと僕の頭を叩いていた。


「ご、ごめん。それじゃあ降ろすよ?」


 僕はそう言って、楓をベッドにゆっくりと降ろした。楓はそのままぽすんと横になって、


「お母さんが来るまでいてくれる?」


 甘えた声がじんわりと僕の耳に染み込む。


「タクシー待たせてるから少しだけ」


 僕はそのままずるずると床に座り込んだ。肩越しにベッドに顔を向けると、ばっちりと目が合った。


「ね、熱があるのか?」


 分かっているはずなのにそう聞いた。


「うん――こほっ。家を出るときはまだ大丈夫だったんだけどね――こほっこほっ」


「ごめん。無理に喋らなくていいよ」


「――ん」


 部屋が静寂に包まれる。楓の部屋は女の子の匂いというよりも、どこか懐かしい匂いがした。どこかで嗅いだことがあるような気がする。


 テーブル上の熊の目覚まし時計を見つめる。カチリと長針が一つ動く間に、楓が3回咳き込んだ。おかゆを食べて、咳止めと熱冷ましの薬を飲んでもらいたい。早く楓のお母さんに来てほしい。自分がいると楓は着替えることも汗を拭くことも出来なくて、体がどんどん冷えてしまう。ふと、ポケットにハンカチが入っていることを今更思い出して、慌ててゴソゴソと取り出した。


「楓、せめて顔の汗だけでも拭くよ」


 膝立ちになって楓を覗き込む。楓は薄目を開けてから小さく頷くと、再びゆっくりとまぶたを降ろした。僕はハンカチを持った手をそーっと近づけて、じっとりと汗ばんだ楓の額を撫ぜた。スチームポットのように熱い。額に張り付いた前髪を掻き上げてやると、楓は気持ちよさそうに「んっ」と声を漏らした。


「食欲はある?」


 楓は小さく首を振った。


「おかゆはちゃんと食べなよ? 薬を飲んでゆっくり休んで」


 部屋の外で階段がゆっくりときしむ音が聞こえた。僕は立ち上がり、部屋の扉を開けて、おかゆと薬が乗ったトレイを持つ楓のお母さんを招き入れた。美味しそうな香りが部屋に立ち上る。


 楓のお母さんは僕に「ありがとう」と礼を言ってから、トレイを静かにローテーブルに置いた。楓のお母さんは大分落ち着いた様子で、僕は胸を撫で下ろした。


「楓、おかゆを冷ましている間に体を拭いて着替えなさい。タオルと着替えを出すわね」


 楓のお母さんは、そう楓に声を掛けてから僕へ向き直る。


「あなた、お名前は?」


「楠光葉です。楓が働いている喫茶店で知り合って、僕は客です」


 僕は慌てて自己紹介をする。つい聞かれていないことまで答えてしまった。楓のお母さんは優し気に目を細めた。


「楓と仲良くしてくれているのね。光葉くん、今日はここまで楓を連れてきてくれてどうもありがとう。とても助かったわ」


 楓のお母さんはエプロンのポケットから一万円札を取り出して、


「これ、タクシー代。お釣りは取っておいて。喫茶店に戻るのなら、温かい珈琲でも飲んでちょうだい」


「あ、でも。喫茶店のマスターが出すって」


「そこまでご迷惑を掛けるわけにはいかないわ。受け取ってちょうだい」


 これ以上有無を言わさぬように差し出すので、光葉はお金を受け取って、


「わかりました。マスターにもそう伝えます」


 そのままポケットにしまった。楓のお母さんはほっとしたような表情で、


「ありがとう、光葉くん。マスターさんにも後でご挨拶に伺うとお伝えくださる? 一度、楓のお話を聞きたいとも思っていたの。お仕事でもご迷惑を掛けていないと良いのだけど」


 楓のお母さんは、そう言って楓を見やる。


「いえ。楓はしっかりしていますよ。珈琲もいつもより美味しく感じます」


「あらそう? うふふ、光葉くんは優しいのね。さて、そろそろ楓を着替えさせないと」


 楓のお母さんは、エプロンを軽く二、三度叩いた。


「邪魔してすみません。では、僕はこれで。僕が言うのは変かもしれませんが、楓の事、よろしくお願いします」


「もちろん。任されました。光葉くん、追い出すみたいでごめんなさいね。また楓に会いに来てちょうだい。そのときは、改めてお礼をさせてもらうわ」


 楓のお母さんは、優しく笑った。その笑顔を見て、やっぱり母娘だなと光葉は思った。


「――光葉、」


 部屋を出ようとする僕に、楓が弱々しく声を掛ける。


「光葉、ありがとう」


 絞り出すように、しかしはっきりと言った。


「どういたしまして。お大事に」


 僕は後ろ髪を引かれながら楓の実家を後にした。

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