ソー・ロング

 店の入り口を見やると、気の弱そうなタクシーの運ちゃんが、恐る恐る店内の様子を伺っていた。僕はうつむく楓に声を掛けて、何とか立ち上がらせた。ふらふらで一人では歩けそうもなく、肩を貸してようやくカウンターを離れた。赤ちゃんのように甘い汗の匂いに酔ってしまって、僕までふらふらになりそうだ。


 扉の前で二人分のコートを回収してから店を出て、運ちゃんがドアを開けてくれたタクシーの後部座席に慎重に楓を押し込んだ。楓は華奢きゃしゃな女の子だが、全体重を預けられるとさすがに重い。本ばかり読んでないで筋トレをする必要があるな、と自分の細腕を見ながら思った。


 ドアを閉めて後ろから迫る車に気を付けながら反対側に回る。頃合いを見計らって乗り込むと、少し潤んだ縋る目と合った。思わず投げ出された楓の手を握ると、楓は窓にコツンと頭を預けて、安心したかのように静かに目をつむった。


 そんな場合じゃないと分かっているのに、まるで縫い留められてしまったかのように、楓から視線を外せない。


 汗に濡れて束になった前髪が、おでこに張り付いている。長い睫毛が息をつく度に震えている。頬は薄桃色に上気していて、少しだけ開いたぷっくりとした唇の間からは、真っ白い小ぶりな歯が見え隠れして熱い吐息を漏らしている。かしいだ頭と反対側のあごのラインが強調されてなまめかしい。襟元えりもとが乱れて鎖骨の辺りまで見えてしまっている。つつましい胸が深く上下している。プリーツスカートから飛び出したシャツが捲れて、白磁はくじの様なお腹がチラリと――


「どちらまで?」


 ふいに声を掛けられて我に返る。慌てて抱えていたコートを楓にかけて、見てはイケナイものを隠した。悪事をとがめられた時のように、胸の奥がキリキリ痛んだ。運ちゃんが、気まずそうにバックミラー越しに僕を見ていた。


「――えっと、とりあえず、花木町の駅前に向かってください。そこからまた誘導します」


「わかりました。では」


 運ちゃんがメーターのスイッチを入れ、アクセルをゆっくりと踏む。楓の頭が少し揺らいだが、冬に冷やされた窓が気持ち良いのか、目をつむったままだった。どうやら僕の邪な視線には気づいていない。


 楓を見ないようにしてしばらく窓の外を眺めていると、夕暮れと夜とが混じった光景が、やがて店から漏れる蛍光灯と安っぽいネオンと気の早い電飾の濁流だくりゅうに変わった。静かな車内で、楓の熱い吐息と乾いた咳だけが響く。楓の体調はすぐに良くなるのだろうか。この様子じゃ、クリスマスどころじゃない。マスターが言う様にただの軽い風邪で、次の日にはケロリと治っているといいなと僕は心の中で祈る。


 そして、あの雪の日、無理矢理でもタクシーを捕まえて帰れば良かったと後悔する。自分が欲に負けなければ、楓はこんな辛い思いをしなくて済んだかもしれない。それか、せめて繋いだ手をコートのポケットに仕舞う甲斐性かいしょうがあれば、少しは違ったかもしれない。左手に握った楓の手が、ピクリと動いた。


「―――せんぱ、い?」


 振り向くと、楓が頭をもたれかけたまま、薄目を開けてこちらを見ていた。


「寝ぼけてる? 着くまでそのまま寝てなよ」


 努めて優しく声を掛ける。


「――みつ、ば。迷惑かけて――こほっ。ごめんね」


 辛そうな顔をしてそんなことを言うものだから、つい、


「マスターがこないだ言ってたけど、」


 喉をごくりと鳴らす。僕は今、マスターの言葉にかこつけてとても恥ずかしいことを言おうとしている。


「こういう時は、『ごめんね』じゃなくて『ありがとう』だよ」


 少し声が震えたかもしれない。


「ふふっ――こほっこほっ。いま光葉の顔にお髭が見えた。似合わない」


 むせたのは咳か笑いか。とにかく、今日初めて笑顔を見れた気がする。


「ほら、馬鹿なこと言ってないで寝てなよ。もうすぐ着くから」


「はぁい」


 楓は何が面白いのか、にやにやしながら目をつむっている。


 少しばかりの勇気で楓の辛さが薄まるのなら、いつだって道化を演じてもいいと僕は思った。


「お客さん、そろそろ花木町はなきちょうに着きますが」


 運ちゃんがタイミング良く声を掛けた。


「駅前の大通りを抜けて、三つめの信号を左に折れてください」


「わかりました」


 再び車内に静寂が戻る。


「ここで?」


「はい。ここを曲がって、しばらく進むとコンビニがあるので、そこを右に」


「こちらで?」


「そのまま真っすぐ行って、そこ、そのパーキングのところで止めてください」


 タクシーがゆっくりと止まる。


「ここで一人降りるので、しばらく待っててください。僕は乗ったところまで戻ります」


 僕は運ちゃんにそう告げてから、ドアを開けて反対側へ回り込む。窓にもたれかかっているので、このままドアを開けたら楓が落ちてしまう。窓をコンコンと叩くと、楓がはっとしてほうけた顔をした。ゆっくりドアを開けて肩を貸す。楓を半ば担ぐようにして玄関先に向かい、インターホンを鳴らした。バタバタと音がして、勢いよく引き戸が開かれると、品の良い女性が慌てて姿を見せた。楓のお母さんにしては少し年配だな、と僕は失礼なことを考えてしまった。


「楓っ! 可哀想に、こんなになるまで!なんとまあどうしましょう。あなた、わざわざ送ってくれたの? 本当にどうもありがとうねっ。重ね重ね申し訳ないけど、楓を部屋まで連れて行ってもらえないかしら?お父さんがまだ帰ってなくて私一人じゃ……」


 楓のお母さんが目に涙を浮かべながらオロオロしている。あまりの慌てぶりに、そこまで大事おおごとなのかと肝を冷やしていると、楓が、


「――こほっ。お母さん、大袈裟だなあ――こほこほ。光葉も心配しないで。ただの――こほっこほっ、風邪だから。わたし、遅い子だから変に過保護なの」


 楓のお母さんと僕とを安心させるように笑った。


「楓に何かあったらと思うと心配で心配で。喫茶店のマスターさんから電話を受けたときには心臓が止まるかと思ったわ。昔の事思い出しちゃって。ほら、外は寒いから早く入って」


 楓のお母さんは、僕ら二人を家の中に押し込むと、引き戸をピシャリと閉めた。

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