ソー・ロング
店の入り口を見やると、気の弱そうなタクシーの運ちゃんが、恐る恐る店内の様子を伺っていた。僕は
扉の前で二人分のコートを回収してから店を出て、運ちゃんがドアを開けてくれたタクシーの後部座席に慎重に楓を押し込んだ。楓は
ドアを閉めて後ろから迫る車に気を付けながら反対側に回る。頃合いを見計らって乗り込むと、少し潤んだ縋る目と合った。思わず投げ出された楓の手を握ると、楓は窓にコツンと頭を預けて、安心したかのように静かに目を
そんな場合じゃないと分かっているのに、まるで縫い留められてしまったかのように、楓から視線を外せない。
汗に濡れて束になった前髪が、おでこに張り付いている。長い睫毛が息をつく度に震えている。頬は薄桃色に上気していて、少しだけ開いたぷっくりとした唇の間からは、真っ白い小ぶりな歯が見え隠れして熱い吐息を漏らしている。
「どちらまで?」
ふいに声を掛けられて我に返る。慌てて抱えていたコートを楓にかけて、見てはイケナイものを隠した。悪事を
「――えっと、とりあえず、花木町の駅前に向かってください。そこからまた誘導します」
「わかりました。では」
運ちゃんがメーターのスイッチを入れ、アクセルをゆっくりと踏む。楓の頭が少し揺らいだが、冬に冷やされた窓が気持ち良いのか、目を
楓を見ないようにしてしばらく窓の外を眺めていると、夕暮れと夜とが混じった光景が、やがて店から漏れる蛍光灯と安っぽいネオンと気の早い電飾の
そして、あの雪の日、無理矢理でもタクシーを捕まえて帰れば良かったと後悔する。自分が欲に負けなければ、楓はこんな辛い思いをしなくて済んだかもしれない。それか、せめて繋いだ手をコートのポケットに仕舞う
「―――せんぱ、い?」
振り向くと、楓が頭をもたれかけたまま、薄目を開けてこちらを見ていた。
「寝ぼけてる? 着くまでそのまま寝てなよ」
努めて優しく声を掛ける。
「――みつ、ば。迷惑かけて――こほっ。ごめんね」
辛そうな顔をしてそんなことを言うものだから、つい、
「マスターがこないだ言ってたけど、」
喉をごくりと鳴らす。僕は今、マスターの言葉にかこつけてとても恥ずかしいことを言おうとしている。
「こういう時は、『ごめんね』じゃなくて『ありがとう』だよ」
少し声が震えたかもしれない。
「ふふっ――こほっこほっ。いま光葉の顔にお髭が見えた。似合わない」
「ほら、馬鹿なこと言ってないで寝てなよ。もうすぐ着くから」
「はぁい」
楓は何が面白いのか、にやにやしながら目を
少しばかりの勇気で楓の辛さが薄まるのなら、いつだって道化を演じてもいいと僕は思った。
「お客さん、そろそろ
運ちゃんがタイミング良く声を掛けた。
「駅前の大通りを抜けて、三つめの信号を左に折れてください」
「わかりました」
再び車内に静寂が戻る。
「ここで?」
「はい。ここを曲がって、しばらく進むとコンビニがあるので、そこを右に」
「こちらで?」
「そのまま真っすぐ行って、そこ、そのパーキングのところで止めてください」
タクシーがゆっくりと止まる。
「ここで一人降りるので、しばらく待っててください。僕は乗ったところまで戻ります」
僕は運ちゃんにそう告げてから、ドアを開けて反対側へ回り込む。窓にもたれかかっているので、このままドアを開けたら楓が落ちてしまう。窓をコンコンと叩くと、楓がはっとして
「楓っ! 可哀想に、こんなになるまで!なんとまあどうしましょう。あなた、わざわざ送ってくれたの? 本当にどうもありがとうねっ。重ね重ね申し訳ないけど、楓を部屋まで連れて行ってもらえないかしら?お父さんがまだ帰ってなくて私一人じゃ……」
楓のお母さんが目に涙を浮かべながらオロオロしている。あまりの慌てぶりに、そこまで
「――こほっ。お母さん、大袈裟だなあ――こほこほ。光葉も心配しないで。ただの――こほっこほっ、風邪だから。わたし、遅い子だから変に過保護なの」
楓のお母さんと僕とを安心させるように笑った。
「楓に何かあったらと思うと心配で心配で。喫茶店のマスターさんから電話を受けたときには心臓が止まるかと思ったわ。昔の事思い出しちゃって。ほら、外は寒いから早く入って」
楓のお母さんは、僕ら二人を家の中に押し込むと、引き戸をピシャリと閉めた。
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